2009年03月

2009年03月15日

私の足跡 30 高野山~日本海へ。高野~橋本

  第三部    高野山から日本海の小浜まで


   総延長  200Km   総日数    9日


  N01 高野山から大阪(京橋)まで    総延長 60Km  総日数 3日

 これから、高野山から太平洋の小浜まで歩きますが、いろんな道があるので整理してみたい。
 先ず高野山から北の紀ノ川へ下り、京都・大阪へ続く道は高野七口の内三口がある。(後四口は南の方へいく)

 一つは空海以来の歴史があり、有名(世界遺産)な町石道です。これについては簡単だが前述しているので省略します。

 二つ目は高野山へは道は険しいが最短距離の黒河道です
橋本から二つの峠を越え、最後に約1000mの峠を越え、奥の院の裏手に着きます。その間、時々小さな集落を通るが後は殆んど山中です。最後の峠の手前の集落は昭和の初めからは集落跡になり、今は家の石垣跡や田んぼの跡が残っているのみである。
 この道を有名にしているのは、1594年(文禄3年)豊臣秀吉は母の霊を弔うため、高野山に青巌寺を建て三回忌の供養を行った際、高野山で弘法太子以来禁じられている大能楽を笛等の鳴り物を使って催したため、雷鳴が鳴り響き、豪雨となった。これはきっとと思った。それで、秀吉は馬に乗り弘法太子の怒りにふれたものと思い、この黒河道を使い急ぎ馬に乗り駆け下り、紀ノ川の近くの利生護国寺に逃げたという話の道です。利生護国寺にはその馬を繋いだという「駒繋ぎの松」の何代目かがある。

  もう一つの三つめは、江戸時代から明治時代までよく利用された学文路から不動坂を通り女人堂までの道です
 この道は黒河道より長いが、町石道(5里)に比べ3里と短く、黒河道のようには険しくないということでよく利用された。
 この二つの道は応其上人が橋を作ったりして、橋本の町を開いてからよく利用されるようになった。

 これ以外に 7口ではないが名手から花坂まで来て後は町石道を通る。または粉河寺の粉河から花坂に来て後は町石道を通る、という道もある。(でも、この道は矢立で町石道に合流しているから町石道と同じ)
 
 今回は、三つ目の不動坂を通り、学文路・橋本・河内長野・堺・大阪・京都までの道をたどることにする。

  1 高野山から橋本まで   距離  16km
 
先ず、高野山に七つあった女人堂で唯一現存している不動坂口の女人堂から出発。
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 (明治の初めまでは 女性はこの女人堂より中には入れなかった所です。)

 この不動坂から学文路までのことで顕著なことを三つ書きます。

 一つ目貝原益軒の紀行文です。この道を歩いて記事を書き、現在残っている物の中に江戸時代前期に活躍した貝原益軒(1630~1714)の「己巳紀行」の中に この道の事を次のように書いている。(高野山大学の村上・山陰先生共著の「高野への道」より抜粋)[それより山を下る。不動坂にかうのたき(稚児の滝の誤り)有り。佳き景也。不動堂有。小也。神屋(神谷)は高野の坂半ばに在。大塔より五十町有。民屋有。此間、道嶮難也。馬にのる事あたはず。藍輿にものられざる所あり。此下に所々、山の側に桃花多し。鐘鋳(河根)、神屋より五十町有。かぶろ(学文路)の宿高野より三里有、俗にいふ、かるかや道心の妻の墓有。其前に小寺あり。常念仏也。清水・三軒屋など皆高野往来の道にて茶屋有。旅人宿す。・・・・・]とある。
 貝原益軒の時代の神谷は上記のようであるが江戸時代中期の「南歩の紀行」によると神谷について「紙屋宿駅繁多なり」とある。
 明治時代には街道沿いに十件ぐらいの旅館があり、その内容は 普通の旅館と遊興のための料理旅館と行商人等の木賃宿に大別されていたともいわれている。とにかく、「日が昇ると銭が涌く」と言われたぐらい繁盛したらしい。dscf4886_2.jpg


 ところが、昭和の初めに電車が極楽橋まで延びたのでお客はサッパリになり、人口も減り、今では面影を残す家もあるが民家もわずかになり、児童数100名を越えた学校も今は廃校となっている。





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dscf4889.jpg 二つ目は、この地で起きた事件を記しておきます。  

 それは、明治六年に太政官布告で 仇討ち禁止令が出される前の明治2年にこの坂で仇討ちが行われた。
 これがわが国最後の仇討ちの地
といわれている。
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  1479年に書かれた「親長卿記」に河根で休憩したとあるので室町中期より宿場があったことがわかるが最も栄えたのは江戸時代以後から明治時代までであつた。
 左の写真は 当時賑わったころ繁盛した宿で 前記の仇討ちの人もこの宿を使用したことでしょう。

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 三つ目は、登山口の学文路は石童丸物語にゆかりの地で、刈萱堂がある
そして、石童丸・父の刈萱道心・母の千里等の木造坐像等がある。


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 坂道も終わり、平らな道になり、橋本方面へ。

 ここの三叉路に慈尊院へ一里、女人堂へ三里の標柱がある。
 途中、学問の神様といわれる学文路太師がある。

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 また、六地蔵一つや古い屋敷があったりして昔の街道の面影がよく残った所です。
(この六地蔵は第一の地蔵で旅人の安全を記念してつくられている。ここは西行庵ともいわれ高野山に隠棲していた西行が冬の寒さを避けて庵を結んだ所といわれ 堂内に西行法師の月見像といわれる木像があんちされている)

江戸時代は街道筋に200軒余りの民家が密集し、伝馬所には馬が60頭もいて繁栄していたらしい。今も重厚な瓦屋根の下に格子戸や蓮子窓を残す家も多い。
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三軒茶屋に着く。応其上人が開いた橋本と渡し船で結んでいた所だ。
 現在も川の両側に約250年前に建てられた高さ3.5mの大常夜灯が今も
ある。この渡し船は高野山の援助もあり、無賃で24時間営業だった。

    (左側は清水側の常夜灯     右側は橋本側の常夜灯

(以前、ここに応其上人はこの川に木造の約200mの橋を1587年に作ったが3年後に流されたので渡し舟をつくった。)

 次は橋本だが、縄文時代からの住居跡も見つかり古くから栄えていたが、秀吉の時代に応其上人が塩市等を開き、爆発的に発展した町です。
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 木食応其上人は古佐田村に1585年に町をつくり、定期市を開き、塩の販売の独占権を与え豊臣秀吉から永代諸役免除の特権を得て、橋本の町の発展の基礎を作った。2008年は応其上人没後400年祭で地元橋本は多くの催しがあった。

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      応其上人を祀った応其寺

  高野街道と大和街道の追分の道標
この橋本は高野街道と大和街道が交差して賑やかな町に成長した。
 







2009年03月01日

私の足跡 29 熊野古道 大雲取越

  
   2005年11月12日


   NO 2  大雲取越


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 6時前に起き、朝食をしっかりいただき、弁当をいただく。
 宿舎の「小口少年自然の家」を6時45分に出発。

  玄関前で記念撮影

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 高倉橋を渡ると郵便局がある。
 しばらくすると、舗装された道の右に
 細い登山道があり、本格的な登山開始


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 初めは、石の階段だったり、木の階段だったりの道でよく整備されている。

 左の写真のように、石畳の道を歩くこともある

 石の上に苔が生え、古さが感じられ、江戸時代の人もこの上を歩いたと思うと何ともいえない感じになる。足も軽くなり、着実に歩を進める。img20090201_4.jpg











  7:20.円座石(わろうだいし)に到着。


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苔むした何百年前の石仏がわたし達何万・何千人の旅人の安全を守ってくれている。また、何万・何千人の旅人が旅の安全を祈ったことでしよう。
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 途中、楠の久保旅籠跡を過ぎたあたりから「洞切坂」と呼ばれる急坂を登ると越前峠に到着。

 登山開始後、約2時間。


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このような石畳の道や木や石の階段を登ったり、下ったりを繰り返していると、石倉峠に到着。 

出発からの距離 約6Km。
 
 そして、約15分で地蔵茶屋跡に。
 
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 しばらく歩くと林道と合流したり、離れたりを繰り返す。
 地蔵茶屋跡から約1時間歩くと船見峠に到着。ここではその名の通り雄大な熊野灘ガ見え、船の浮かんでいるのが見えてきた。雄大な景色に酔いしれると共に海に近づいたと思いホットする。

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 船見峠から船見茶屋跡・登立茶屋跡と急坂の連続の道を約1時間下ると那智高原休憩所に着く。ここから那智の二の滝・三の滝等への入り口を通り、よりひどい急坂を下るとやっと熊野那智大社・青岸渡寺に到着、二時半
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 両社寺に無事に大雲取越えを終えたのでお礼のお参りをして、大門坂を下る
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  そして、JR那智駅の近くの潮垢離の
 聖地として有名な浜の宮神社、補陀洛
 渡海上人や平維盛入水の秘話が残る
 補陀洛山寺に参る。



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       最後は那智の浜で太平洋の
   水をペットポトルに入れ、これ
   を鯖街道を歩き終えたら日
   本海に 注ぐ計画を立てる
。                  




 那智大社で、うっかりして余計なことをしていて、時間が遅れ、それが列車も一列車遅れるという結果になり、勝浦で夕食。
 家着、10時40分。

 これで、高野山から那智の海までの距離約100Kmを6日間で歩いたことになる。