2009年02月

2009年02月15日

私の足跡 28 熊野古道 小雲取越

 第二部  本宮から那智  総延長 30km   日数 2日         


 2006年11月11日

 K氏M氏と熊野街道の南端 本宮から小雲取越・大雲取越を通り那智まで

     
    N0Ⅰ 小雲取越


 一日目

 六時に家を出、和歌山でK氏M氏と合流し田辺まで。タクシ-で請川まで
(交渉して一万円)。img20090130_3.jpg
 請川を11時に出発。
 すぐ登山道に入る。
 雨は降っていないが予報ではよくない。
 今日は標高差約500mを越えなくてはいけない。

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 天気予報の通り、霧雨が降り始め、石畳の石が滑りやすくなる。
 遠くの景色も見えにくくなってきた

 傘を出して使う。


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 小雲取越の最大の名所「百間くら」だが天気が悪く、いまひとつ。
 後方に見える山々は前回(昨年の10月10日)越えた果無山脈か?
 
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 この付近には、写真のような句碑がいくつもあり、私達を楽しく歩かせてくれた。

 少しの間 降っていた雨もやみ、視界もよくなってきた。



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 少し歩くと、大きな広場に出た。そこは 桜木茶屋跡で当時相当賑わったことでしょう
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 この小雲取越には、三ヶ所の茶屋跡がある。それぞれの茶屋はいろんな工夫をして、経営していたことでしょう。
 この桜木茶屋は峠の近くなので、はるか下方の小和瀬集落に白装束の団体が見えると急いで餅をつき、団体客が茶屋に着くころにつきたての餅を出していたと上の標識に書いている。つきたての餅で美味しく よく売れたことでしょう。

 (ほとんどの峠には、餅屋がある。中山道を歩いた時 碓氷峠・和田峠には
 今も餅屋が営業していた。峠を登って疲れた時の美味しさはたまらなかった。疲れも消えた感じがした。)
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 はるか下方に小和瀬集落が見える。img20090130_7.jpg

 標高差約400mを約一時間かけて下る
 石の階段も所々にあり、とにかく急な坂道でマイッタ。
 道が濡れて滑るので慎重に下る。img20090130_8.jpg





 やっと小和瀬集落に到着。赤木川にかかる小和瀬橋を渡ると「小和瀬渡し場跡」がある。(16:00)



img20090131.jpg 16時半、予定通り宿舎の「小口少年自然の家』に着く。
廃校の元学校を改良した建物で教室が部屋になっている
校舎の前は運動場で多目的広場になっている。
 風呂もあり、三食つきで8000円だった


2009年02月01日

私の足跡 27 高野山から熊野へ 十津川~本宮。高野山

 高野山から熊野へ  

 NO 2  十津川から本宮へ  距離 15km  日数  1日      

 2005年10月10日

三日目

  今日は 小辺路越えの三日目疲れも出てきている。
  十津川温泉の宿を早朝に出発。またもや雨。今回の登山は天気に恵まれない。
 宿の主人に登山口まで送ってもらう。登山口で雨具をつける。
熊野本宮大社への最後の峠越えのこの道は、今も古道の雰囲気を残しています。特に果無峠の登りには石畳が残っており、地元の信者によって祀られた三十三体の観音石仏は、峠を行く私達旅人を見守ってくれています。dscf3433.jpg
 この峠越えは、標高約100mの十津川温泉から標高約1100mの果無峠までの約5Kmを2時間弱で登り、また、同じように下るハ-ドなコ-スです。特に、今日は朝から雨で条件が悪い。気合を入れて頑張ろう。




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 約30分の急登で果無集落へ。ある民家の人がわざわざ雨戸をあけて、我々を休憩させてくれた。感謝・感謝。
 その後は石畳の道や落ち葉の土の道を。そして、緩い坂道、険しい坂道が続く。
 釈迦岳が見えると書いていたが雨天のため見えず、残念。
 約一時間半で、観音堂へ。観音さんを祀った社があった。旅の安全を祈願する。dscf3473.jpgそこには、トイレ・給水所もあり有難かった。ここは、標高約800m。あと30分で標高約1100mの果無峠だ。険しい道が続く。dscf3505.jpg








 やっと果無峠だ。木々に覆われた広場だ。宝キョウ印塔と十七番の観音像がある
 峠を過ぎれば、登りと同じように約1000mの下りが待っている。特に今日は雨なのでスリップに気をつけねばならない。慎重に 下る。
 観音さんの番号が減って行ったり、標識の距離が減っていくのを楽しみに歩く。dscf3600.jpg
 約一時間ほど歩くとはるか下方に十津川が見えた。元気が出る。dscf3605.jpg










 そして、一時間弱で八木尾バス停の国道にやっと到着。(12時15分)
 この八木尾は、木材の集散地として栄えた頃があり、旅館などが多くあり、栄えた頃があつたらしい。
 集まった材木を筏にして新宮まで運んだらしい。
 昔はここから船を利用して本宮へ、そして新宮まで行った人もあったらしい。

 わたし達は国道を歩いて道の駅「ほんぐう」へ。今日一日着けていた雨具を脱ぐ。心身共にスカットす。ビ-ルの味は格別だ。
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 本宮大社に参り、無事に旅を終えてお礼をする。そして、記念写真をdscf3609_1.jpg


 本宮大社が 明治時代の大洪水まで祀られていた大斉原に行く
今回の旅は 雨が多く痛められたが、自然界では雨が降るのは当たり前だ。
運が悪かっただけだ。それよりも、3人無事に完歩できたのはうれしい事と思う。
 
 15時過ぎのバスで田辺へ。17時45分発の列車にのる。帰宅、21時過ぎ。





小辺路の最終 高野~大股   距離 17km  日数 1日       

 2005年10月16日

 高野山から熊野までの小辺路を 都合により残しておいた高野~大股を歩くことにした。
 都合で車で大股へ行き、そこから高野山へ帰るようにした。
 大股では、前回の悪夢の雨を思い出し3人で話す。今回は 快晴。ゆっくり景色を楽しみながら歩く。img_0545_1.jpg
大股を出発して まもなく急にはげしい登りになる。近年、林道が開発されて
大事な古道がズタズタに寸断されているのは、とても残念だ。img_0573.jpg







 でも、古道の道端には、多くの旅人を見送った石仏がたくさん残っていたので、有難かった。
 2時間近く歩くと、本日の標高最高地点である林道と古道の合流点(標高 約1000m)へ。しばらく歩くと何軒かの水ヶ峰集落跡に到着。建物はなく、屋敷の石垣とお墓だけです。何年か前までは、子どもの遊び声や大人の会話が聞こえていたと思うと、寂しい思いがした。でも、このお墓に最近お参りしたのか新しい花がいけられていたので嬉しかった。
 すぐに、高野龍神道と合流し、そこを約30分歩く。ドライバ-は人が歩いているのでびっくりしている。我々も車には細心の注意をはらい歩く。 約2Kmだが、何とか改善できないだろうか。
 車の道と別れると、静かな古道に入る。約3Kmで大滝集落へ。この集落も
人口が減り、住民も高齢化しているそうだ。
 高野からこの大滝までは、年1回清掃ウォ-クに参加し歩いている道だ。
  ここから、急下降となり御殿川へ。そして、急上昇する。
 ほどなく、文久二年(1862年)に建立された丁石(道標)に着く
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丁石には「右側には高野山へ四十丁、くまの本宮へ十七里 左側には大坂十六里奈良へ十八里 和歌山へ十二里」と記してある。 
 坂道を約30分登ると薄峠に着く。img_0592.jpgここからなだらかなアップダウンの道を約30分歩くと大滝口女人堂跡だ。

この高野山への道は7口あり、それぞれの入り口に「女人堂」があり、女人禁制の時代はここより中には入れなかった。ここはその一つでロクロ峠といい、山内に入ることを許されなかった女性たちは、ここから伽藍を遥拝し、仏の救済を祈った。(現存している女人堂は不動坂の一つだけ)





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 約20分で ゴ-ルの高野山大学に着く。これで、約70Kmの小辺路を歩き通して、喜びのハイタッチ。そして、軽く祝杯。帰宅、5時半。

 ここで 小辺路を纏めると「熊野参詣道小辺路は、霊場「高野山」から一部奈良県に入り、1000mを越える伯母子岳・三浦峠・果無峠の三つの峠を越え、その間人家も少なく、(現在は携帯電話も殆んど圏外)という悪条件の険路だが、高野山と本宮を結ぶ道で約70Kmだが最も短期間に往来できる道である。それで、畿内・近国の人々、特に大阪方面から高野山を経て熊野に向かうには都合がよかったのです。そして、本宮から高野山へは「高野道」、高野山から本宮へは「熊野道」とよばれている。

 江戸時代の人は、この小辺路を何日で通っていったのか、気になる。
 記録に残っているのは少ないが、芭蕉の門弟・曽良は「熊野道」で2泊3日真別所の妙瑞師は「高野道」で2泊3日 伊丹の酒造家「八尾八左衛門」は3泊4日でいっている。(詳細は旅日記等を)
 今は00茶屋跡等となり廃屋になっているが、当時は茶店や旅籠が、賑やかに繁盛していたと記録には残っている。
 でも、昔の人は健脚だったということがわかる。