2009年04月

2009年04月15日

私の足跡 32 京・大阪道 天満橋~京都三条

      

 3  大阪の高麗橋から京都の三条へ  距離 70km  日数 4日


  大阪のどこを起点にして出発しようと調べて見ると、近世から 高麗橋は西日本の道路の起点(日本の道路の起点は東京の日本橋)になっていて「里程元標」の跡地であり、紀州街道(熊野街道)の起点にもなっているのでここを出発した。img_2296.jpg
高速道路の入り口で頭上に高速道路がある。100mほど東に行くと永田昆布店 があり、そこに「八軒家船着場の跡」の碑があり、立派な説明書が置いてくれていて自由に頂け、参考にさせてもらった。京・大阪間で人の乗り降りや荷物の積み下ろしで賑わったと書いている。京への上りは一日、下りは半日だったそうです。
  しばらくすると、大阪城の京橋口が見える。秀吉の時代の起点はここ京都 へ行く最初の橋「京橋」が起点だったらしい。img_2300.jpg
新京橋商店街の中ほどの碑に「京街道は(略)豊臣秀吉が文禄年間に淀川左岸の堤防を改修し、堤防上に陸路を開いたのが始まりです。当初は、大阪城の京橋口が起点で(略)江戸時代になって起点は高麗橋東詰に移りましたが、大阪が天下の台所として栄えるにつれてますます頻繁に利用されるようになり・・・」と書かれていた。img_2323.jpgこの京街道は伏見と大阪を最短距離で結ぶため、秀吉が小早川氏等に命じ、昼夜を問わず工事を続けたとある。特に淀川左岸に治水を兼ねて京街道約44kmのうち27kmの堤防(文禄年間に築いたので文禄堤という)を石という石(墓石等も)を使って築いた文禄堤も今は国道1号線の下になっている。
 この京街道も徳川家康によって、伏見・淀・枚方・守口の4宿が東海道の一部に組み込まれたらしい。大名が京都に入って朝廷と接触するのは好ましくないから大津宿から山科盆地を通り、伏見に行かせたとある。
 賑やかな所に、野江刑場跡があった。淀屋辰五郎や天野屋利平兵衛はここで追放処分されたといわれている。東海道にも刑場跡が いくつかあったがその中に丸橋忠弥や八百屋お七が処刑された「鈴ヶ森刑場跡」も同じように街道の賑やかな所に処刑場があり、さらし首を置いた石もあった。これは、「見せしめ」としたため、旅人も「あのようにならないように」と思ったことでしょう。
 ス-パ-ダイエ-の発祥地として有名な千林商店街に寄る。あちこちの商店街は客はいなくなっているが、ここの人盛りはスゴイの一言。
 京・大阪を結んでいたのは古くは主に淀川を船で往来していたが陸路の場合はこの道をつかっていた。img_2346.jpg
 守口は東海道の最後の宿・五十七次目の宿場とされている。(東海道は一般に五十三次とされているが宝永年間の調査では東海道の宿は品川宿から守口宿までと記されている)
「上の見附」の一里跡
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 今はこの写真のように真っすぐ延びた堤防の上を歩くのだが当時はもっと低く、曲がっていたらしい。
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 日本書紀に、仁徳天皇が造らせたというから記録に残された日本の堤防工事の最初の堤防「茨田堤」の碑が建てられていた。



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 五十六次「枚方宿」に到着。「本陣跡』「問屋場跡」の看板があるが何より素晴らしいのは「鍵屋」だ。「淀川三十石舟唄」にも唄われた旧姿をとどめている。天正年間(織田信長時代)に創業したいわれる船宿で今の建物も18世紀末と書いてある。近年(平成9年)まで「くらわんか料理」を供し営業していたが今は枚方市の「鍵屋資料館」となっている。

img20090310.jpg  途中、男山の岩清水八幡神宮へ参拝をする。
 九州宇佐八幡宮から神を勧請したとある。

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 淀川にかかる御幸橋を渡ると五十五次の「淀宿」である。淀殿で有名だが、現在はそれより淀の競馬場の方が有名か
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 五十四次の「伏見宿」に入る。
 角倉了以が造った高瀬川。昔は船の往来が盛んであったという
 今は、観光船が浮かんでいる。
 酒倉の白壁が川面にうつり綺麗だった。




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 ここには醍醐屋・越前屋・山形屋等多くの宿が軒を並べていた。そんなな中で一軒だけいまに伝わる船宿が「寺田屋騒動」や坂本竜馬の話にいまも語り継がれる「寺田屋」である。私もゆっくり見学させてもらった。

 その後宇治川の堤防で旅館「月見亭」を見る。そこには三十石船もあった。

 この頃、桜の時期だったので遠回りだったが「醍醐寺」の桜を見て、京都三条に行く。夕方になったので夜桜の見物をして帰った。






2009年04月01日

私の足跡 31 西高野街道 河内長野~大阪天満橋~

 
  2  橋本→河内長野→堺→大阪(京橋)   距離 45km  日数 3日 

 

 橋本は縄文時代から人が住み、遺跡が残っている。
 奈良時代は都人が和歌山の海や温泉等に行くときに使った南海道があり、橋本を詠んだ万葉集が10首残っている。
 平安時代は空海が高野山に真言密教を開くのに通った町です。
 江戸時代の初めからは応其上人が新しく造った町が栄え、この地域の中心都市として栄えた。高野街道だけでなく、大和街道にも遺跡は随所に残っている。

 大和街道は和歌山から奈良を通り伊勢までの道で、ある時期紀州の殿様が行列をつくり通った道でもある。橋本には十一里塚・十二里塚それに本陣等の遺跡もある。
 大和街道は 後ほど紹介するにして、高野街道を歩きます。
 高野街道には十一里塚等の塚はないがそれに変わるものとして堺から高野山まで一里ごとに十五の里石がある。この里石は現大阪狭山市の姓もない百姓二人が旅人の旅を考え発起人となり造ったものです。(十一里塚等の塚は幕府・藩が造った) 
 御幸辻(旧高野街道と新しくできた橋本の町を通る新高野街道の追分)にも街道を思わせる建物がある。dscf9914.jpg
 そこを出てしばらくすると六里の里石がある。dscf9924.jpg



















 橋本から二里で大阪との県境・紀見峠に着く。ここは大阪から来ると紀州が見える峠ということで紀見峠という。ここにも街道の面影が残っている。
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ここからは 車のよく通る道を通ることとなるので七里石を見ると電車の廃線や里道を通って三日市町へ。ここも、昔の面影を残している所だ。八里石も見て、河内長野へ。古い酒造りの家の前を通る。大きな樟ノ木があった。

 河内長野は東高野街道と西高野街道との追分で当時は大いに賑わったことでしょう。東高野街道については後日に記すことにして今回は堺を通り天満橋へ行くことにする。

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途中、中高野街道との分岐もあった。
道中に里石や地蔵尊等があるが説明のないものもあるので時間がかかる。

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  途中、上の写真のように道標が多くあったのでスム-スに進めることができ有難かった。

dscf0088.jpg しばらく道標を頼りに進み仁徳陵の古墳を過ぎて、堺市の市役所横に到着。

 それから大小路橋をめざして進んだが見つからない。何人かに尋ねてやっと見つかる。今は高架橋の下の植樹帯の中に欄干の一部が頭を出していた。

 昔は賑わったであろう大小路橋も今ではこの姿なので時代の流れを感じるねと仲間と話し合う。

 今回の最終地点の高麗橋から出発している紀州街道(熊野街道)が南の熊野方面に通っている。この街道も熊野詣で賑わった道なので後日に記す事にする。今、記している西高野街道はこの熊野街道から分岐して高野山に至る街道です。


 これから天満橋の淀川まであと少しだ。

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 途中、住吉大社や四天王寺にお参りしながら目的地の高麗橋の里程元標に到着。日本の里程元標は東京の日本橋にあるが西日本の道路の起点だ。