2010年08月
2010年08月20日
私の足跡 62 中山道をゆく 9 軽井沢宿~深谷宿
私の足跡 62
中山道をゆく 9 軽井沢宿~深谷宿 約70km
青線は是までに公開した所、赤線は今回公開した所
大阪から軽井沢宿迄夜行バスで行く。
早朝、バスを降り、ひっそりとした昔の面影のない軽井沢宿を歩く。
教会の前に軽井沢開発の恩人、英国人宣教師アレキサンダー・ショーの記念碑がある。
中山道隋一の難所といわれた上信越国境の碓氷峠を越える。これで信濃路を終わったことになる。
峠には、熊野神社があり、傍に力餅屋がある。早速注文をしてご馳走になる。気さくなご夫婦が経営をしていて、ポラロイド写真を撮ってその写真を頂く。そして、新年には年賀状まで送ってくれた。
峠を過ぎれば下り坂 「座頭ころがし」 赤土で小石がゴロゴロ。
「覗」という坂本宿を見下ろせ、よく見える所。「坂本や袂の下の夕ひばり」と一茶が詠んだ。
この付近に「横川」という地名がある。横川といえば、駅前に昔の鉄道ファンには懐かしい「峠の釜飯」の店がある。また、鉄道博物館もある。
現在、新幹線が走り、廃線になっている「めがね橋」も見に行く。明治25年に完成し、芸術と技術が融合した美しいレンガ造りのアーチ式で川底から31mの高さがある。このような橋梁は、第2橋梁から第6まての5基が残っており、国の重要文化財となって観光スポットとして最近人気が上がっている。
坂本宿は本陣2 脇本陣2 旅籠40軒と宿泊施設が多いが、これは この宿の前後に峠や関所を控え、旅装を解く人達が多かったから。
昔のままの門構えの本陣・永井家や連子・格子の家が残っているが昔の賑わいがない。
碓氷関所跡(横川関所跡)。東海道の箱根の関所とともに、「入り鉄砲に出女」を取り締まった重要な関所であった。設置は平安時代といわれる。ここに設けられたのは1622年である。今は関所資料館になっている。その資料館の前に、旅人が手形の改めを受けると、お辞儀をして手をついた「お辞儀石」も残っている。
五料村茶屋本陣の名主屋敷・中島家がある。茶屋本陣は、参勤交代の大名や公家の休憩所で、宿泊施設ではないので、必要な時には名主の居宅等が選ばれた。
五料の夜泣き地蔵がある。昔、馬方が荷物のバランスをとるため落ちていた地蔵の首を馬の背に付けて深谷まで行き、用済みとなった地蔵の首を道端においてきたところその首が夜な夜な「五料恋しや」と鳴き声を発したので深谷の人が届けて胴の上に戻したと言う話がある。
松井田宿は あまり遺構はないが本陣跡や脇本陣跡がある。
江戸初期の寺や神社が多く残っている。上の寺は見事な不動寺の仁王門。
特異な山容の妙義山が近づいてきた。
安中宿
安中宿本陣跡の碑
旧安中藩 郡奉行役宅
復元された旧安中藩の屋敷跡
板鼻宿の本陣跡の碑
「かねつ橋供養塔」がある。旅人のために寒念仏でお金を集めて石橋を改修し、後年、木島某が亡父の遺志でまた改修したという曰くつきの塔である。
高崎は井伊氏の城下町として栄えた。
高崎宿は 城下町だったので本陣・脇本陣は置かれなかった。ただし旅籠は15軒あった。
倉賀野宿の本陣跡の碑
倉賀野宿の脇本陣跡
倉賀野追分は 日光例弊使道と中山道の分岐点。「従是右江戸道、左日光道」の道標と常夜灯がある。常夜灯には寄進者の名前が約300名。
新町宿の本陣跡の碑と芭蕉の句碑がある。
本庄宿の本陣跡の門。
深谷宿の本陣跡の碑
中山道をゆく 9 軽井沢宿~深谷宿 約70km
青線は是までに公開した所、赤線は今回公開した所
大阪から軽井沢宿迄夜行バスで行く。
早朝、バスを降り、ひっそりとした昔の面影のない軽井沢宿を歩く。
教会の前に軽井沢開発の恩人、英国人宣教師アレキサンダー・ショーの記念碑がある。
中山道隋一の難所といわれた上信越国境の碓氷峠を越える。これで信濃路を終わったことになる。
峠には、熊野神社があり、傍に力餅屋がある。早速注文をしてご馳走になる。気さくなご夫婦が経営をしていて、ポラロイド写真を撮ってその写真を頂く。そして、新年には年賀状まで送ってくれた。
峠を過ぎれば下り坂 「座頭ころがし」 赤土で小石がゴロゴロ。
「覗」という坂本宿を見下ろせ、よく見える所。「坂本や袂の下の夕ひばり」と一茶が詠んだ。
この付近に「横川」という地名がある。横川といえば、駅前に昔の鉄道ファンには懐かしい「峠の釜飯」の店がある。また、鉄道博物館もある。
現在、新幹線が走り、廃線になっている「めがね橋」も見に行く。明治25年に完成し、芸術と技術が融合した美しいレンガ造りのアーチ式で川底から31mの高さがある。このような橋梁は、第2橋梁から第6まての5基が残っており、国の重要文化財となって観光スポットとして最近人気が上がっている。
坂本宿は本陣2 脇本陣2 旅籠40軒と宿泊施設が多いが、これは この宿の前後に峠や関所を控え、旅装を解く人達が多かったから。
昔のままの門構えの本陣・永井家や連子・格子の家が残っているが昔の賑わいがない。
碓氷関所跡(横川関所跡)。東海道の箱根の関所とともに、「入り鉄砲に出女」を取り締まった重要な関所であった。設置は平安時代といわれる。ここに設けられたのは1622年である。今は関所資料館になっている。その資料館の前に、旅人が手形の改めを受けると、お辞儀をして手をついた「お辞儀石」も残っている。
五料村茶屋本陣の名主屋敷・中島家がある。茶屋本陣は、参勤交代の大名や公家の休憩所で、宿泊施設ではないので、必要な時には名主の居宅等が選ばれた。
五料の夜泣き地蔵がある。昔、馬方が荷物のバランスをとるため落ちていた地蔵の首を馬の背に付けて深谷まで行き、用済みとなった地蔵の首を道端においてきたところその首が夜な夜な「五料恋しや」と鳴き声を発したので深谷の人が届けて胴の上に戻したと言う話がある。
松井田宿は あまり遺構はないが本陣跡や脇本陣跡がある。
江戸初期の寺や神社が多く残っている。上の寺は見事な不動寺の仁王門。
特異な山容の妙義山が近づいてきた。
安中宿
安中宿本陣跡の碑
旧安中藩 郡奉行役宅
復元された旧安中藩の屋敷跡
板鼻宿の本陣跡の碑
「かねつ橋供養塔」がある。旅人のために寒念仏でお金を集めて石橋を改修し、後年、木島某が亡父の遺志でまた改修したという曰くつきの塔である。
高崎は井伊氏の城下町として栄えた。
高崎宿は 城下町だったので本陣・脇本陣は置かれなかった。ただし旅籠は15軒あった。
倉賀野宿の本陣跡の碑
倉賀野宿の脇本陣跡
倉賀野追分は 日光例弊使道と中山道の分岐点。「従是右江戸道、左日光道」の道標と常夜灯がある。常夜灯には寄進者の名前が約300名。
新町宿の本陣跡の碑と芭蕉の句碑がある。
本庄宿の本陣跡の門。
深谷宿の本陣跡の碑
2010年08月10日
私の足跡 61 中山道をゆく 8 和田宿~軽井沢宿
私の足跡 61
中山道をゆく 8 和田宿~軽井沢宿 48km
青線は既に公開した所 赤線は今回公開する所
和田宿は1861年3月、大火で大半を焼失した。しかし、皇女和宮の将軍家への降嫁が同年11月と決まり、そしてその東下の際の宿泊地として和田宿がきまっていたので、幕府は全力を挙げて宿場復興につとめた。現在残っているかつての建物はその折建築されたものである。
河内屋。 出桁造り出格子の二階建てで、間口は八間半(約15m) 奥行十一間半(約20m)の堅牢な造りで、上客向けの旅籠であったらしい。現在「歴史の道資料館」として公開されている。
和田宿は交通の便の悪いところであったが故に貴重な歴史遺産を多く残している。そして、地元の人もそれを保存することに努力をしていただいているので、うれしいことです。
長井氏の和田宿本陣の御入門 中の居住棟は復元されて公開されている。
脇本陣の翠川家
道中、道祖神に見守れながら長久保宿に向かう。
この地方独特の出桁造りの「一福処濱屋」の大きな建物がある。詳細は下の説明板を。
一階の土間から二階の全ての部屋まで当時の貴重な物を見学できた。
屋根門を持った本陣跡の石合家。この家の家屋は中山道中の最古のものだといわれている。現在居住していて中を見学できなかった。 詳細は下記の標識を。
長久保宿を出て、芦田宿に向かう。
芦屋宿までの間に笠取峠がある。
笠取峠では、松並木があり、石畳の遊歩道も整備されていた。幕府は中山道整備のため小諸藩に命じて芦田宿から笠取峠まで 松の植樹に協力させ、管理も命じた。その並木道も今は約800mしか残っていないが、路傍には石仏もたたずみ、、かつての街道をしのばせる格好のコースとなっている。
芦田宿に到着。
問屋兼本陣であった建物が残っている。贅をつくした建物で見事というばかりであった。
望月宿との間に茂田井間の宿があるが道があまりにも狭かったので、主要道は避けて迂回したため、集落内の家屋がそのまま残され、見事である。
望月宿には 立派な歴史民俗資料館があった。
八幡宿には 立派な本陣跡
八幡宿には 立派な本陣跡や脇本陣跡がある。大きな地名にもなっている八幡神社がある。
細かい彫刻を施した随身門は素晴らしかった。
御馬寄の大日像の前を通り、塩名田宿へ
古い屋並みも残っていた。本陣は2軒。
千曲川につきあたり、これを渡らなければならない。今は橋があるが、昔は徒歩渡し、舟渡し等があったという。船を繋いでおく岩があるというが定かでなかった。
岩村田宿は内藤氏一万五千石の城下町でもあった。旅人は城下町の堅苦しさを嫌ったので旅籠は少なかった。本陣・脇本陣もなかったとある。珍しい。
今は佐久市の中心町として賑わっていた。
重要文化財になっている駒形神社
次の小田井宿へ向けて出発。
小田井宿は、時の流れから取り残されたような町です。出梁造り縦格子の家が多く残っていて、風情のある。
本陣 詳細は下記の標識を。
脇本陣 他に上の問屋・下の問屋などたくさん残っていた。
小田井宿から、しばらく進むと枝垂れ桜の植わった御代田の一里塚がある。
前方に 浅間山を眺めながら追分宿へ。
追分宿の地名ともなった北国街道と中山道の分去れ。
復元された高札場と右端は本陣のあった場所。
堀辰雄や立原道造らの息吹が感受できる抒情の地である。
また、松尾芭蕉の句碑「吹き飛ばす石も浅間の野分けかな」や貝原益軒もこのあたりのことを書いている。
追分宿を出ると、立派な一里塚があったがこれは復元されたものらしい。
沓掛宿は 本陣もなく、本陣跡の碑のみである。宿場町としてかつての賑わった面影がなかった。
沓掛の地名もなく、駅名も「沓掛駅」から「中軽井沢駅」になっていた。
長谷川 伸 作の「沓掛時次郎」の碑が長倉神社に残っている。
千両万両枉げない意地も、人情搦めば 弱くなる 浅間三筋の煙りの下で 男 沓掛 時次郎
ご存知 「剣をとってはめっぽう強いが 義理と人情にはからっきし弱い」 架空の人物・沓掛時次郎の活躍した土地だがこれを知っている人は殆どいないのではないかと思っている。
軽井沢宿は昔の面影は殆ど残っていない。
今は、別荘地として有名になり、我が国の最高の高級避暑地となった。
中山道をゆく 8 和田宿~軽井沢宿 48km
青線は既に公開した所 赤線は今回公開する所
和田宿は1861年3月、大火で大半を焼失した。しかし、皇女和宮の将軍家への降嫁が同年11月と決まり、そしてその東下の際の宿泊地として和田宿がきまっていたので、幕府は全力を挙げて宿場復興につとめた。現在残っているかつての建物はその折建築されたものである。
河内屋。 出桁造り出格子の二階建てで、間口は八間半(約15m) 奥行十一間半(約20m)の堅牢な造りで、上客向けの旅籠であったらしい。現在「歴史の道資料館」として公開されている。
和田宿は交通の便の悪いところであったが故に貴重な歴史遺産を多く残している。そして、地元の人もそれを保存することに努力をしていただいているので、うれしいことです。
長井氏の和田宿本陣の御入門 中の居住棟は復元されて公開されている。
脇本陣の翠川家
道中、道祖神に見守れながら長久保宿に向かう。
この地方独特の出桁造りの「一福処濱屋」の大きな建物がある。詳細は下の説明板を。
一階の土間から二階の全ての部屋まで当時の貴重な物を見学できた。
屋根門を持った本陣跡の石合家。この家の家屋は中山道中の最古のものだといわれている。現在居住していて中を見学できなかった。 詳細は下記の標識を。
長久保宿を出て、芦田宿に向かう。
芦屋宿までの間に笠取峠がある。
笠取峠では、松並木があり、石畳の遊歩道も整備されていた。幕府は中山道整備のため小諸藩に命じて芦田宿から笠取峠まで 松の植樹に協力させ、管理も命じた。その並木道も今は約800mしか残っていないが、路傍には石仏もたたずみ、、かつての街道をしのばせる格好のコースとなっている。
芦田宿に到着。
問屋兼本陣であった建物が残っている。贅をつくした建物で見事というばかりであった。
望月宿との間に茂田井間の宿があるが道があまりにも狭かったので、主要道は避けて迂回したため、集落内の家屋がそのまま残され、見事である。
望月宿には 立派な歴史民俗資料館があった。
八幡宿には 立派な本陣跡
八幡宿には 立派な本陣跡や脇本陣跡がある。大きな地名にもなっている八幡神社がある。
細かい彫刻を施した随身門は素晴らしかった。
御馬寄の大日像の前を通り、塩名田宿へ
古い屋並みも残っていた。本陣は2軒。
千曲川につきあたり、これを渡らなければならない。今は橋があるが、昔は徒歩渡し、舟渡し等があったという。船を繋いでおく岩があるというが定かでなかった。
岩村田宿は内藤氏一万五千石の城下町でもあった。旅人は城下町の堅苦しさを嫌ったので旅籠は少なかった。本陣・脇本陣もなかったとある。珍しい。
今は佐久市の中心町として賑わっていた。
重要文化財になっている駒形神社
次の小田井宿へ向けて出発。
小田井宿は、時の流れから取り残されたような町です。出梁造り縦格子の家が多く残っていて、風情のある。
本陣 詳細は下記の標識を。
脇本陣 他に上の問屋・下の問屋などたくさん残っていた。
小田井宿から、しばらく進むと枝垂れ桜の植わった御代田の一里塚がある。
前方に 浅間山を眺めながら追分宿へ。
追分宿の地名ともなった北国街道と中山道の分去れ。
復元された高札場と右端は本陣のあった場所。
堀辰雄や立原道造らの息吹が感受できる抒情の地である。
また、松尾芭蕉の句碑「吹き飛ばす石も浅間の野分けかな」や貝原益軒もこのあたりのことを書いている。
追分宿を出ると、立派な一里塚があったがこれは復元されたものらしい。
沓掛宿は 本陣もなく、本陣跡の碑のみである。宿場町としてかつての賑わった面影がなかった。
沓掛の地名もなく、駅名も「沓掛駅」から「中軽井沢駅」になっていた。
長谷川 伸 作の「沓掛時次郎」の碑が長倉神社に残っている。
千両万両枉げない意地も、人情搦めば 弱くなる 浅間三筋の煙りの下で 男 沓掛 時次郎
ご存知 「剣をとってはめっぽう強いが 義理と人情にはからっきし弱い」 架空の人物・沓掛時次郎の活躍した土地だがこれを知っている人は殆どいないのではないかと思っている。
軽井沢宿は昔の面影は殆ど残っていない。
今は、別荘地として有名になり、我が国の最高の高級避暑地となった。
2010年08月01日
私の足跡 60 中山道をゆく 7 薮原宿~和田宿
私の足跡 60
中山道をゆく 7 薮原宿~和田宿 62km
青線の部分は既に公開した所 赤線の部分は今回公開した所
薮原宿を出発し、今回は和田宿までを書きます。
駅前に鳥居峠への案内の標識が立っている。
車道はトンネルを通るが、我々は江戸時代の峠越えをする。すぐに登り坂になり鳥居峠まで約1kmの坂を上ると鳥居峠に着く。ここは日本海と太平洋の分水嶺である。この近くに御嶽遥拝所がある。峠からは木曽谷の集落を望むことができた。
峠から約1kmで奈良井宿に着く。この宿は、天保年間には旅籠・茶屋等を合わせて39軒にも及び、その数は木曽十一宿中最大であった。
今も、狭い道の両側には、長い軒先を突き出した出桁造りで、くぐり戸などのある家が残り、馬籠宿にかわらぬ風情の残る宿なので我々も宿泊する計画をたてていた。上の写真は我々が宿泊した伊勢屋だが、越後屋等の旅館とともに江戸時代そのままの景観をつくりだしている。
部屋の中も 一部を除いて昔の建具そのままだった。階段や廊下が黒光りがしていた。
途中、平沢には漆器の町として有名です。 奈良井宿から次の贄川宿までは約7kmです。
贄川の地名の由来は 昔は温泉があり 熱川(にえかわ)と言ったからと木曽名所図会にある。
今は、幾度かの火災のため、かつての町をしのばせる建物はほとんど残っていない。
復元された贄川番所跡。江戸時代、番所は「木曽路北門の関」として、婦女の通行と檜の白木の搬出を取り締まった。
今見ることができるのは復元された番所の建物に過ぎないが、野太い柱、低い石垣屋根はかつての番所の厳しさを充分実感させてくれる。
ここより、約8km先の本山宿の間に「是より南 木曽路」の石碑があり、木曽路も終わったことになる。
本山宿は 静かな宿だ。かつての宿場の建物は道の左側に残り、かつての川口屋・博多屋・池田屋・村田屋等と屋号を大書した看板を出している。宿場の雰囲気を残そうと、町民の協力が素晴らしい。
次の洗馬宿は のどかな田園風景が続く道を約2kmで到着。
洗馬宿の本陣も脇本陣の跡かたもなく標識が立っているのみである。
洗馬宿から塩尻宿までの約7kmの道中で見た主なものは下記の物である。
平出の一里塚。これは、左右一対が完全な形で残っている貴重な一里塚である。
みずみずしいブドウ畑の傍を通る。辺りは一面ブドウ畑。
平出遺跡があり立ち寄り見学。復元された縄文時代の住居群があった。
重要文化財の堀内家住宅。詳細は下記の説明を。
塩尻宿は本陣や脇本陣はなく残念だが見事な鬼瓦を屋根にのせた旅籠風の家等はある。
塩尻宿から下諏訪宿に向かう途中に足腰にご利益があると旅人の信仰を集めた石船にある馬頭観音に、私にもご利益を頂けるようお願いをする。
そして塩尻峠をめざす。峠には、富士浅間神社の石祠があり、御嶽遥拝所もある。
展望台からの眺めが素晴らしかった。
北アルプスの槍ケ岳や穂高。
諏訪市と諏訪湖を俯瞰する。(天気が良ければ富士山も)
塩尻峠を後にして、茶屋本陣跡や一里塚跡を見ながら下諏訪宿に到着。
下諏訪は 温泉街でありながら宿場町の特徴も濃く残す町である。
古来から湯の町と言われていたが今もお湯は豊富である。諏訪神社にお参り前に手を洗おうと思うと水ではなく、お湯(御神水でなく、御神湯と書いていた)でびっくりした。
また、以前下諏訪駅の構内で足湯を使ったこともある。
中山道で随一と称される庭園を持った本陣の岩波家がある。皇女「和の宮」も泊ったとある。
諏訪といえば 諏訪大社に関わる場所が多い。2003年の御柱祭の木落としの撮影に来たのを思いだす。
その時は見物客が多くて、一般席はまさに立錐の余地がない状態で騒然としていたが今は誰もいないので別世界のようだった。
夜行列車で K氏と二人で撮影に来た時のものを載せます。
樹齢200年程の樅の木を 山奥から切り出し、ロープをつけて多数の人達で引っ張り、傾斜地は「引き落とし」をしながら神社まで運ぶのである。堤防から川に引き落としそれを引き揚げるのはまさに爽快・痛快であった。(怪我人は勿論、時には死者も出ることもあるらしい。)
御柱は 坂を引くだけでなく、地道を引い(里引き)たり、川を渡ったり(川越え)しながら、目的の神社に地区民総出で約一が月かけて運ぶ行事である。
目的の神社に到着すると、各神社の四隅に立てる。上の写真の右端に立っている木が前回建てた御柱である。
これは、見学用に置いてある樅の木で、大きさは長さ約17m、太さ約1m。重さは10トンあるらしい。
諏訪大社と言えば、上社と下社があり、祭神が異なる。下諏訪宿には 諏訪大社下社春宮と諏訪大社下社秋宮がある。下社の祭神は2~7月迄は春宮に鎮座し、8月1日に秋宮に遷座し翌2月1日に春宮に帰座するとある。
万冶の石仏 下の説明が読みづらいのて、補足します。
石工さんが、諏訪神社の鳥居を造ろうと思ってノミを打ち込むと岩から血が出てきた。石工さんはびっくりしてを手を止め、代わりの石で鳥居を造ったらしい。そして、この石を阿弥陀如来にしたとある。
1660年11月1日
ここ下諏訪宿での見学を終えて、22km先の和田宿へ向かう。西餅屋跡までは古道は定かでなかったので、ここより本格的な古道で中山道有数の難所へ向かう。
急坂を登って和田峠(古峠)に到着。ここには御嶽遥拝所が復元されている。その他石仏もある。天気が良ければ駒ケ岳・御嶽山・浅間山等が見えるらしいが残念だった。旅人は暖かい季節の時は良いが寒い時には気温も低く、雪もあり苦労したことでょう。
峠からは急な下り坂になる。くねくね曲がって下っている霧ケ峰に通じるビーナスラインを1回はトンネルをくぐり、3回は横断して東餅屋跡(今はドライブインになっている)に着く。早速餅をいただく。
体力を消耗する峠越えには 当時最高の栄養食として餅を食することだった。当時峠の東側には5軒・西側には4軒あったらしい。今は9軒の餅屋はなく、前記の東餅屋跡だけである。
文政11年(1828年)、江戸の豪商かせや与兵衛は中山道の旅人の難儀を救おうと金千両を幕府に献上した。その金を貸付に回してもらい、年に一割の百両を碓氷峠の坂本宿とこの和田峠の2ケ所に用いた。11月から3月まで峠を越える旅人にかゆと焚火を、牛馬には年中桶一杯の煮麦を施行したとある。
今も永代人馬施行所の茅葺きの家が復元されている。
残る10km程は遺跡も少なく、国道を通って和田宿に入る。
中山道をゆく 7 薮原宿~和田宿 62km
青線の部分は既に公開した所 赤線の部分は今回公開した所
薮原宿を出発し、今回は和田宿までを書きます。
駅前に鳥居峠への案内の標識が立っている。
車道はトンネルを通るが、我々は江戸時代の峠越えをする。すぐに登り坂になり鳥居峠まで約1kmの坂を上ると鳥居峠に着く。ここは日本海と太平洋の分水嶺である。この近くに御嶽遥拝所がある。峠からは木曽谷の集落を望むことができた。
峠から約1kmで奈良井宿に着く。この宿は、天保年間には旅籠・茶屋等を合わせて39軒にも及び、その数は木曽十一宿中最大であった。
今も、狭い道の両側には、長い軒先を突き出した出桁造りで、くぐり戸などのある家が残り、馬籠宿にかわらぬ風情の残る宿なので我々も宿泊する計画をたてていた。上の写真は我々が宿泊した伊勢屋だが、越後屋等の旅館とともに江戸時代そのままの景観をつくりだしている。
部屋の中も 一部を除いて昔の建具そのままだった。階段や廊下が黒光りがしていた。
途中、平沢には漆器の町として有名です。 奈良井宿から次の贄川宿までは約7kmです。
贄川の地名の由来は 昔は温泉があり 熱川(にえかわ)と言ったからと木曽名所図会にある。
今は、幾度かの火災のため、かつての町をしのばせる建物はほとんど残っていない。
復元された贄川番所跡。江戸時代、番所は「木曽路北門の関」として、婦女の通行と檜の白木の搬出を取り締まった。
今見ることができるのは復元された番所の建物に過ぎないが、野太い柱、低い石垣屋根はかつての番所の厳しさを充分実感させてくれる。
ここより、約8km先の本山宿の間に「是より南 木曽路」の石碑があり、木曽路も終わったことになる。
本山宿は 静かな宿だ。かつての宿場の建物は道の左側に残り、かつての川口屋・博多屋・池田屋・村田屋等と屋号を大書した看板を出している。宿場の雰囲気を残そうと、町民の協力が素晴らしい。
次の洗馬宿は のどかな田園風景が続く道を約2kmで到着。
洗馬宿の本陣も脇本陣の跡かたもなく標識が立っているのみである。
洗馬宿から塩尻宿までの約7kmの道中で見た主なものは下記の物である。
平出の一里塚。これは、左右一対が完全な形で残っている貴重な一里塚である。
みずみずしいブドウ畑の傍を通る。辺りは一面ブドウ畑。
平出遺跡があり立ち寄り見学。復元された縄文時代の住居群があった。
重要文化財の堀内家住宅。詳細は下記の説明を。
塩尻宿は本陣や脇本陣はなく残念だが見事な鬼瓦を屋根にのせた旅籠風の家等はある。
塩尻宿から下諏訪宿に向かう途中に足腰にご利益があると旅人の信仰を集めた石船にある馬頭観音に、私にもご利益を頂けるようお願いをする。
そして塩尻峠をめざす。峠には、富士浅間神社の石祠があり、御嶽遥拝所もある。
展望台からの眺めが素晴らしかった。
北アルプスの槍ケ岳や穂高。
諏訪市と諏訪湖を俯瞰する。(天気が良ければ富士山も)
塩尻峠を後にして、茶屋本陣跡や一里塚跡を見ながら下諏訪宿に到着。
下諏訪は 温泉街でありながら宿場町の特徴も濃く残す町である。
古来から湯の町と言われていたが今もお湯は豊富である。諏訪神社にお参り前に手を洗おうと思うと水ではなく、お湯(御神水でなく、御神湯と書いていた)でびっくりした。
また、以前下諏訪駅の構内で足湯を使ったこともある。
中山道で随一と称される庭園を持った本陣の岩波家がある。皇女「和の宮」も泊ったとある。
諏訪といえば 諏訪大社に関わる場所が多い。2003年の御柱祭の木落としの撮影に来たのを思いだす。
その時は見物客が多くて、一般席はまさに立錐の余地がない状態で騒然としていたが今は誰もいないので別世界のようだった。
夜行列車で K氏と二人で撮影に来た時のものを載せます。
樹齢200年程の樅の木を 山奥から切り出し、ロープをつけて多数の人達で引っ張り、傾斜地は「引き落とし」をしながら神社まで運ぶのである。堤防から川に引き落としそれを引き揚げるのはまさに爽快・痛快であった。(怪我人は勿論、時には死者も出ることもあるらしい。)
御柱は 坂を引くだけでなく、地道を引い(里引き)たり、川を渡ったり(川越え)しながら、目的の神社に地区民総出で約一が月かけて運ぶ行事である。
目的の神社に到着すると、各神社の四隅に立てる。上の写真の右端に立っている木が前回建てた御柱である。
これは、見学用に置いてある樅の木で、大きさは長さ約17m、太さ約1m。重さは10トンあるらしい。
諏訪大社と言えば、上社と下社があり、祭神が異なる。下諏訪宿には 諏訪大社下社春宮と諏訪大社下社秋宮がある。下社の祭神は2~7月迄は春宮に鎮座し、8月1日に秋宮に遷座し翌2月1日に春宮に帰座するとある。
万冶の石仏 下の説明が読みづらいのて、補足します。
石工さんが、諏訪神社の鳥居を造ろうと思ってノミを打ち込むと岩から血が出てきた。石工さんはびっくりしてを手を止め、代わりの石で鳥居を造ったらしい。そして、この石を阿弥陀如来にしたとある。
1660年11月1日
ここ下諏訪宿での見学を終えて、22km先の和田宿へ向かう。西餅屋跡までは古道は定かでなかったので、ここより本格的な古道で中山道有数の難所へ向かう。
急坂を登って和田峠(古峠)に到着。ここには御嶽遥拝所が復元されている。その他石仏もある。天気が良ければ駒ケ岳・御嶽山・浅間山等が見えるらしいが残念だった。旅人は暖かい季節の時は良いが寒い時には気温も低く、雪もあり苦労したことでょう。
峠からは急な下り坂になる。くねくね曲がって下っている霧ケ峰に通じるビーナスラインを1回はトンネルをくぐり、3回は横断して東餅屋跡(今はドライブインになっている)に着く。早速餅をいただく。
体力を消耗する峠越えには 当時最高の栄養食として餅を食することだった。当時峠の東側には5軒・西側には4軒あったらしい。今は9軒の餅屋はなく、前記の東餅屋跡だけである。
文政11年(1828年)、江戸の豪商かせや与兵衛は中山道の旅人の難儀を救おうと金千両を幕府に献上した。その金を貸付に回してもらい、年に一割の百両を碓氷峠の坂本宿とこの和田峠の2ケ所に用いた。11月から3月まで峠を越える旅人にかゆと焚火を、牛馬には年中桶一杯の煮麦を施行したとある。
今も永代人馬施行所の茅葺きの家が復元されている。
残る10km程は遺跡も少なく、国道を通って和田宿に入る。