2009年08月
2009年08月15日
私の足跡 40 伊勢街道 奈良県
伊勢街道を歩く
2 五条から高見峠まで(奈良県) 約 50 Km
一日目
和歌山県境から大和上市まで
和歌山県境にある万葉集で有名な「飛び越え石」を越え、奈良県に入る。
殆んど国道24号線沿いだが二見駅を過ぎると街道が残っており、伊勢街道の面影を大いに残す新町通りである。漆喰塗りの壁や虫籠窓・格子の家々が連なり江戸時代にタイムスプリットしたかのような錯覚に陥ります。 ここは、江戸時代の初め頃からの町で 記録に残っている民家ではわが国最古(棟札に1607年の銘)といわれる「栗山家」があり、国の重要文化財となっている。
また、ここ五条は江戸時代末期 尊皇攘夷派が最初に挙兵し、代官所を襲撃し、代官の首をはね、隣の櫻井寺を本陣として五条新政府を号し、倒幕の旗をあげた所です。
上左は櫻井寺にある「天誅組本陣跡」の碑 右は代官の首洗い鉢
ところが、政変があり、天誅組の義挙は大義名分をなくし、幕府軍に追われ、次回歩く鷲家で終わりをつげた。
その後、立て替えられた代官所の長屋門が公園の一部になつている。
約一時間ほど歩くと 天平の香り高い榮山寺がある。
小野道風の書と伝えられる銘文のある国宝の梵鐘・
国の重要文化財に指定されている石灯篭 国宝の八角堂も見事だ。
下市口から更に東進する。
そして六田に着く。そこには、渡し場(柳の渡し)跡があり、当時は賑わったと書いてある。
そこから、大和上市まではすぐだったが列車の乗り継ぎに時間がかかり家には遅れた。
二日目
大和上市から高見峠まで
今回はK氏と同行する。
大和上市駅から歩くと昔の風情のある家並みが続いていたので写真を撮ったりしていると酒屋のおじさん(実は町の語り部さん)が詳しく説明をしてくれた。道は宮滝遺跡の傍を通って行くのと三茶屋を経由して鷲家に行く道があるが 旧伊勢街道の三茶屋を経由して行くことにした。「妹山・背山」はここにもあるが和歌山県にもあり、紛らわしくなっている。
ここは、 寺も多いが、大名持・久須斯神社等神社も多く、徳川家の寄進による神社もあった。
三茶屋より小名峠の道となる。道は良かったが道しるべが少なく、一度道を間違え約30分ほどのロス。山の中で昼食。
峠を越え、鷲家の集落に近づくと早速天誅組の兵士の墓に出あった。。
鷲家と言えば天誅組の終焉の地である。早速 天誅組の遺跡の見学に出かける。ここで、道端で除草していた女性に声をかけるとこの女性は嫁いで来てから天誅組にかかわり、この6名の墓を守り、毎日お参りしているとのこと。
よく参ってくれたと感謝され、近くの住居でお茶をよばれ、写真アルバムを見せてもらった。そして、小名峠を越えてきたとと言うとビックリ。そんなしんどい道は娘のとき以来通ってないとの事。
そこから 往復30分かかるが「天誅組終焉の地」の見学。そこには、二人の男性が清掃をしていた。鷲家地域のみんなで、天誅組の終焉の地を守っているようだ。
また、ここは日本オオカミを見た最後の地と言われている。
見学に時間を費やしたので、急いで高見峠を目指す。木津トンネルはあるが我々は江戸時代の峠越え。しんどく、フウフウ言いながら峠に立つとスゴイご褒美があった。それは、目の前にあの秀麗な高見山が姿を見せていた。さすが関西のマッタ-ホルンと言われるだけ息をのむ。(車の通る道からも見えるが歩いて峠からの姿は格別だ)
そこから、バスの出発時刻を気にしながら約一時間でゴ-ルの登山口へ。
バスで一時間で榛原駅へ。そして、何度も乗り換え帰宅。
2 五条から高見峠まで(奈良県) 約 50 Km
一日目
和歌山県境から大和上市まで
和歌山県境にある万葉集で有名な「飛び越え石」を越え、奈良県に入る。
殆んど国道24号線沿いだが二見駅を過ぎると街道が残っており、伊勢街道の面影を大いに残す新町通りである。漆喰塗りの壁や虫籠窓・格子の家々が連なり江戸時代にタイムスプリットしたかのような錯覚に陥ります。 ここは、江戸時代の初め頃からの町で 記録に残っている民家ではわが国最古(棟札に1607年の銘)といわれる「栗山家」があり、国の重要文化財となっている。
また、ここ五条は江戸時代末期 尊皇攘夷派が最初に挙兵し、代官所を襲撃し、代官の首をはね、隣の櫻井寺を本陣として五条新政府を号し、倒幕の旗をあげた所です。
上左は櫻井寺にある「天誅組本陣跡」の碑 右は代官の首洗い鉢
ところが、政変があり、天誅組の義挙は大義名分をなくし、幕府軍に追われ、次回歩く鷲家で終わりをつげた。
その後、立て替えられた代官所の長屋門が公園の一部になつている。
約一時間ほど歩くと 天平の香り高い榮山寺がある。
小野道風の書と伝えられる銘文のある国宝の梵鐘・
国の重要文化財に指定されている石灯篭 国宝の八角堂も見事だ。
下市口から更に東進する。
そして六田に着く。そこには、渡し場(柳の渡し)跡があり、当時は賑わったと書いてある。
そこから、大和上市まではすぐだったが列車の乗り継ぎに時間がかかり家には遅れた。
二日目
大和上市から高見峠まで
今回はK氏と同行する。
大和上市駅から歩くと昔の風情のある家並みが続いていたので写真を撮ったりしていると酒屋のおじさん(実は町の語り部さん)が詳しく説明をしてくれた。道は宮滝遺跡の傍を通って行くのと三茶屋を経由して鷲家に行く道があるが 旧伊勢街道の三茶屋を経由して行くことにした。「妹山・背山」はここにもあるが和歌山県にもあり、紛らわしくなっている。
ここは、 寺も多いが、大名持・久須斯神社等神社も多く、徳川家の寄進による神社もあった。
三茶屋より小名峠の道となる。道は良かったが道しるべが少なく、一度道を間違え約30分ほどのロス。山の中で昼食。
峠を越え、鷲家の集落に近づくと早速天誅組の兵士の墓に出あった。。
鷲家と言えば天誅組の終焉の地である。早速 天誅組の遺跡の見学に出かける。ここで、道端で除草していた女性に声をかけるとこの女性は嫁いで来てから天誅組にかかわり、この6名の墓を守り、毎日お参りしているとのこと。
よく参ってくれたと感謝され、近くの住居でお茶をよばれ、写真アルバムを見せてもらった。そして、小名峠を越えてきたとと言うとビックリ。そんなしんどい道は娘のとき以来通ってないとの事。
そこから 往復30分かかるが「天誅組終焉の地」の見学。そこには、二人の男性が清掃をしていた。鷲家地域のみんなで、天誅組の終焉の地を守っているようだ。
また、ここは日本オオカミを見た最後の地と言われている。
見学に時間を費やしたので、急いで高見峠を目指す。木津トンネルはあるが我々は江戸時代の峠越え。しんどく、フウフウ言いながら峠に立つとスゴイご褒美があった。それは、目の前にあの秀麗な高見山が姿を見せていた。さすが関西のマッタ-ホルンと言われるだけ息をのむ。(車の通る道からも見えるが歩いて峠からの姿は格別だ)
そこから、バスの出発時刻を気にしながら約一時間でゴ-ルの登山口へ。
バスで一時間で榛原駅へ。そして、何度も乗り換え帰宅。
2009年08月01日
私の足跡 39 伊勢街道 和歌山県
伊勢街道(紀州街道)を歩く。
今までは、紀伊半島を南北に縦断して歩いていたが、今度は紀伊半島を東西に横断することにした。即ち、和歌山市から奈良を経由して三重県の伊勢市への道である。
上の地図では 黒い線です。
伊勢街道といえば、大阪市より奈良を通り伊勢に行く「伊勢本街道」の方が有名であるが、和歌山県在住の者として、この「和歌山街道」(この道はいろんな呼び方があるが1876年に統一した)を通ることにした。
この道は ほぼ一直線で 東西に走る地溝帯(平地)を利用した自然発生的な通路といえる。 紀州の殿様の参勤交代の道であった。 (江戸中期より、大阪・京都経由に変わっている) また、本居宣長の通った道でもある。また、紀州の人々が伊勢詣に使った道でもある。また、生活の道でもあった。
地理的には 「中央構造線(フォッサ・マグナ)」と呼ばれる「大断層線」の通っている所でもある興味深い道でもある。
総距離は 約 180kmを7日間を費やし 伊勢神宮に到着。
Ⅰ 和歌山市から橋本市の隅田まで (和歌山県) 約50Km
一日目
和歌山市からかつらぎ町の笠田まで 約30Km
和歌山城の北方にある京橋門跡よりスタートする。今は時代も変わって昔の面影もないが標識のある所を出発する。
地名にも 江戸時代の城下町の大工町などが残っているが古い屋敷の面影を残す建物も残っている。
約一時間程歩くと一里塚跡がある。
現在は この前に女子刑務所があり、多くの受刑者が収容されている。
8Kmほど歩くと対岸に渡る「渡し場跡」が現在の船戸にある。
昔は たくさんあったと思われる旅籠が少しだが今も残っている。
いろんな道標を見ながら、東へ東へと歩を進める。
今、四国歩き遍路をしているが、道標は旅人にとって大切で有難いものかが痛感している。
昔の旅人も、この道標を見て、どんなにホットし 喜びながら旅を続けたことでしょう。
伊勢街道で本陣として昔の面影を残し、見学もさせてもらえる貴重な建物です。 この「妹背家」は 有吉佐和子の有名な小説「華岡青洲の妻」で有名な「かえ」さんの実家です。華岡青洲は1808年世界で初めて麻酔して手術をした人です。何とか人体実験をと思っていた時、母と妻が申し出てその役を果たしたが母は病に、妻は盲目になってしまったが成功したという壮烈な話がある。
今も 華岡青洲が住んでいた建物を復元しているので見学できます。
かつらぎ町に入ると 江戸時代の土木技術の最先端をいく大畑才蔵のすばらしい遺構が残っている。 八代将軍「徳川吉宗」がまだ紀州藩主の時代 藩の財政を立て直すため田畑を拡張するため、大畑に命じて用水路を造った。その技術は、当時としては最先端の技術で見事成功し目的を達して吉宗も喜んだ。
でも、吉宗は八代将軍になり、紀州を離れ、江戸に行くことになった。吉宗は彼をつれていこうとしたが彼は地元にいたいということで残ったらしい。彼が残した遺構が各地に残っている。
今回の終点付近(橋本)にも 江戸時代の遺構が たくさんある。
推定樹齢400年とも600年ともいわれる「十五社の楠」は近畿で一番といわれる大楠木(幹の周りが13m)で笠田小学校を見下ろしている。この小学校を巣立った一万人以上の子ども達を見守っていたことでしょう。そして、これからも・・・・・。
二日目
笠田から橋本市の隅田まで 約20Km
橋本は 縄文土器が残り、古くから人が住み、歴史のある所です。
また、伊勢街道の家並みもあちこちに残つている。
大正時代に JR和歌山線が開通し、高野口は 名の通り高野山への表玄関となり、賑わった時もあったが 南海高野線が開通し、表玄関を譲ってから人が遠のき久しい。
当時、このような旅館が二軒もあり、賑わっていた。
応其には、10里塚跡の近くに白鳳時代の名古曽廃寺跡があったり、奈良三彩の壷が出土したりしている。
橋本では、豊臣秀吉の頃、応其上人が町を開いてから発達した。特に伊勢街道と高野街道が交わり、賑やかな町になった。今も当時の家並みが残り、本陣も残っている。
隅田には 日本最古の金石文として有名な「人物画像鏡」(国宝)を社宝としていた隅田八幡宮がある。
真言宗 西大寺の末寺「利生国寺」がある。本堂は国の重要文化財である。 「大茶盛」もある。
奈良時代は都の人達が和歌山へ行く道(大和街道)となり、万葉集にもうたわれている。特に、橋本 笠田付近に多く残っている。
隅田駅の近くに「あさもよし紀人羨しも亦土山 行き来と見らむ紀人羨しも」の歌が犬養孝の筆になる万葉仮名で刻まれている。
今までは、紀伊半島を南北に縦断して歩いていたが、今度は紀伊半島を東西に横断することにした。即ち、和歌山市から奈良を経由して三重県の伊勢市への道である。
上の地図では 黒い線です。
伊勢街道といえば、大阪市より奈良を通り伊勢に行く「伊勢本街道」の方が有名であるが、和歌山県在住の者として、この「和歌山街道」(この道はいろんな呼び方があるが1876年に統一した)を通ることにした。
この道は ほぼ一直線で 東西に走る地溝帯(平地)を利用した自然発生的な通路といえる。 紀州の殿様の参勤交代の道であった。 (江戸中期より、大阪・京都経由に変わっている) また、本居宣長の通った道でもある。また、紀州の人々が伊勢詣に使った道でもある。また、生活の道でもあった。
地理的には 「中央構造線(フォッサ・マグナ)」と呼ばれる「大断層線」の通っている所でもある興味深い道でもある。
総距離は 約 180kmを7日間を費やし 伊勢神宮に到着。
Ⅰ 和歌山市から橋本市の隅田まで (和歌山県) 約50Km
一日目
和歌山市からかつらぎ町の笠田まで 約30Km
和歌山城の北方にある京橋門跡よりスタートする。今は時代も変わって昔の面影もないが標識のある所を出発する。
地名にも 江戸時代の城下町の大工町などが残っているが古い屋敷の面影を残す建物も残っている。
約一時間程歩くと一里塚跡がある。
現在は この前に女子刑務所があり、多くの受刑者が収容されている。
8Kmほど歩くと対岸に渡る「渡し場跡」が現在の船戸にある。
昔は たくさんあったと思われる旅籠が少しだが今も残っている。
いろんな道標を見ながら、東へ東へと歩を進める。
今、四国歩き遍路をしているが、道標は旅人にとって大切で有難いものかが痛感している。
昔の旅人も、この道標を見て、どんなにホットし 喜びながら旅を続けたことでしょう。
伊勢街道で本陣として昔の面影を残し、見学もさせてもらえる貴重な建物です。 この「妹背家」は 有吉佐和子の有名な小説「華岡青洲の妻」で有名な「かえ」さんの実家です。華岡青洲は1808年世界で初めて麻酔して手術をした人です。何とか人体実験をと思っていた時、母と妻が申し出てその役を果たしたが母は病に、妻は盲目になってしまったが成功したという壮烈な話がある。
今も 華岡青洲が住んでいた建物を復元しているので見学できます。
かつらぎ町に入ると 江戸時代の土木技術の最先端をいく大畑才蔵のすばらしい遺構が残っている。 八代将軍「徳川吉宗」がまだ紀州藩主の時代 藩の財政を立て直すため田畑を拡張するため、大畑に命じて用水路を造った。その技術は、当時としては最先端の技術で見事成功し目的を達して吉宗も喜んだ。
でも、吉宗は八代将軍になり、紀州を離れ、江戸に行くことになった。吉宗は彼をつれていこうとしたが彼は地元にいたいということで残ったらしい。彼が残した遺構が各地に残っている。
今回の終点付近(橋本)にも 江戸時代の遺構が たくさんある。
推定樹齢400年とも600年ともいわれる「十五社の楠」は近畿で一番といわれる大楠木(幹の周りが13m)で笠田小学校を見下ろしている。この小学校を巣立った一万人以上の子ども達を見守っていたことでしょう。そして、これからも・・・・・。
二日目
笠田から橋本市の隅田まで 約20Km
橋本は 縄文土器が残り、古くから人が住み、歴史のある所です。
また、伊勢街道の家並みもあちこちに残つている。
大正時代に JR和歌山線が開通し、高野口は 名の通り高野山への表玄関となり、賑わった時もあったが 南海高野線が開通し、表玄関を譲ってから人が遠のき久しい。
当時、このような旅館が二軒もあり、賑わっていた。
応其には、10里塚跡の近くに白鳳時代の名古曽廃寺跡があったり、奈良三彩の壷が出土したりしている。
橋本では、豊臣秀吉の頃、応其上人が町を開いてから発達した。特に伊勢街道と高野街道が交わり、賑やかな町になった。今も当時の家並みが残り、本陣も残っている。
隅田には 日本最古の金石文として有名な「人物画像鏡」(国宝)を社宝としていた隅田八幡宮がある。
真言宗 西大寺の末寺「利生国寺」がある。本堂は国の重要文化財である。 「大茶盛」もある。
奈良時代は都の人達が和歌山へ行く道(大和街道)となり、万葉集にもうたわれている。特に、橋本 笠田付近に多く残っている。
隅田駅の近くに「あさもよし紀人羨しも亦土山 行き来と見らむ紀人羨しも」の歌が犬養孝の筆になる万葉仮名で刻まれている。