2008年02月28日
私の足跡 3 白馬・唐松 立山・剣 鷲羽・双六・槍・穂高
1960年7月27~28日
Ma氏と白馬岳・唐松岳へ
一日目
職員旅行の帰路、松本で別行動をとらせてもらい、Ma氏と白馬岳をめざした。
猿倉までバス、70円. 猿倉を11時13分に出発. 白馬尻小屋着、12時。
昼食、カレ-ライス110円(休憩料込み)。出発、12時半。 10分ほどで雪渓、
アイゼンをつける。槍・穂高より客が多い。近くの山も見えない。大雪渓も
アイゼンをきかせば問題ない。抜け出たのは 14時。
葱平の避難小屋で小休止。 お花畑には、たくさんの高山植物が咲き乱れ、庭園のようである。
ガスも消え、村営小屋に1時間以上も早く到着。
夕食、17時半。 その後、グリセ-ド(ピッケルを使って雪の斜面を下る技術)の練習。
小屋は近代的だ。
宿泊料 750円
二日目
4時起床。外を見れば雨。残念。ついていない。4時半、アノラックをつけ、頂上へ。5時前に到着したが、雨のため、すぐ小屋へ。朝食(ご飯はうまく炊けている。味噌汁も美味い。)をとり、6時半出発。雨がふっている。
杓子岳近くで7時半.鑓ヶ岳8時過ぎ、鑓温泉分岐で8時半。
天狗小屋あたりに雪渓があり、それを横切りのに苦労する。小屋着9時。
小屋近くに池があり、その周辺でキャンプが多い。
付近の山が見え隠れする。
休憩時,きゅうりをかじる。美味い。
10時半ごろより天狗の大下りとなる。
さすが、名前の通り、道は悪くはないか゛、傾斜がきついので、相当 疲れる。
11時過ぎ、最低鞍部に着く。これより、10分ほどで、最大の難所・不帰嶮に入る。針金の場所、鎖場、はしご場などがあり、槍・穂高の縦走を思い出す
雨が降っているので、今回の方が疲れる。
第二峰で昼食。第三峰 12時15分。 この頃より難所は少なくなる。第五峰までは、越後側を巻いた道でたいしたことはない。
これより 大下りをした後、急登で相当疲れる。
唐松岳頂上に13時45分。小屋は足元に見えたので、元気を出して頑張る。
14時着。
来年は、鹿島槍まで縦走する予定なので今回は、黒部川に下りることにしている。
でも、天気は悪いので、ここに泊まることにした。
唐松岳小屋は近代的で、畳が敷いている。(今では、当たり前)
水1リットルが50円もするので、15分ほど下った所の雪渓の所まで、水を
汲みに行って来た。
17時 夕食。カレーライス。宿泊費、750円
三日目
5時に起床。5時半 朝食。味噌汁はあまり美味しくない。しかし、一つ一つの食器に名をいれ、綺麗だった。朝食は今回は白馬の方が美味かった。
6時半、出発。雨は相変わらず降っている。半時間ほどで、アノラックから雨水が入ってきた。7時半、銅山跡らしい平らな所に出て小休止。
宿泊用の米もなくなり、荷物も軽くなり、6時間ばかりの下りは、楽と思ったが、とんでもない急坂の道で膝がガクガク。山を巻いた道で、急な道になると膝の痛みがひどくなる。9時半、小休止。ジュースの粉末を水に溶かしてのジュースを飲む。美味い。
膝の痛みがますますひどくなる。11時半の小休止で、雨も上がりそうなので水分で重くなったアノラック・オーバーズボン・セーター等を脱ぐと身体がすっきりした。 ズボン・セーターは汗と雨でびっしより。
半時間後、祖母谷温泉にやっと到着。
おにぎり2個、梅干2個の弁当。それに持参した「ふりかけ」をかけて、食べる。美味い。
13時発。道も平坦になり、身体もすっきりしてきたので、当時、よく歌われた「北上夜曲」を口ずさみ始めると、名剣温泉。そこで、汗を流した後、
大きな雪渓を通ったり、見たりしながら、欅平へ。14時着。
観光客も大勢いたので、山の感じが半減した。
よく揺れるつり橋(現在は鉄筋の橋になってい.)を渡ると駅だった。14時半
トロッコ列車は、うわさの通り愉快な電車だ。屋根はあるが、窓はないので、風通しがよかつた。駅の停留所で写真を撮っていると発車をおくらせてくれたところもおもしろい。富山の人と同席。黒部の谷はすごく、ダム・発電所もあった。
宇奈月着、15時40分。料金、210円。 富山着、17時。180円。
夕食に定食を2人分を。140円。美味かった。
その夜、19時57分発の青森発 大阪行きのドンコ列車で帰る。
座席がなかったので、通路に新聞をしき寝て、朝まで熟睡。
目が覚めたのは 京都駅だった。
1960年8月10~13日
Mo氏と立山・剣岳・大日岳へ。
二日目
夜行列車を富山でおり、電車・ケーブル・バス等を乗り継ぎ、弥陀ヶ原へ。
(当時、ケーブルに乗るとき、荷物は重さにより異なる別料金。バスの終点も
今は室堂までだが、当時は弥陀ケ原まで。)
9時にバスを降り、重いリュックを背負い,今は賑やかだが、当時はさびしい室堂を通り,一の越で休憩し、雄山へ。
(室堂が 賑やかになったのは アルペンルートができてから)
12時に頂上着。昼食後、神社でお神酒を頂き、大汝山 そして真砂岳へ。
弥陀ケ原のバス停
頭上は雄山神社
この頃より、天気は悪化。視界が利かなくなり、二人で標識(矢印等)を目を皿のようにして探し始めて歩くこと約1時間。ガスの中にぼんやり小屋の青い屋根。そして、やっと人の話し声。助かった。ホットして、剣御前小屋の中へ。17時到着。
三日目
翌早朝 6時 剣御前小屋を出発。お陰で、太陽も姿を見せている。荷物を持って、剣御前の頂上(7時) 一服剣・前剣(8時) そして、剣の頂上に9時半到着。難所の岩場は槍ヶ岳の穂先よりスゴイため、順番まちで予定より、時間がかかる。昨日、曇っていて見えなかった立山連峰・剣沢の雪渓もくっきり見えた。
剣岳の標高は、2998mと言っていたので、何とか3000mの高さにと友達と肩車をして戯れた。途中、「カニの横ばい」・「カニの縦ばい」とかがあったが、難なく通過した。ただ、当時リュックと言えば、横長のキスリング型が主流でリュックの角が岩に当たりやすく、身体のバランスを崩し、ヒャットする人もいた。
先日、剣岳登山のテレビを見ていると、殆んどの人は荷物を小屋に預けてか
軽ザックで、又は水筒だけの人もいた。縦走中の荷物を全部を持って歩いている人はこのテレビの中にはいなかった。
最近、登山用具も進歩し、雨具もゴアテックス等の軽くて、通気性の良い物が主流だが、この当時の物は分厚く、重く、通気性がなかった。リュックも横長から縦長に変わった。その他、いろいろ改良されて助かる。
帰路、地獄谷を見学し、地獄谷温泉の小屋に宿泊。
四日目
翌日、快晴に恵まれ、奥大日岳に登り帰宅。
1965 年7月27~8月1日
鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳・槍ヶ岳・奥穂高岳
二日目
夜行列車でMa氏と 当初は太郎平を経由して、薬師岳・黒部五郎・鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳・槍ヶ岳と縦走し、上高地に下り帰る予定だった。しかし、前半、天気が悪かったので、薬師・黒部五郎を省き、雲の平を経由して鷲羽岳に行くことにした。
太郎平までは、雨の中をもくもくと登り、薬師をあきらめ途中小屋へ。
三日目
ガスの中の雲の平を通り、三俣山荘へ。この頃より天気は回復し始める。
最後の急登を過ぎると三俣山荘。小屋に荷物を置いて,鷲羽岳の往復。
四日目
早朝、小屋を出て三俣蓮華岳に登り、双六岳を経由して槍ヶ岳へ。双六小屋からは二度目だが、今回は、天気もよく見晴らしも良いので疲れも少なく、槍の穂先を見ながら歩けて良かった。
当時は、大学の山岳部の活動も活発で、双六岳付近で、ある大学の20人ほどの山岳部を追い越した。20~30Kgの荷物を持った後輩に、先輩が後輩に罵声を浴びせながら登る光景を見た。私も一度は憧れた山岳部。後輩に「がんばれ」と声援を送って追い越した。もう、彼らも古希に近い年齢になり、孫のいる好好爺になっていることでしょう。そして、中高年齢の登山者となって山を楽しんでいることでしょう。
五日目
早朝、天気も良いので、二度目の槍の穂先へ挑戦。四方の景色にうっとり。この頃、ダ-クダックスの「雪山賛歌」に人気が出、我々も口ずさむ。
下山後、天気がよいので、もう一度穂高岳に登りたくなる。横尾でMa氏と別れる。途中、石川県の人と行動を共にする。せせらぎで昼食を食べるが、疲れていたのか食欲が無く、半分ほど残す。雪渓を通り,涸沢に到着。 12時半。 予定より早く到着したので、穂高小屋までと思いザイテングラ-トを登った。これが悪かった。予想以上の急登で、途中よりへばりがきて、歩いては休み、歩いては休みの連続でだんだん休む時間の方が多い状態になった。昼の食事を食べなかったのがこたえる。粉末のジュ-スを水に溶かし飲む。美味い。予備食料がほしい。雪を食ってしまう。無理な行動であったことが今わかり、これが遭難につながると思った。 5時半やっと穂高小屋にたどりついた。この時の心境が山日記にも克明に書いている。反省.反省。
六日目
奥穂高の頂上へ登った後、涸沢に下り上高地に下山し、帰る。
1966年8月7日
福井での研修会の帰り、Mi氏と白山に登山.市ノ瀬で宿泊。早朝5時出発。
別当出会を6時半出発した。
室堂付近では、黒百合の群生があり、当時はやりの歌を思い出した。 登りは砂防新道を、下りは観光新道を使った。
帰りは、夜行列車を使い、あくる日の会合に出席した。
室堂付近で
高山植物が咲き乱れていた
後方は 最高峰御前峰
Ma氏と白馬岳・唐松岳へ
一日目
職員旅行の帰路、松本で別行動をとらせてもらい、Ma氏と白馬岳をめざした。
猿倉までバス、70円. 猿倉を11時13分に出発. 白馬尻小屋着、12時。
昼食、カレ-ライス110円(休憩料込み)。出発、12時半。 10分ほどで雪渓、
アイゼンをつける。槍・穂高より客が多い。近くの山も見えない。大雪渓も
アイゼンをきかせば問題ない。抜け出たのは 14時。
葱平の避難小屋で小休止。 お花畑には、たくさんの高山植物が咲き乱れ、庭園のようである。
ガスも消え、村営小屋に1時間以上も早く到着。
夕食、17時半。 その後、グリセ-ド(ピッケルを使って雪の斜面を下る技術)の練習。
小屋は近代的だ。
宿泊料 750円
二日目
4時起床。外を見れば雨。残念。ついていない。4時半、アノラックをつけ、頂上へ。5時前に到着したが、雨のため、すぐ小屋へ。朝食(ご飯はうまく炊けている。味噌汁も美味い。)をとり、6時半出発。雨がふっている。
杓子岳近くで7時半.鑓ヶ岳8時過ぎ、鑓温泉分岐で8時半。
天狗小屋あたりに雪渓があり、それを横切りのに苦労する。小屋着9時。
小屋近くに池があり、その周辺でキャンプが多い。
付近の山が見え隠れする。
休憩時,きゅうりをかじる。美味い。
10時半ごろより天狗の大下りとなる。
さすが、名前の通り、道は悪くはないか゛、傾斜がきついので、相当 疲れる。
11時過ぎ、最低鞍部に着く。これより、10分ほどで、最大の難所・不帰嶮に入る。針金の場所、鎖場、はしご場などがあり、槍・穂高の縦走を思い出す
雨が降っているので、今回の方が疲れる。
第二峰で昼食。第三峰 12時15分。 この頃より難所は少なくなる。第五峰までは、越後側を巻いた道でたいしたことはない。
これより 大下りをした後、急登で相当疲れる。
唐松岳頂上に13時45分。小屋は足元に見えたので、元気を出して頑張る。
14時着。
来年は、鹿島槍まで縦走する予定なので今回は、黒部川に下りることにしている。
でも、天気は悪いので、ここに泊まることにした。
唐松岳小屋は近代的で、畳が敷いている。(今では、当たり前)
水1リットルが50円もするので、15分ほど下った所の雪渓の所まで、水を
汲みに行って来た。
17時 夕食。カレーライス。宿泊費、750円
三日目
5時に起床。5時半 朝食。味噌汁はあまり美味しくない。しかし、一つ一つの食器に名をいれ、綺麗だった。朝食は今回は白馬の方が美味かった。
6時半、出発。雨は相変わらず降っている。半時間ほどで、アノラックから雨水が入ってきた。7時半、銅山跡らしい平らな所に出て小休止。
宿泊用の米もなくなり、荷物も軽くなり、6時間ばかりの下りは、楽と思ったが、とんでもない急坂の道で膝がガクガク。山を巻いた道で、急な道になると膝の痛みがひどくなる。9時半、小休止。ジュースの粉末を水に溶かしてのジュースを飲む。美味い。
膝の痛みがますますひどくなる。11時半の小休止で、雨も上がりそうなので水分で重くなったアノラック・オーバーズボン・セーター等を脱ぐと身体がすっきりした。 ズボン・セーターは汗と雨でびっしより。
半時間後、祖母谷温泉にやっと到着。
おにぎり2個、梅干2個の弁当。それに持参した「ふりかけ」をかけて、食べる。美味い。
13時発。道も平坦になり、身体もすっきりしてきたので、当時、よく歌われた「北上夜曲」を口ずさみ始めると、名剣温泉。そこで、汗を流した後、
大きな雪渓を通ったり、見たりしながら、欅平へ。14時着。
観光客も大勢いたので、山の感じが半減した。
よく揺れるつり橋(現在は鉄筋の橋になってい.)を渡ると駅だった。14時半
トロッコ列車は、うわさの通り愉快な電車だ。屋根はあるが、窓はないので、風通しがよかつた。駅の停留所で写真を撮っていると発車をおくらせてくれたところもおもしろい。富山の人と同席。黒部の谷はすごく、ダム・発電所もあった。
宇奈月着、15時40分。料金、210円。 富山着、17時。180円。
夕食に定食を2人分を。140円。美味かった。
その夜、19時57分発の青森発 大阪行きのドンコ列車で帰る。
座席がなかったので、通路に新聞をしき寝て、朝まで熟睡。
目が覚めたのは 京都駅だった。
1960年8月10~13日
Mo氏と立山・剣岳・大日岳へ。
二日目
夜行列車を富山でおり、電車・ケーブル・バス等を乗り継ぎ、弥陀ヶ原へ。
(当時、ケーブルに乗るとき、荷物は重さにより異なる別料金。バスの終点も
今は室堂までだが、当時は弥陀ケ原まで。)
9時にバスを降り、重いリュックを背負い,今は賑やかだが、当時はさびしい室堂を通り,一の越で休憩し、雄山へ。
(室堂が 賑やかになったのは アルペンルートができてから)
12時に頂上着。昼食後、神社でお神酒を頂き、大汝山 そして真砂岳へ。
弥陀ケ原のバス停
頭上は雄山神社
この頃より、天気は悪化。視界が利かなくなり、二人で標識(矢印等)を目を皿のようにして探し始めて歩くこと約1時間。ガスの中にぼんやり小屋の青い屋根。そして、やっと人の話し声。助かった。ホットして、剣御前小屋の中へ。17時到着。
三日目
翌早朝 6時 剣御前小屋を出発。お陰で、太陽も姿を見せている。荷物を持って、剣御前の頂上(7時) 一服剣・前剣(8時) そして、剣の頂上に9時半到着。難所の岩場は槍ヶ岳の穂先よりスゴイため、順番まちで予定より、時間がかかる。昨日、曇っていて見えなかった立山連峰・剣沢の雪渓もくっきり見えた。
剣岳の標高は、2998mと言っていたので、何とか3000mの高さにと友達と肩車をして戯れた。途中、「カニの横ばい」・「カニの縦ばい」とかがあったが、難なく通過した。ただ、当時リュックと言えば、横長のキスリング型が主流でリュックの角が岩に当たりやすく、身体のバランスを崩し、ヒャットする人もいた。
先日、剣岳登山のテレビを見ていると、殆んどの人は荷物を小屋に預けてか
軽ザックで、又は水筒だけの人もいた。縦走中の荷物を全部を持って歩いている人はこのテレビの中にはいなかった。
最近、登山用具も進歩し、雨具もゴアテックス等の軽くて、通気性の良い物が主流だが、この当時の物は分厚く、重く、通気性がなかった。リュックも横長から縦長に変わった。その他、いろいろ改良されて助かる。
帰路、地獄谷を見学し、地獄谷温泉の小屋に宿泊。
四日目
翌日、快晴に恵まれ、奥大日岳に登り帰宅。
1965 年7月27~8月1日
鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳・槍ヶ岳・奥穂高岳
二日目
夜行列車でMa氏と 当初は太郎平を経由して、薬師岳・黒部五郎・鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳・槍ヶ岳と縦走し、上高地に下り帰る予定だった。しかし、前半、天気が悪かったので、薬師・黒部五郎を省き、雲の平を経由して鷲羽岳に行くことにした。
太郎平までは、雨の中をもくもくと登り、薬師をあきらめ途中小屋へ。
三日目
ガスの中の雲の平を通り、三俣山荘へ。この頃より天気は回復し始める。
最後の急登を過ぎると三俣山荘。小屋に荷物を置いて,鷲羽岳の往復。
四日目
早朝、小屋を出て三俣蓮華岳に登り、双六岳を経由して槍ヶ岳へ。双六小屋からは二度目だが、今回は、天気もよく見晴らしも良いので疲れも少なく、槍の穂先を見ながら歩けて良かった。
当時は、大学の山岳部の活動も活発で、双六岳付近で、ある大学の20人ほどの山岳部を追い越した。20~30Kgの荷物を持った後輩に、先輩が後輩に罵声を浴びせながら登る光景を見た。私も一度は憧れた山岳部。後輩に「がんばれ」と声援を送って追い越した。もう、彼らも古希に近い年齢になり、孫のいる好好爺になっていることでしょう。そして、中高年齢の登山者となって山を楽しんでいることでしょう。
五日目
早朝、天気も良いので、二度目の槍の穂先へ挑戦。四方の景色にうっとり。この頃、ダ-クダックスの「雪山賛歌」に人気が出、我々も口ずさむ。
下山後、天気がよいので、もう一度穂高岳に登りたくなる。横尾でMa氏と別れる。途中、石川県の人と行動を共にする。せせらぎで昼食を食べるが、疲れていたのか食欲が無く、半分ほど残す。雪渓を通り,涸沢に到着。 12時半。 予定より早く到着したので、穂高小屋までと思いザイテングラ-トを登った。これが悪かった。予想以上の急登で、途中よりへばりがきて、歩いては休み、歩いては休みの連続でだんだん休む時間の方が多い状態になった。昼の食事を食べなかったのがこたえる。粉末のジュ-スを水に溶かし飲む。美味い。予備食料がほしい。雪を食ってしまう。無理な行動であったことが今わかり、これが遭難につながると思った。 5時半やっと穂高小屋にたどりついた。この時の心境が山日記にも克明に書いている。反省.反省。
六日目
奥穂高の頂上へ登った後、涸沢に下り上高地に下山し、帰る。
1966年8月7日
福井での研修会の帰り、Mi氏と白山に登山.市ノ瀬で宿泊。早朝5時出発。
別当出会を6時半出発した。
室堂付近では、黒百合の群生があり、当時はやりの歌を思い出した。 登りは砂防新道を、下りは観光新道を使った。
帰りは、夜行列車を使い、あくる日の会合に出席した。
室堂付近で
高山植物が咲き乱れていた
後方は 最高峰御前峰