2010年03月
2010年03月01日
私の足跡 53 四国遍路一人歩きを終えて
四国遍路一人歩きを終えて
四国の人達の心はいつも暖かい
四国の美しい海や川・広々とした田や畑・美しい山並みは本当に素晴らしかった。
特に山育ちの私にとっては、海を見ながらの遍路は本当に楽しかった。
また、厳しい峠や山を喘ぎながら登った遍路道、それに風雨が強く、仲間とかばいながら歩いた足摺岬への道は厳しかったが、今では楽しい思い出です。(しかし、この帰りは天気もよく、海風の潮の香りを味わいながら歩けた。全行程中、風雨でレインコ-トを着たのは2度だけ)
本当に、四国のいろんな大自然を楽しませてくれた。
長い間の夢・「四国遍路一人歩き」をしている時は、辛くなった時もあったが、その時の立てた予定を中止したことはなかった。それほど、楽しく回れたと思っている。(これは、私は四国一週を9回に分けて歩いたからかも知れない。通しで歩いている人とは違う)
それは、お大師さん・四国の人・仲間の遍路さんの心の温かさ・優しさがあったからだと思う。(よく、遍路仲間との話の中で私はよく言ってきたのは 「四国の土地は暖かい。これは、気温が高いだけでなく、四国の人の心が暖かいのが原因だ」と。)
道を尋ねるとよくわかるように丁寧におしえてくれた郵便屋さん。(足跡46)
中学生やス-パ-の店員さんが挨拶の後にしてくれた励ましの言葉。(足跡46)
お接待だと言って品物を頂いたこと(足跡44・45・47。48。)
( 同 上 )お金を頂いたこと(足跡49・50)
また、仲間の遍路さんからも頂いたこと(足跡50)
遍路休憩所でのお接待(足跡44・48・51)
その他、食事の後、お接待と言って頂いたり、遍路さんだからと安くして頂いたこと。
ほかに、これはお接待ではないが、仕事中なのに遍路姿の私を見て、親切に教えてくれた人(足跡45・46)
暖かいのは これだけではなく、長い長い遍路道の草刈等の整備や数多い道しるべの「看板」や「シ-ル」をボランチィアで貼ってくれた皆さん。(遍路は この道標を見て、ホットして通ったり、また、どんなに助けられたか)ほんとにありがとうございました。(但し、一部だが道標のつもりでと思いますが、公道の遍路道に自分の名を書いた道標もあった。ボランチィアで作ってくれ、私たちの目に慣れ親しんだ四国共通の道標の中に上記の道標は馴染めなかったのは私一人ではなかったです。他の遍路さんも同感でした。)
お遍路さんも皆良い人だ。会えば、必ず言葉をかけ、歩くぺ-スも同じようであれば一緒に歩く。そして、納め札の交換をして、住んでいる所や家族の事今の仕事等を話しながら歩く。私は、大師の開いた高野山の麓に住み、大師が開いた「高野町石道」の語り部をしていること。お礼参りには「高野町石道」を歩いて高野山へ行ってほしいと話している。このようなことは、同年配の人は勿論、20代の若い青年でも同じことだ。[善根宿(無料で宿泊させてくれる宿)で二人で泊まった青年も同じ事]
そして、同宿で一緒に食事をし、般若湯を飲み疲れをとり、遍路道の苦労話を語り合ったり、はげましあったりもした。
もう一つ、是非書いておきたいことがあります。
私はある日、四国遍路1200kmのある峠への坂道を喘ぎながら歩いているといつもよりも頭上近くで鳥が飛び交っているので休憩をかねて足を止めてお茶を飲むことにした。相変わらず、鳥が頭上近くで飛び交っているので自分の食べているお菓子の一粒を手のひらに載せて、「どうぞ」と言って差し出すと何度も近づいては逃げ、近づいては逃げを繰り返しをしていたが最後は手のひらの菓子をくわえて、飛び去った。
私は嬉しくなり、写真を撮ることにした。片方の手にはお菓子、もう一方の手にはカメラを持ち、待っていると鳥は飛んできて手のひらに止まる。シャッタ-を押す。緊張しているのと慣れてなかったので手ぶれで失敗。 再度、挑戦。今度は、鳥も自分も緊張からとけ、バッチリ。 こんな、すばらしい体験をさせてもらえるなんて理由は一つ。「お大師さんのご褒美。」とその時思ったし、いまでもそう思っている。
後日、鳥が好きで研究している友人に話すと「良かったね」と喜んでくれて、現場やその時の様子もわからないから違うかも知れないがと前置きして、こんな話をしてくれた。「それは、多分誰かが餌付けをしていると思う。毎日のように、雨の日も風の日もその山の中に通い餌を与えてやっている。鳥は「やまがら」だろう。多分、時間もよく似た時に運よく通ったから 鳥も待っていた餌付けの人を待ちきれなかったのでしょう。その人は、多分君のような歩き遍路が疲れている時に体験してくれたら良いと思い餌付けを続けているのでしょう。だから、雨の日も風の日もその山の中に通い餌を与えてやっていると思う。本当にすばらしい人ですね。」ということだった。そして、更に「でも、滅多に人の通らない所だから鳥も不特定の人間に近づいたが、大勢の人に知れ渡ると鳥も近づかないと思うから、遍路さんの一部の人にだけのものにしてあげて」との話でした。(あの鳥のため場所が広く知れないように、地名は書きませんでした。)
科学的にはよく解りましたが、私はこの話を聞いても、月日がたった今でも、「その時季・時刻にそこを通れたというのはお大師さんのご褒美。」と思っている。
88ヶ寺以外にも多くの所へも行った。
遍路歩きの最初のブログ(私の足跡43)にも記したように四国で今までに行ってなくて行きたい所へ行ってみた。
まず、四国遍路に関わり、弘法大師の修行したと言われる所 ○ 太龍寺の「舎心ヶ嶽」 (私の足跡44)
(○ 最御崎寺の「御蔵洞」(3度目)) (私の足跡45) ○ 岩屋寺の「せり割禅定」 (私の足跡48)
○ 横峯寺の「星ヶ森」 (私の足跡49)
○ 石鎚山 (私の足跡52)
(○ 祖谷寺 (3度目)) (私の足跡50)
○ 出釈迦寺の奥の院・我拝師山「捨身ヶ岳」(私の足跡50)
○ 大窪寺へは女体山越えをした 等 (私の足跡51)
次に、空海とは関係ないが、この機会に寄って見たい所へも
○ 坂本竜馬の生まれた町記念館等 (私の足跡45)
○ 植物学者 牧野富太郎博物館 (私の足跡45)
○ 遍路道にあるが内子町 (私の足跡48)
○ 「坂の上の雲」の舞台になった松山市内 等 坂の上の雲ミュ-ジアム
子規堂の見学
玄関にある「旅立ち」 子規の書斎
子規の書評
松山の著名な人 友人夏目漱石への書評
○ 夏の風物 等
吉野川の川面一杯に広がる「シラス漁」の漁火は見事だった。
最後に、歩き遍路1200kmを完歩したことの証を頂き、四国遍路文化を多くの人に広める遍路大使として勤めていきたいと思います。
四国の人達の心はいつも暖かい
四国の美しい海や川・広々とした田や畑・美しい山並みは本当に素晴らしかった。
特に山育ちの私にとっては、海を見ながらの遍路は本当に楽しかった。
また、厳しい峠や山を喘ぎながら登った遍路道、それに風雨が強く、仲間とかばいながら歩いた足摺岬への道は厳しかったが、今では楽しい思い出です。(しかし、この帰りは天気もよく、海風の潮の香りを味わいながら歩けた。全行程中、風雨でレインコ-トを着たのは2度だけ)
本当に、四国のいろんな大自然を楽しませてくれた。
長い間の夢・「四国遍路一人歩き」をしている時は、辛くなった時もあったが、その時の立てた予定を中止したことはなかった。それほど、楽しく回れたと思っている。(これは、私は四国一週を9回に分けて歩いたからかも知れない。通しで歩いている人とは違う)
それは、お大師さん・四国の人・仲間の遍路さんの心の温かさ・優しさがあったからだと思う。(よく、遍路仲間との話の中で私はよく言ってきたのは 「四国の土地は暖かい。これは、気温が高いだけでなく、四国の人の心が暖かいのが原因だ」と。)
道を尋ねるとよくわかるように丁寧におしえてくれた郵便屋さん。(足跡46)
中学生やス-パ-の店員さんが挨拶の後にしてくれた励ましの言葉。(足跡46)
お接待だと言って品物を頂いたこと(足跡44・45・47。48。)
( 同 上 )お金を頂いたこと(足跡49・50)
また、仲間の遍路さんからも頂いたこと(足跡50)
遍路休憩所でのお接待(足跡44・48・51)
その他、食事の後、お接待と言って頂いたり、遍路さんだからと安くして頂いたこと。
ほかに、これはお接待ではないが、仕事中なのに遍路姿の私を見て、親切に教えてくれた人(足跡45・46)
暖かいのは これだけではなく、長い長い遍路道の草刈等の整備や数多い道しるべの「看板」や「シ-ル」をボランチィアで貼ってくれた皆さん。(遍路は この道標を見て、ホットして通ったり、また、どんなに助けられたか)ほんとにありがとうございました。(但し、一部だが道標のつもりでと思いますが、公道の遍路道に自分の名を書いた道標もあった。ボランチィアで作ってくれ、私たちの目に慣れ親しんだ四国共通の道標の中に上記の道標は馴染めなかったのは私一人ではなかったです。他の遍路さんも同感でした。)
お遍路さんも皆良い人だ。会えば、必ず言葉をかけ、歩くぺ-スも同じようであれば一緒に歩く。そして、納め札の交換をして、住んでいる所や家族の事今の仕事等を話しながら歩く。私は、大師の開いた高野山の麓に住み、大師が開いた「高野町石道」の語り部をしていること。お礼参りには「高野町石道」を歩いて高野山へ行ってほしいと話している。このようなことは、同年配の人は勿論、20代の若い青年でも同じことだ。[善根宿(無料で宿泊させてくれる宿)で二人で泊まった青年も同じ事]
そして、同宿で一緒に食事をし、般若湯を飲み疲れをとり、遍路道の苦労話を語り合ったり、はげましあったりもした。
もう一つ、是非書いておきたいことがあります。
私はある日、四国遍路1200kmのある峠への坂道を喘ぎながら歩いているといつもよりも頭上近くで鳥が飛び交っているので休憩をかねて足を止めてお茶を飲むことにした。相変わらず、鳥が頭上近くで飛び交っているので自分の食べているお菓子の一粒を手のひらに載せて、「どうぞ」と言って差し出すと何度も近づいては逃げ、近づいては逃げを繰り返しをしていたが最後は手のひらの菓子をくわえて、飛び去った。
私は嬉しくなり、写真を撮ることにした。片方の手にはお菓子、もう一方の手にはカメラを持ち、待っていると鳥は飛んできて手のひらに止まる。シャッタ-を押す。緊張しているのと慣れてなかったので手ぶれで失敗。 再度、挑戦。今度は、鳥も自分も緊張からとけ、バッチリ。 こんな、すばらしい体験をさせてもらえるなんて理由は一つ。「お大師さんのご褒美。」とその時思ったし、いまでもそう思っている。
後日、鳥が好きで研究している友人に話すと「良かったね」と喜んでくれて、現場やその時の様子もわからないから違うかも知れないがと前置きして、こんな話をしてくれた。「それは、多分誰かが餌付けをしていると思う。毎日のように、雨の日も風の日もその山の中に通い餌を与えてやっている。鳥は「やまがら」だろう。多分、時間もよく似た時に運よく通ったから 鳥も待っていた餌付けの人を待ちきれなかったのでしょう。その人は、多分君のような歩き遍路が疲れている時に体験してくれたら良いと思い餌付けを続けているのでしょう。だから、雨の日も風の日もその山の中に通い餌を与えてやっていると思う。本当にすばらしい人ですね。」ということだった。そして、更に「でも、滅多に人の通らない所だから鳥も不特定の人間に近づいたが、大勢の人に知れ渡ると鳥も近づかないと思うから、遍路さんの一部の人にだけのものにしてあげて」との話でした。(あの鳥のため場所が広く知れないように、地名は書きませんでした。)
科学的にはよく解りましたが、私はこの話を聞いても、月日がたった今でも、「その時季・時刻にそこを通れたというのはお大師さんのご褒美。」と思っている。
88ヶ寺以外にも多くの所へも行った。
遍路歩きの最初のブログ(私の足跡43)にも記したように四国で今までに行ってなくて行きたい所へ行ってみた。
まず、四国遍路に関わり、弘法大師の修行したと言われる所 ○ 太龍寺の「舎心ヶ嶽」 (私の足跡44)
(○ 最御崎寺の「御蔵洞」(3度目)) (私の足跡45) ○ 岩屋寺の「せり割禅定」 (私の足跡48)
○ 横峯寺の「星ヶ森」 (私の足跡49)
○ 石鎚山 (私の足跡52)
(○ 祖谷寺 (3度目)) (私の足跡50)
○ 出釈迦寺の奥の院・我拝師山「捨身ヶ岳」(私の足跡50)
○ 大窪寺へは女体山越えをした 等 (私の足跡51)
次に、空海とは関係ないが、この機会に寄って見たい所へも
○ 坂本竜馬の生まれた町記念館等 (私の足跡45)
○ 植物学者 牧野富太郎博物館 (私の足跡45)
○ 遍路道にあるが内子町 (私の足跡48)
○ 「坂の上の雲」の舞台になった松山市内 等 坂の上の雲ミュ-ジアム
子規堂の見学
玄関にある「旅立ち」 子規の書斎
子規の書評
松山の著名な人 友人夏目漱石への書評
○ 夏の風物 等
吉野川の川面一杯に広がる「シラス漁」の漁火は見事だった。
最後に、歩き遍路1200kmを完歩したことの証を頂き、四国遍路文化を多くの人に広める遍路大使として勤めていきたいと思います。