2009年01月15日
私の足跡 25 橋本~高野山~熊野本宮~那智
<>新年を迎え、よいお正月をお過ごしのことと思いす。
今年も 私のブログを愛読していただくことをお願い申し上げます
昨年1年間は、「私の足跡」のうち、登山の部を記しましたが、今年は街道
歩き 等の「ウオーキングの部」を記します。
私のウーキングの主なものは下記の通りです。
1 日本海から鯖街道・京 大阪道・熊野街道を通り太平洋へ。
2 中山道の全宿場に足跡を残す。
3 東海道492km完全走破。
4 伊勢街道を歩く。
5 葛城修験道を歩く。
6 四国遍路を歩く。
7 その他
上記のウオ-キングの全ては 、一度に歩き終えたのではなく、何度も出かけ
到達したものばかしです。
日本海から鯖街道・京 大阪道・熊野街道を通り太平洋へ
17年7月に 日本で12番目に世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と
参詣道」の近くに住んでいる。この「紀伊山地の霊場と参詣道」を最初に記し
ていきます。
近くに住んでいたというのが第一だが,登山などにも興味があったので、
上記の世界遺産の一部・「高野山の町石道」の語り部の講習会を受け、そ
この語り部を現在も続けている。
このスバラシイ「高野山の町石道」を、後々の世代の人達にも愛し続けて
欲しいという願いから世界遺産マスタ-になり、美化に勤めたり、簡単な補
修を自分達の手で行い、手におえない事は連絡をして修理してもらい保全に
勤めています。
また、「町石道」の周辺の杉林の間伐をするときは手伝いにも行きます。
ここで、町石道について簡単に記してきます。機会があれば是非歩いてく
ださい。
弘法大師は、816年に嵯峨天皇の許しを得て、高野山を真言密教の道場
として開いた寺です。御年42才の時です。
生活の拠点・京都から高野山へは、和歌山の慈尊院をへて、高野山へ登る
道を作った。これが町石道です。![img20090208.gif](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/e/de76f9d8.gif)
「高野山の町石道」は九度山から高野山の壇上伽藍までの距離約20km 標高差約800mをお客さんの脚力にもよるが約7時間かけて登る道です。
当初、弘法大師が開いたといわれる道で、初めは 木の卒塔婆だったが、
鎌倉時代に一町(約109m)ごとに花崗岩の町石卒塔婆を180基を揃えた参
詣道です。(参詣道では、世界遺産の二例目)
出発地の慈尊院は、当初 高野山の政所であった。
弘法大師の母親が息子の修行している様子を知りたく、晩年ここで過ごし、
終焉している。(国宝 弥勒菩薩がある。) 世界遺産になっている。
この町石道を長い間 上皇・貴族・武士・庶民が極楽浄土に導かれますよ
うにと祈りながら登った道です。苔むした180基の町石道のそれぞれに歴
史の重みが感じられ、約700年以上もの間に、幾多の人々を見送ったこと
と思うといろんな思いがします。町石ばかりでなく、道端の木々・草木にも
同じ思いがします。
この道は 本来、祈りの道だと思いますが、登る人によって思索の道かも
知れないし、ただ単に語らいの道などいろいろあると思います。
そして、江戸時代までも続き、南海電車が高野山まで通じるまでおおいに
賑わった道です。その道が現在も残り、当時の町石卒塔婆も殆んど残り(な
くなっていた石は大正時代に殆んど補充)、世界遺産にされている。
途中の天野に、高野山と深い関わりのある丹生都比姫神社(建物の一部
重文)があり、ここも世界遺産になっている。
ここ天野の里は、西行の奥さん・娘が尼さんになりここに住み、墓もある。
また、横笛が恋人の滝口入道に会いたくて京から天野にきて待ち続け、18
才であの世へいった等話題も豊富な所です。
60町石より上には「鞍架け石」「押し上げ石」等弘法大師に関わった石が
残っている。
今までに、北は北海道の夫婦が四国遍路を終え、高野山に参る時に案内を
した。
また、南は、沖縄の教員が休みを利用して、近畿地方の世界遺産をめぐる時
に案内した。
新潟や大分県の「山好きの会」の団体も案内した。
このように、日本各地のいろんなお客さんを弘法大師の霊場へ案内している。
その中には、小学生の団体がいたり、大学生のグル-プもいました。
![img20090116_1.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/2/22564e7a.jpg)
![img20090116_3.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/e/9ead8d54.jpg)
町石道には四季の顔がある。
初夏には、花々に囲まれ 新緑の木々に覆われた町石道。
秋には、紅葉の葉に覆われ紅葉の葉を踏みしめて登る町石道。
冬には真っ白な雪の道を踏みしめて登る町石道。
どの季節もスバラシイです。
![img20090116_6.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/e/8ed51912.jpg)
ささ百合
白糸草の群落
![img20090116_5.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/1/a139da19.jpg)
![img20090116_7.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/f/1fb605dd.jpg)
カラスウリの花
はないかだ
特に 初夏には花々が満面に笑みをたたえ、私たちを迎えてくれる。
上記のように、「高野山の町石道」に関わったことから、白河上皇や鳥羽上
皇等の皇族や藤原道長等の貴族たち それにたくさんの庶民が 何度もお参り
に使った道を歩いてみたくなった。
先ず、高野山から熊野神宮を経て 那智大社へ。
次は、京都から日本海の小浜までの鯖街道
最後に京都から大阪を経由して高野山への道。 を記していきます。
地図は不鮮明なので補足します。
日本海の小浜から京都までの鯖街道。京都から大阪までの京・大阪道。
その途中の八幡から河内長野までの東高野街道。
大阪から堺・和歌山・田辺を通り、本宮までの熊野街道。
この途中の堺から河内長野までの西高野街道を通り、橋本から学文路を
経由して、して不動坂を通り、高野の女人堂へ。
この道の学文路から九度山経由で高野山町石道を通り高野山の大門へ。
高野山から小辺路を通り、本宮へ。
そして、小雲取越・大雲取越を通り、太平洋の那智に至る。
また、田辺から串本を経由しての大辺路と伊勢と那智とを結ぶ伊勢街道
がある。
今年も 私のブログを愛読していただくことをお願い申し上げます
昨年1年間は、「私の足跡」のうち、登山の部を記しましたが、今年は街道
歩き 等の「ウオーキングの部」を記します。
私のウーキングの主なものは下記の通りです。
1 日本海から鯖街道・京 大阪道・熊野街道を通り太平洋へ。
2 中山道の全宿場に足跡を残す。
3 東海道492km完全走破。
4 伊勢街道を歩く。
5 葛城修験道を歩く。
6 四国遍路を歩く。
7 その他
上記のウオ-キングの全ては 、一度に歩き終えたのではなく、何度も出かけ
到達したものばかしです。
日本海から鯖街道・京 大阪道・熊野街道を通り太平洋へ
17年7月に 日本で12番目に世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と
参詣道」の近くに住んでいる。この「紀伊山地の霊場と参詣道」を最初に記し
ていきます。
近くに住んでいたというのが第一だが,登山などにも興味があったので、
上記の世界遺産の一部・「高野山の町石道」の語り部の講習会を受け、そ
この語り部を現在も続けている。
このスバラシイ「高野山の町石道」を、後々の世代の人達にも愛し続けて
欲しいという願いから世界遺産マスタ-になり、美化に勤めたり、簡単な補
修を自分達の手で行い、手におえない事は連絡をして修理してもらい保全に
勤めています。
また、「町石道」の周辺の杉林の間伐をするときは手伝いにも行きます。
ここで、町石道について簡単に記してきます。機会があれば是非歩いてく
ださい。
弘法大師は、816年に嵯峨天皇の許しを得て、高野山を真言密教の道場
として開いた寺です。御年42才の時です。
生活の拠点・京都から高野山へは、和歌山の慈尊院をへて、高野山へ登る
道を作った。これが町石道です。
![img20090208.gif](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/e/de76f9d8.gif)
「高野山の町石道」は九度山から高野山の壇上伽藍までの距離約20km 標高差約800mをお客さんの脚力にもよるが約7時間かけて登る道です。
当初、弘法大師が開いたといわれる道で、初めは 木の卒塔婆だったが、
鎌倉時代に一町(約109m)ごとに花崗岩の町石卒塔婆を180基を揃えた参
詣道です。(参詣道では、世界遺産の二例目)
出発地の慈尊院は、当初 高野山の政所であった。
弘法大師の母親が息子の修行している様子を知りたく、晩年ここで過ごし、
終焉している。(国宝 弥勒菩薩がある。) 世界遺産になっている。
この町石道を長い間 上皇・貴族・武士・庶民が極楽浄土に導かれますよ
うにと祈りながら登った道です。苔むした180基の町石道のそれぞれに歴
史の重みが感じられ、約700年以上もの間に、幾多の人々を見送ったこと
と思うといろんな思いがします。町石ばかりでなく、道端の木々・草木にも
同じ思いがします。
この道は 本来、祈りの道だと思いますが、登る人によって思索の道かも
知れないし、ただ単に語らいの道などいろいろあると思います。
そして、江戸時代までも続き、南海電車が高野山まで通じるまでおおいに
賑わった道です。その道が現在も残り、当時の町石卒塔婆も殆んど残り(な
くなっていた石は大正時代に殆んど補充)、世界遺産にされている。
途中の天野に、高野山と深い関わりのある丹生都比姫神社(建物の一部
重文)があり、ここも世界遺産になっている。
ここ天野の里は、西行の奥さん・娘が尼さんになりここに住み、墓もある。
また、横笛が恋人の滝口入道に会いたくて京から天野にきて待ち続け、18
才であの世へいった等話題も豊富な所です。
60町石より上には「鞍架け石」「押し上げ石」等弘法大師に関わった石が
残っている。
今までに、北は北海道の夫婦が四国遍路を終え、高野山に参る時に案内を
した。
また、南は、沖縄の教員が休みを利用して、近畿地方の世界遺産をめぐる時
に案内した。
新潟や大分県の「山好きの会」の団体も案内した。
このように、日本各地のいろんなお客さんを弘法大師の霊場へ案内している。
その中には、小学生の団体がいたり、大学生のグル-プもいました。
![img20090116.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/6/c65f97fd.jpg)
![img20090116_1.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/2/22564e7a.jpg)
![img20090116_2.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/4/74e98dee.jpg)
![img20090116_3.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/e/9ead8d54.jpg)
町石道には四季の顔がある。
初夏には、花々に囲まれ 新緑の木々に覆われた町石道。
秋には、紅葉の葉に覆われ紅葉の葉を踏みしめて登る町石道。
冬には真っ白な雪の道を踏みしめて登る町石道。
どの季節もスバラシイです。
![img20090116_4.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/9/e96a98d1.jpg)
![img20090116_6.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/e/8ed51912.jpg)
ささ百合
白糸草の群落
![img20090116_5.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/1/a139da19.jpg)
![img20090116_7.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/f/1fb605dd.jpg)
カラスウリの花
はないかだ
特に 初夏には花々が満面に笑みをたたえ、私たちを迎えてくれる。
上記のように、「高野山の町石道」に関わったことから、白河上皇や鳥羽上
皇等の皇族や藤原道長等の貴族たち それにたくさんの庶民が 何度もお参り
に使った道を歩いてみたくなった。
先ず、高野山から熊野神宮を経て 那智大社へ。
次は、京都から日本海の小浜までの鯖街道
最後に京都から大阪を経由して高野山への道。 を記していきます。
![img20090116_9.jpg](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/7/07303742.jpg)
地図は不鮮明なので補足します。
日本海の小浜から京都までの鯖街道。京都から大阪までの京・大阪道。
その途中の八幡から河内長野までの東高野街道。
大阪から堺・和歌山・田辺を通り、本宮までの熊野街道。
この途中の堺から河内長野までの西高野街道を通り、橋本から学文路を
経由して、して不動坂を通り、高野の女人堂へ。
この道の学文路から九度山経由で高野山町石道を通り高野山の大門へ。
高野山から小辺路を通り、本宮へ。
そして、小雲取越・大雲取越を通り、太平洋の那智に至る。
また、田辺から串本を経由しての大辺路と伊勢と那智とを結ぶ伊勢街道
がある。