2008年10月
2008年10月15日
私の足跡 19 東北の名峰 鳥海・出羽三山・苅田岳
2006年9月15~18日
M氏と東北の名峰 鳥海山・出羽三山・蔵王山へ
一日目
大阪発の夜行寝台列車「日本海」で出発
二日目
寝台列車なのでよく眠れ、身体を横にしていたので楽だった。
夜明けと共に、太陽も見え天気もよさそう。
象潟着、7:39。タクシ-の値段交渉をし、矢島の登山口へ。
皇太子殿下もこの登山道を使い鳥海山に登ったと運転手に聞く。
9:00,登山開始。
最初は高山植物の咲き乱れる湿原の木道を歩くがすぐに急登の連続となり、後方に見える頂上を目指す。 一時間ほど急坂を登っていくと、さすが、豪雪地帯にそびえる山なので高度は低いが途中に雪渓が多くあったのでその上を歩くが、夏の終わりなので解け始めていたので足元に充分に気をつける。
急登があったり、緩やかな登りがあったりした登山道だった。
火山の山だけあって、頂上に近づくと火山岩や火山礫ばかりで気をつけて登る。
天気も晴れて自分達の登ってきた道や下界の景色が良く見えたり、ガスって見えなかったりだった。
標準より速く、3時間半で頂上(2236m)に着いた。
この鳥海山は飛行機で何回も見て一度は登りたいと思っていた憧れの山です。10月の末か11月にこの上を飛行機で飛ぶと頂上付近が真っ白で、独立峰なのですぐわかる素晴らしい姿の山です。
頂上からはガスで駄目な時もあったが、時々見せてくれる景色は素晴らしかった。
帰りも、同じ道を3時間で下山。
予定より一つ早い列車に乗れたので、宿泊地の鶴岡にも早く到着し、明日からのレンタカ-についての話ができた。(昨年の反省から)
宿舎に電話をして迎えにきてもらう。
お客は二組でおかみさんともゆっくり話せた。
三日目
早朝、主人に駅まで送ってもらい、昨日交渉しておいたレンタカ-を借り、8:00にM氏の運転で出発。月山の登山に向かう。大きな鳥居をくぐり、登山口へ車を走らす。
9:00、登山開始。
初めは高山植物の咲き乱れる湿原の木道を歩くがすぐに急登の連続となる。
途中の仏生池小屋付近には、山岳信仰の山らしく石仏がたくさんあった。
行者返が終わるまでは急登だったが後は割りに緩やかな道で気持ちの良い登山道だった。
出羽三山の主峰・月山(1984m)の頂上には12:00に到着。
立派な月山神社があり、我々も健康と登山の無事の祈祷してもらった。
頂上からの景色は、昨日と同じくガスが多かったが、時々見せてくれる景色は素晴らしかった。
登山口着、15:00。
鶴岡までの帰途、出羽三山の二番目・羽黒山に参る。ここには、月山・湯殿山・羽黒山の三社を合祀した出羽三山神社がある。冬季には月山・湯殿山に登ってお参りできないのでここにお参りすると三神社にお参りしたことになるとのこと。それで、この神社のスケ-ルの大きさにびっくり。
少し離れた所ある国宝の五重の塔の見学。当時は白木作りで、釘一本も使用していないそうです。明治の廃仏毀釈の時、仏像のかわりに神様を祭り、難を免れたとも書いてあった。
その後、連泊したので昨夜の宿舎へ。部屋に置いてあったお酒を冷蔵庫に入れて冷やしておいてくれた。
明朝の出発は早いので宿泊料の支払いを済ます。
四日目
6時に宿舎を出発。出羽三山最後の山・湯殿山にむけ出発。
早く出すぎたので有料道路は係員はいなかった。湯殿山の境内に入るのも早すぎて入れなかったが交渉して入れてもらった。
ここでも、祈祷料を払い健康と安全をお願いした。
ご神体は 小山の岩からお湯の出る岩山で素足になれば登らせてくれた。
ご神体ですので、写真撮影禁止。あまり詳細を記してはいけないそうなのでやめておきます。
台風が接近しているので、急いで蔵王の刈田岳へ向かったが頂上の駐車場では雨がひどく降ってきたので登山を中止し、台風の来ぬ間に帰ることにした。
山形でレンタカ-を乗り捨て、山形発、15:05分発の新幹線で東京へ。
そして、新幹線を乗り継ぎ新大阪へ。帰宅、21:00前。
2008年10月01日
私の足跡18 冬の美ヶ原 釈迦岳
2006年3月11~12日
ツア-でK氏S氏とで冬の美ヶ原へ。
一日目
6時前に家を出、難波へ。そして、新大阪へ。大型バスでお客は全部で9名の参加。
8時発、一人に4人分の座席がある。京都でS氏も合流。
途中の休憩も参加人数が少ないため速く終わるので時間を充分とって時間を調整する。
途中の山の景色も完全ではないが綺麗に見えた。
美ヶ原着、15;00。
小屋の前には、大きなツララがあった。
大きなリュックを置くと早速スノ-シュ-を履き、王ケ鼻へ夕日の撮影に行く。
夏に来たときは、高山植物が綺麗に咲いていた所も雪に覆われているのでその上を歩いて行く。
天気はよくなかったが一時綺麗に見えることもあった。
ホテルに帰り、風呂に入り、夕食後、三階で大おかみによる美ヶ原の四季のスライドの鑑賞会があった。
二日目
朝、起きて外をみると粉雪が舞っている。
朝食後、出発をする頃は少し良くなっていた。
早速スノ-シュ-を履き出発。夏は放牧地帯で通れない所も歩いて「美しの塔」まで行く。雪でボンヤリとしか見えなかった。 帰る時、途中より南極大陸で活躍していたが、今は使っていない「雪上車の体験乗車」があった。
エンジンの音が大きいのでやかましく、またクッションが悪いため天井に頭を打ちそうだった。こんな雪上車を使って観測していたのは大変だっただろうと思う。
昼食後、出発。麓に降りた時は降っていなかったが、途中より雨。
大阪へ一時間以上早く到着。
2006年5月4日
U氏K氏M氏とK氏の車で 釈迦岳へ。
家の近くで、K氏の車に乗せてもらい、五条経由で登山口へ。
9:40、登山開始。
最初はきびしい登りだったが、あとは緩やかなアップダウンで快調にとばす。一時間少し登ると前方に目指す釈迦岳が見えてきた。
カメラのズ-ムレンズで頂上を覗くと釈迦像が確かに見えた. しばらくすると釈迦像が肉眼でもくっきり、見えてきたので元気が出てきた。
最後に急坂を登るとお釈迦さんが私たちを出迎えてくれているようだった。
頂上着、12:10。
連休中なのか登山客が多く若い人も多かった。テントを張り、夜を過ごした人もいて羨ましかった。
ある強力が一人で担ぎ上げたといわれるブロンズの釈迦像が少し前かがみに建っていた。像高2.45m 石の台1m 計3.45m。台座に1924年 仏立界が建てると記してある。そして、「岡田雅行独力ニテ運搬セシ者也」と台座の隅に刻銘されている。一介の雇われ人夫の名を銘にきざんだのは心を動かす何かがあると思い図書館へ通い調べてみた。
正式には岡田雅行だが通り名は「鬼雅」とよばれていた。
彼の仕事は、吉野から山上ケ岳の宿坊まで、米・味噌・灯油などの約60kg以上の品物を季節には毎日運ぶ身長180cmの屈強の大男だったそうです。
その彼に釈迦像の運搬の話がきた。像を分けて運ぶとはいえ、物は物だ。
米等とは重さが違う。まして、お経も知らず仏に手を合わすことも嫌いで信仰心もない。最初は断ったが、お金のこともあるし、度重なる願いで承知した。
承諾したかぎりは仕事を完成させようと決心し、仕事を始めた。そして、何日目かに大好きな酒を断ち(一升瓶の酒は軽く空けるという酒豪だった。)「お釈迦様の建立に全てをかけよう」と思い、毎日励んだ。
そして、やっと完成。出来上がったお釈迦さんを見上げて、彼は願い主に言った。「わし、お金いらんわ。お釈迦さんを運び上げたので本望や。」言った。そして、しばらくして「吉野から煙のように消えた」とある。そして、亡くなったのは吉野ではないらしい。
こんな話のある釈迦像も2007年に立て替えられたのを残念に思うのは私一人ではないでしょう。
この話から、白馬岳の頂上にある大きな石の方位盤を一人で担ぎ上げたという事を題材にした大好きな新田次郎の作品「強力伝」を思い出した。
昼食後、13:00,頂上発。途中、バイケイ草の花を楽しみながら下山。
途中、振り返ると釈迦岳が見送っていた。その隣には鋭い岩峰の大日岳が私達の登山を待っているようだった。
また、野生の鹿が、私達に挨拶をするかのように顔を見せてくれた。
15:30,登山口着。 途中、「夢の湯」で汗を流して帰った。
ツア-でK氏S氏とで冬の美ヶ原へ。
一日目
6時前に家を出、難波へ。そして、新大阪へ。大型バスでお客は全部で9名の参加。
8時発、一人に4人分の座席がある。京都でS氏も合流。
途中の休憩も参加人数が少ないため速く終わるので時間を充分とって時間を調整する。
途中の山の景色も完全ではないが綺麗に見えた。
美ヶ原着、15;00。
小屋の前には、大きなツララがあった。
大きなリュックを置くと早速スノ-シュ-を履き、王ケ鼻へ夕日の撮影に行く。
夏に来たときは、高山植物が綺麗に咲いていた所も雪に覆われているのでその上を歩いて行く。
天気はよくなかったが一時綺麗に見えることもあった。
ホテルに帰り、風呂に入り、夕食後、三階で大おかみによる美ヶ原の四季のスライドの鑑賞会があった。
二日目
朝、起きて外をみると粉雪が舞っている。
朝食後、出発をする頃は少し良くなっていた。
早速スノ-シュ-を履き出発。夏は放牧地帯で通れない所も歩いて「美しの塔」まで行く。雪でボンヤリとしか見えなかった。 帰る時、途中より南極大陸で活躍していたが、今は使っていない「雪上車の体験乗車」があった。
エンジンの音が大きいのでやかましく、またクッションが悪いため天井に頭を打ちそうだった。こんな雪上車を使って観測していたのは大変だっただろうと思う。
昼食後、出発。麓に降りた時は降っていなかったが、途中より雨。
大阪へ一時間以上早く到着。
2006年5月4日
U氏K氏M氏とK氏の車で 釈迦岳へ。
家の近くで、K氏の車に乗せてもらい、五条経由で登山口へ。
9:40、登山開始。
最初はきびしい登りだったが、あとは緩やかなアップダウンで快調にとばす。一時間少し登ると前方に目指す釈迦岳が見えてきた。
カメラのズ-ムレンズで頂上を覗くと釈迦像が確かに見えた. しばらくすると釈迦像が肉眼でもくっきり、見えてきたので元気が出てきた。
最後に急坂を登るとお釈迦さんが私たちを出迎えてくれているようだった。
頂上着、12:10。
連休中なのか登山客が多く若い人も多かった。テントを張り、夜を過ごした人もいて羨ましかった。
ある強力が一人で担ぎ上げたといわれるブロンズの釈迦像が少し前かがみに建っていた。像高2.45m 石の台1m 計3.45m。台座に1924年 仏立界が建てると記してある。そして、「岡田雅行独力ニテ運搬セシ者也」と台座の隅に刻銘されている。一介の雇われ人夫の名を銘にきざんだのは心を動かす何かがあると思い図書館へ通い調べてみた。
正式には岡田雅行だが通り名は「鬼雅」とよばれていた。
彼の仕事は、吉野から山上ケ岳の宿坊まで、米・味噌・灯油などの約60kg以上の品物を季節には毎日運ぶ身長180cmの屈強の大男だったそうです。
その彼に釈迦像の運搬の話がきた。像を分けて運ぶとはいえ、物は物だ。
米等とは重さが違う。まして、お経も知らず仏に手を合わすことも嫌いで信仰心もない。最初は断ったが、お金のこともあるし、度重なる願いで承知した。
承諾したかぎりは仕事を完成させようと決心し、仕事を始めた。そして、何日目かに大好きな酒を断ち(一升瓶の酒は軽く空けるという酒豪だった。)「お釈迦様の建立に全てをかけよう」と思い、毎日励んだ。
そして、やっと完成。出来上がったお釈迦さんを見上げて、彼は願い主に言った。「わし、お金いらんわ。お釈迦さんを運び上げたので本望や。」言った。そして、しばらくして「吉野から煙のように消えた」とある。そして、亡くなったのは吉野ではないらしい。
こんな話のある釈迦像も2007年に立て替えられたのを残念に思うのは私一人ではないでしょう。
この話から、白馬岳の頂上にある大きな石の方位盤を一人で担ぎ上げたという事を題材にした大好きな新田次郎の作品「強力伝」を思い出した。
昼食後、13:00,頂上発。途中、バイケイ草の花を楽しみながら下山。
途中、振り返ると釈迦岳が見送っていた。その隣には鋭い岩峰の大日岳が私達の登山を待っているようだった。
また、野生の鹿が、私達に挨拶をするかのように顔を見せてくれた。
15:30,登山口着。 途中、「夢の湯」で汗を流して帰った。