2008年04月11日
私の足跡 6 北岳・間の岳・悪沢岳・赤石岳
1997年7月30~8月1日
K氏D氏M氏と夜行で、北岳・間ノ岳へ
二日目
大阪を前夜発、塩尻に明け方に着き、2時間後中央本線で甲府へ。
駅前の「吉野家」で朝食をとり、昼食用の弁当を購入。バスで広河原へ。
登山開始。野呂川に架かるつり橋を渡り、広河原山荘のそばを通り、しばらくは、渓流に沿って歩く、何ケ所か川を横切ったりしていると3時間ほどで二股に到着。ここで、白根御池小屋へ行くか、小太郎尾根経由で肩の小屋へ行くか各自の体調を見て、相談した結果、肩の小屋行きに決定。小太郎尾根への右俣コースは急登の連続で体力が消耗。それに、ガスがかかり、遠くの景色も見えず、相当疲れる。やっと、標高3000mに建つ肩ノ小屋に着く。シーズンと重なり小屋は超満員だった。
三日目
早朝、小雨の中、頂上へ出発。ずっと岩場の道が続き、本来なら南アルプスの大展望を楽しみながらの登りとなるはずだが、ガスがかかり、サッパリテで残念だった。
でも、高山植物が咲き乱れ、私達を迎えてくれ、癒してくれたのがせめてもの幸せだった。わが国第二位の高峰・北岳(3192.4m)に到着。この頃よりガスも取れ始め、富士山などは見えなかったが、近くの仙丈岳や甲斐駒ケ岳がチラチラと姿を見せてくれた。
北岳を後にして,北岳山荘に向かう。急坂の岩場を下り、つり尾根分岐を直進し、いくつかの岩の山を登ったり、巻いたりして2時間足らずで北岳山荘に着く。今日、ここに宿泊するので、荷物を預け、軽ザックで間ノ岳へ。
高山植物の多い岩屑の道を登ると1時間足らずで中白峰(3055m)。そこから3000mの稜線を登り下りを繰り返し、約1時間で第4位の間ノ岳(3189m)へ。
頂上は広々としていて、標識で頂上とわかる。
北岳山荘に戻り、宿泊の用意。皇太子さんも泊まったそうでテレビもある立派な山小屋。意外に空いていた。夕方から晴れ出す。
見えなかった北岳もよく見えるようになった。夜空の星はスゴクよかったらしい。
四日目
朝、暗いうちに(午前4時) ご来光を見るため小屋を飛び出す。富士山の後方からの日の出は最高だった。富士山の写真撮影のビュ-ポイントの5指に入る1つらしい。
北岳も朝日を浴びて素晴らしい姿を誇示している。
山荘を6時半に出発し、八本歯のコルへのトラバ-ス道は高山植物に覆われ素晴らしかった。また、振り返ると間ノ岳もよく見え、我々を見送ってくれているようだった。梯子が何箇所もあったが、素晴らしい所なので、難なく通過。1時間少しで八本歯のコル着。
コルから狭い沢の急坂を木につかまりながら降りていく。左側は豪快な北のバットレスの断崖が我々を覆いかぶさるような感じでせまってくる。落石に気をつけ、通過。沢が少し開けてくると雪渓に出る。谷川は崩落があるので、気をつけて歩く。膝がガクガクしてくると二股に着く。ここからは、二日目に通った道だ。雪渓の溶けた水の流れる川に沿って歩いたり、渡ったりしてやっと広河原に着く。バスの便が悪かったので、タクシ-に交渉して、甲府へ。途中、甲府駅近くの銭湯の近くに降ろしてもらい、入浴して帰った。
1998年8月13~16日
S氏と悪沢岳・赤石岳
一日目
家を5時半に出、新大阪 7:33発。京都でS氏と合流。静岡を9:50のバスで畑薙へ、そして、3;20の小型バスで登山基地「椹島」へ。15:30着。家を出て、10時間かけやっと宿舎着。そこは、何年か前のダム工事の作業員宿舎跡らしく、部屋数も多く、思いもかけず風呂もあり、快適だった。
二日目
宿泊予定地の千枚小屋までは7時間のコ-ス。ゆったりと、6時過ぎに出発。
二人とも体調がよく、先発の多くの登山者を追い越し、小屋に11時に着いてしまった。二人で相談し、あと6時間を要する荒川小屋まで行くことにする。
昼食後、12時前に出発。千枚岳・悪沢岳(3141m)・中岳と次々頂上を踏破し、広大なお花畑の真ん中を下り、荒川小屋へ無事到着。時刻は16:45分。常識的には遅すぎたが、無事に到着。夕ご飯はカレ-ライスだったが、お腹もすいていたのか ずごく美味しかった。宿泊は、遅く到着したためか屋根裏でその上満員で一度寝返りを打つと元にもどりにくかつた。また、隣の男性のいびきにまいつた。(勿論 私のいびきで彼を相当苦しめたことでしょう。)/大>
三日目
4:30、小屋の外に飛び出す。薄暗かったが富士山が、綺麗に見えた。朝食後、6時に出発。この頃より天気はすっきりしない。
小赤石岳を経由して、8時過ぎ赤石岳(3120m)の頂上へ。富士見平への2時間のお花畑の急坂を調子よく下りすぎたためか膝の古傷が痛みだしたが、30分ほどで赤石小屋着 11時過ぎ。当初の予定では、ここで宿泊する予定だったが、小屋の親父さんの話では、明日の天気は良くないとのことなので、コ-ヒ-を作って飲むのを楽しみにしていたが昼食後、下山することにした。膝の痛みがひどくなつたが、S氏の助けで何とか下山。椹島着 16時。椹島の標高は約1000m。悪沢岳・赤石岳の標高は約3000m。標高差2000mを昨日駆け上り、今日駆け下りたのが原因と思う。
2日前に宿泊したところなので様子もわかり、すぐに風呂に入り、ビ-ルを。
S氏の登山でのたくましい馬力と豪快なビ-ルの飲みっぷりに改めてビックリ。
その夜、同部屋の一人が自分のいびきの大きさを気にして、布団を廊下に出し、そこで寝るとのこと。私達はホットする。さすがにすごいいびきで部屋の中まで響き渡る。夜中に廊下にある火災報知機がなり、各部屋から廊下に全員飛び出す。しばらくして、誤作動との連絡があり、ホットする。ところが、廊下に全員出て騒いでいるのに廊下で寝ている人は豪快ないびきで寝続けている。それを見てある女性は「警報機をならしたのは この人のいびきだ」と笑いながら言い、自分の部屋へ。皆も、ごもっともと言う感じで、各部屋へ。その後、その人のいびきで眠れなかったのは 私一人ではなかったでしょう。
四日目
椹島発7時40分。畑薙に8時30分着き、9時40発で静岡に13時10分着。無事に、それも一日早く下山したのを祝し、私達には珍しく豪華な昼食をとり、新幹線で帰り 家に18時半。
K氏D氏M氏と夜行で、北岳・間ノ岳へ
二日目
大阪を前夜発、塩尻に明け方に着き、2時間後中央本線で甲府へ。
駅前の「吉野家」で朝食をとり、昼食用の弁当を購入。バスで広河原へ。
登山開始。野呂川に架かるつり橋を渡り、広河原山荘のそばを通り、しばらくは、渓流に沿って歩く、何ケ所か川を横切ったりしていると3時間ほどで二股に到着。ここで、白根御池小屋へ行くか、小太郎尾根経由で肩の小屋へ行くか各自の体調を見て、相談した結果、肩の小屋行きに決定。小太郎尾根への右俣コースは急登の連続で体力が消耗。それに、ガスがかかり、遠くの景色も見えず、相当疲れる。やっと、標高3000mに建つ肩ノ小屋に着く。シーズンと重なり小屋は超満員だった。
三日目
早朝、小雨の中、頂上へ出発。ずっと岩場の道が続き、本来なら南アルプスの大展望を楽しみながらの登りとなるはずだが、ガスがかかり、サッパリテで残念だった。
でも、高山植物が咲き乱れ、私達を迎えてくれ、癒してくれたのがせめてもの幸せだった。わが国第二位の高峰・北岳(3192.4m)に到着。この頃よりガスも取れ始め、富士山などは見えなかったが、近くの仙丈岳や甲斐駒ケ岳がチラチラと姿を見せてくれた。
北岳を後にして,北岳山荘に向かう。急坂の岩場を下り、つり尾根分岐を直進し、いくつかの岩の山を登ったり、巻いたりして2時間足らずで北岳山荘に着く。今日、ここに宿泊するので、荷物を預け、軽ザックで間ノ岳へ。
高山植物の多い岩屑の道を登ると1時間足らずで中白峰(3055m)。そこから3000mの稜線を登り下りを繰り返し、約1時間で第4位の間ノ岳(3189m)へ。
頂上は広々としていて、標識で頂上とわかる。
北岳山荘に戻り、宿泊の用意。皇太子さんも泊まったそうでテレビもある立派な山小屋。意外に空いていた。夕方から晴れ出す。
見えなかった北岳もよく見えるようになった。夜空の星はスゴクよかったらしい。
四日目
朝、暗いうちに(午前4時) ご来光を見るため小屋を飛び出す。富士山の後方からの日の出は最高だった。富士山の写真撮影のビュ-ポイントの5指に入る1つらしい。
北岳も朝日を浴びて素晴らしい姿を誇示している。
山荘を6時半に出発し、八本歯のコルへのトラバ-ス道は高山植物に覆われ素晴らしかった。また、振り返ると間ノ岳もよく見え、我々を見送ってくれているようだった。梯子が何箇所もあったが、素晴らしい所なので、難なく通過。1時間少しで八本歯のコル着。
コルから狭い沢の急坂を木につかまりながら降りていく。左側は豪快な北のバットレスの断崖が我々を覆いかぶさるような感じでせまってくる。落石に気をつけ、通過。沢が少し開けてくると雪渓に出る。谷川は崩落があるので、気をつけて歩く。膝がガクガクしてくると二股に着く。ここからは、二日目に通った道だ。雪渓の溶けた水の流れる川に沿って歩いたり、渡ったりしてやっと広河原に着く。バスの便が悪かったので、タクシ-に交渉して、甲府へ。途中、甲府駅近くの銭湯の近くに降ろしてもらい、入浴して帰った。
1998年8月13~16日
S氏と悪沢岳・赤石岳
一日目
家を5時半に出、新大阪 7:33発。京都でS氏と合流。静岡を9:50のバスで畑薙へ、そして、3;20の小型バスで登山基地「椹島」へ。15:30着。家を出て、10時間かけやっと宿舎着。そこは、何年か前のダム工事の作業員宿舎跡らしく、部屋数も多く、思いもかけず風呂もあり、快適だった。
二日目
宿泊予定地の千枚小屋までは7時間のコ-ス。ゆったりと、6時過ぎに出発。
二人とも体調がよく、先発の多くの登山者を追い越し、小屋に11時に着いてしまった。二人で相談し、あと6時間を要する荒川小屋まで行くことにする。
昼食後、12時前に出発。千枚岳・悪沢岳(3141m)・中岳と次々頂上を踏破し、広大なお花畑の真ん中を下り、荒川小屋へ無事到着。時刻は16:45分。常識的には遅すぎたが、無事に到着。夕ご飯はカレ-ライスだったが、お腹もすいていたのか ずごく美味しかった。宿泊は、遅く到着したためか屋根裏でその上満員で一度寝返りを打つと元にもどりにくかつた。また、隣の男性のいびきにまいつた。(勿論 私のいびきで彼を相当苦しめたことでしょう。)/大>
三日目
4:30、小屋の外に飛び出す。薄暗かったが富士山が、綺麗に見えた。朝食後、6時に出発。この頃より天気はすっきりしない。
小赤石岳を経由して、8時過ぎ赤石岳(3120m)の頂上へ。富士見平への2時間のお花畑の急坂を調子よく下りすぎたためか膝の古傷が痛みだしたが、30分ほどで赤石小屋着 11時過ぎ。当初の予定では、ここで宿泊する予定だったが、小屋の親父さんの話では、明日の天気は良くないとのことなので、コ-ヒ-を作って飲むのを楽しみにしていたが昼食後、下山することにした。膝の痛みがひどくなつたが、S氏の助けで何とか下山。椹島着 16時。椹島の標高は約1000m。悪沢岳・赤石岳の標高は約3000m。標高差2000mを昨日駆け上り、今日駆け下りたのが原因と思う。
2日前に宿泊したところなので様子もわかり、すぐに風呂に入り、ビ-ルを。
S氏の登山でのたくましい馬力と豪快なビ-ルの飲みっぷりに改めてビックリ。
その夜、同部屋の一人が自分のいびきの大きさを気にして、布団を廊下に出し、そこで寝るとのこと。私達はホットする。さすがにすごいいびきで部屋の中まで響き渡る。夜中に廊下にある火災報知機がなり、各部屋から廊下に全員飛び出す。しばらくして、誤作動との連絡があり、ホットする。ところが、廊下に全員出て騒いでいるのに廊下で寝ている人は豪快ないびきで寝続けている。それを見てある女性は「警報機をならしたのは この人のいびきだ」と笑いながら言い、自分の部屋へ。皆も、ごもっともと言う感じで、各部屋へ。その後、その人のいびきで眠れなかったのは 私一人ではなかったでしょう。
四日目
椹島発7時40分。畑薙に8時30分着き、9時40発で静岡に13時10分着。無事に、それも一日早く下山したのを祝し、私達には珍しく豪華な昼食をとり、新幹線で帰り 家に18時半。
2008年03月20日
私の足跡 5 北八ヶ岳・南八ヶ岳・西穂高・白馬岳
1994年10月2~3日
Wと北八ケ岳の横岳と蓼科山
一日目
早朝 家を出,茅野駅下車、バス等を乗り継いで坪庭へ。そして、横岳へ。
途中、1時間足らずの急登があったが難なく通過。今回の登山の目的は、もう一つある。それは、私の大好きなナナカマドの紅葉を撮影するためです。それを、求めて、七ツ池へも行ったが駄目だった。頂上への途中、道を修理してくれている人と言葉を交わし、頂上へ。明日,登る予定の蓼科山等を見て、小屋に行くと先ほど会った人が北横岳ヒユッテの主人だった。
シ-ズンが過ぎていたので、客は少なく、東京の夫婦、名古屋の夫婦と私たち夫婦の六人だけ。夜の食事はすき焼きだった。味付けは、関東風・名古屋風・関西風のお客さんでといわれたので、真ん中の名古屋の方にお願いした。
主人はお酒が好きなのか、シ-ズンオフの普段は一人の生活でさびしいのか、私達を酒好きと見抜いたのか一升瓶を開けてくれたので、しばらくの間、お付き合いをしたが、明日のことを考え、寝た。
二日目
早朝、下山し、蓼科山へ。樹林帯を登って行くと、将軍平に着く。そこには、蓼科山荘がある。ここからは、道も一変し、山頂までは標高差170m。直線的につけられた岩塊の急登で、ペンキ印をたよりに両手・両足をフルに使い、這うようにして頂上へ。
岩塊を敷き詰めた蓼科山の頂上は平らで広く、そこに神社の祠と三角点があるのみで展望は抜群な所。蓼科山頂ヒュッテで買った冷えたジュ-スを片手にアルプスの槍ヶ岳や浅間山を眺めた。
下山開始、途中までは両手・両足を使い下山。そして、宿舎へ。
今回の登山の目的は、大好きな紅葉したナナカマドの撮影だったが、予想以下の出来で残念だった。
三日目
バスを使って、紅葉の始まった白樺湖・車山高原を通り、草紅葉の道を通り塩尻へ。そして、帰宅。
1995年7月30~31日
A氏とK氏と西穂高へ
一日目
新穂高温泉より、ロ-プウェイを使い、途中より徒歩で、西穂山荘へ。
手近で、綺麗な山荘なので、客も多く、満員だつた。
夜、満天の星空を眺めて、楽しんだ。
二日目
翌朝、天気もよく、高山植物を眺めながら、風が吹いていたが、元気よく、登山を開始。
尾根歩きで、前半は道も険しくなく、左側に笠ケ岳を、右下に上高地を、後方には噴煙をあげている焼岳をそして前方には穂高連峰を見ながら快調にとばして行く。独標が見える頃には、少しぺースがダウンしたが、予定より早く独標へ。この頃より、風が強くなる。
そこから、急にやせ尾根になったが、がんばり、ビラミットピ-クの頂上まできたが、そこまでで断念したのが残念だ。
新穂高温泉で、バス待ちの間を利用して、市営の温泉風呂にはいり、夜行で帰宅。
1996年7月28~29日
K氏D氏S氏M氏A氏と南八ケ岳
一日目
茅野駅からタクシーを利用しょうとしたが、途中で降ろされ予定より長い道のりを徒歩で行くことになった。初めてのメンバ-もいて、ゆったりとした計画だった。オーレン小屋を過ぎ、やっと夏沢峠へ。我々は、こまくさ荘で宿泊。客は我々6名とあと1名。収容300名で7名の客。ゆったりとした宿泊で食事も楽しく揃って「イタダキマ-ース」と戯れた。 水分補給(アルコールを飲む)をたっぷりと。そして消灯まで 談笑。
二日目
早朝、荷物を宿に預け、ヘットランプを頼りに出発する。でも、S氏だけ、荷物が大きい。当人は秘密と言って子細は言わない。頂上近くで、夜明け。うわさに聞いていた硫黄岳のすごい爆裂火口にびっくり。頂上では、ガスもなくなり、周辺の山も見え始め、めざす横岳・赤岳もバッチリ。
しばらく歩くと、硫黄岳山荘に。小屋近くには、小屋の親父さんの世話で高山植物の女王・コマクサの群生があった。黒い砂礫に咲いているのが、印象的だ。いつまでも、残しておいて欲しいと願っている。
しばらくすると、鎖・梯子のついたやせ尾根を何箇所を通過し、大同心あたりで、ラッキーにもブロッケン現象が見えたという幸運もあった。横岳頂上で、S氏が持って上がってきた秘密のメロンをいただく。山の頂上での味は最高。これで、S氏の荷物の大きかった訳が分かった。感謝・感謝。
帰路、宿泊地のこまくさ荘で昼食。途中、夏沢鉱泉で入浴した。汗もとれ、最高の気分だった。そして、すっきりした気持ちで、夜行バスに乗り込み、帰阪。
1996年8月20日
兄夫婦と私達4人で、稲村岳へ。
好天に恵まれ、ゆったりと登れた。石楠花も咲いていた。
帰路、梯子を使って大日岳へも登ってきた。
この山へは、山仲間とも登り、3度目である。
1997年7月18~20日
兄夫婦と私達で白馬岳から白馬大池へ。
一日目
JRで、白馬へ。バスで猿倉までと予定していたが、昨日の梅雨末期の豪雨でバスが途中より通行止めになっているという。(勿論、タクシーも駄目。) バスで行けるところまで行き、後は徒歩としたが、予定より3時間のロス。白馬尻小屋で宿泊することにした。 周辺には、キヌガサソウやシラネアオイなどの花が我々を迎えてくれていた。/大>
二日目
朝早く、小屋を発ち、大雪渓の末端に。アイゼンをつけ、登り始める。
昨日までの天気とは考えられない好天気。空は真っ青。周辺の山もくっきり。曜日などの関係か客が意外に少なく(37年前にくらべ)、周辺の景色を眺めながら楽しく歩けた。(前回は、視界がきかなかったので、紅ガラに沿って、 もくもくと歩いたのを思い出す。)
頭上を見れば真っ青の空、足元は延々と続く雪渓の雪、そして左右を見れば杓子岳からの杓子尾根等が迫ってきている最高の花道を通って白馬岳の頂上へ。
(但し、左右の尾根からの落石があり、事故にあうこともあるので紅ガラに沿って歩いた。)
葱平に着き、小休止。小雪渓をトラバ-スするとお花畑だ。高山植物は最高の見ごろで、シナノキンバイ・ミヤマキンポウゲなどにいろぞられたお花畑をゆっくり歩き、カメラにたくさん収めた。特に女性達は、動かない。
本日の行程は、ゆっくりしたものなので、女性たちを置いて、兄と先に村営小屋に着き、ビ-ルを飲みながら待つ。そして、4人揃ったので遅い昼食。
食後、頂上小屋の白馬山荘へ。予想より空いていて、よかった。荷物を置き、頂上へ。天気がよかったので、360度の展望をゆっくり楽しんだ。
新田次郎の作品「強力伝」に出てくる標示板があった。尿に血が混じる苦労をして、一人で担ぎ上げた物と思えば、何ともいえぬ思いがして、じっくりと撫ぜてみた。
その後、小屋に戻り、夕食。食後、外に出て、素晴らしい「日の入り」を楽しんだ。しばらくして、外に出て、星空の素晴らしさに感激。
三日目
早朝、朝食を済ませ、荷物を持ち、小屋を出、頂上でご来光をと思い、頂上へ。そこには、すでに十数人がいた。東の空が明るくなり、ご来光。頂上にいた者はあまりの素晴らしさに歓声と万歳の声が上がった。
余韻を残し、下山開始。三国境周辺には、コマクサが群生。
祠のある小蓮華山からもう一度白馬岳を眺めて下る。 しばらくすると、ブルーの白馬大池の傍に真っ赤な屋根の白馬大池山荘が見えて来た。池からは、大きな岩を乗り越え乗鞍岳へ登り返す。駄々広い頂上。栂池自然園も少し見ただけで栂池自然園駅にやっと到着。ロ-プウェイ・バスを小走りで乗り継ぎ白馬駅へ。そこから、予定の列車に乗り、帰宅。
今回の山行きは、最初大雨の影響でどうなるか心配したが、天気がよくなり、特に、白馬山頂からの展望は最高で思い出に残る登山となった。
Wと北八ケ岳の横岳と蓼科山
一日目
早朝 家を出,茅野駅下車、バス等を乗り継いで坪庭へ。そして、横岳へ。
途中、1時間足らずの急登があったが難なく通過。今回の登山の目的は、もう一つある。それは、私の大好きなナナカマドの紅葉を撮影するためです。それを、求めて、七ツ池へも行ったが駄目だった。頂上への途中、道を修理してくれている人と言葉を交わし、頂上へ。明日,登る予定の蓼科山等を見て、小屋に行くと先ほど会った人が北横岳ヒユッテの主人だった。
シ-ズンが過ぎていたので、客は少なく、東京の夫婦、名古屋の夫婦と私たち夫婦の六人だけ。夜の食事はすき焼きだった。味付けは、関東風・名古屋風・関西風のお客さんでといわれたので、真ん中の名古屋の方にお願いした。
主人はお酒が好きなのか、シ-ズンオフの普段は一人の生活でさびしいのか、私達を酒好きと見抜いたのか一升瓶を開けてくれたので、しばらくの間、お付き合いをしたが、明日のことを考え、寝た。
二日目
早朝、下山し、蓼科山へ。樹林帯を登って行くと、将軍平に着く。そこには、蓼科山荘がある。ここからは、道も一変し、山頂までは標高差170m。直線的につけられた岩塊の急登で、ペンキ印をたよりに両手・両足をフルに使い、這うようにして頂上へ。
岩塊を敷き詰めた蓼科山の頂上は平らで広く、そこに神社の祠と三角点があるのみで展望は抜群な所。蓼科山頂ヒュッテで買った冷えたジュ-スを片手にアルプスの槍ヶ岳や浅間山を眺めた。
下山開始、途中までは両手・両足を使い下山。そして、宿舎へ。
今回の登山の目的は、大好きな紅葉したナナカマドの撮影だったが、予想以下の出来で残念だった。
三日目
バスを使って、紅葉の始まった白樺湖・車山高原を通り、草紅葉の道を通り塩尻へ。そして、帰宅。
1995年7月30~31日
A氏とK氏と西穂高へ
一日目
新穂高温泉より、ロ-プウェイを使い、途中より徒歩で、西穂山荘へ。
手近で、綺麗な山荘なので、客も多く、満員だつた。
夜、満天の星空を眺めて、楽しんだ。
二日目
翌朝、天気もよく、高山植物を眺めながら、風が吹いていたが、元気よく、登山を開始。
尾根歩きで、前半は道も険しくなく、左側に笠ケ岳を、右下に上高地を、後方には噴煙をあげている焼岳をそして前方には穂高連峰を見ながら快調にとばして行く。独標が見える頃には、少しぺースがダウンしたが、予定より早く独標へ。この頃より、風が強くなる。
そこから、急にやせ尾根になったが、がんばり、ビラミットピ-クの頂上まできたが、そこまでで断念したのが残念だ。
新穂高温泉で、バス待ちの間を利用して、市営の温泉風呂にはいり、夜行で帰宅。
1996年7月28~29日
K氏D氏S氏M氏A氏と南八ケ岳
一日目
茅野駅からタクシーを利用しょうとしたが、途中で降ろされ予定より長い道のりを徒歩で行くことになった。初めてのメンバ-もいて、ゆったりとした計画だった。オーレン小屋を過ぎ、やっと夏沢峠へ。我々は、こまくさ荘で宿泊。客は我々6名とあと1名。収容300名で7名の客。ゆったりとした宿泊で食事も楽しく揃って「イタダキマ-ース」と戯れた。 水分補給(アルコールを飲む)をたっぷりと。そして消灯まで 談笑。
二日目
早朝、荷物を宿に預け、ヘットランプを頼りに出発する。でも、S氏だけ、荷物が大きい。当人は秘密と言って子細は言わない。頂上近くで、夜明け。うわさに聞いていた硫黄岳のすごい爆裂火口にびっくり。頂上では、ガスもなくなり、周辺の山も見え始め、めざす横岳・赤岳もバッチリ。
しばらく歩くと、硫黄岳山荘に。小屋近くには、小屋の親父さんの世話で高山植物の女王・コマクサの群生があった。黒い砂礫に咲いているのが、印象的だ。いつまでも、残しておいて欲しいと願っている。
しばらくすると、鎖・梯子のついたやせ尾根を何箇所を通過し、大同心あたりで、ラッキーにもブロッケン現象が見えたという幸運もあった。横岳頂上で、S氏が持って上がってきた秘密のメロンをいただく。山の頂上での味は最高。これで、S氏の荷物の大きかった訳が分かった。感謝・感謝。
帰路、宿泊地のこまくさ荘で昼食。途中、夏沢鉱泉で入浴した。汗もとれ、最高の気分だった。そして、すっきりした気持ちで、夜行バスに乗り込み、帰阪。
1996年8月20日
兄夫婦と私達4人で、稲村岳へ。
好天に恵まれ、ゆったりと登れた。石楠花も咲いていた。
帰路、梯子を使って大日岳へも登ってきた。
この山へは、山仲間とも登り、3度目である。
1997年7月18~20日
兄夫婦と私達で白馬岳から白馬大池へ。
一日目
JRで、白馬へ。バスで猿倉までと予定していたが、昨日の梅雨末期の豪雨でバスが途中より通行止めになっているという。(勿論、タクシーも駄目。) バスで行けるところまで行き、後は徒歩としたが、予定より3時間のロス。白馬尻小屋で宿泊することにした。 周辺には、キヌガサソウやシラネアオイなどの花が我々を迎えてくれていた。/大>
二日目
朝早く、小屋を発ち、大雪渓の末端に。アイゼンをつけ、登り始める。
昨日までの天気とは考えられない好天気。空は真っ青。周辺の山もくっきり。曜日などの関係か客が意外に少なく(37年前にくらべ)、周辺の景色を眺めながら楽しく歩けた。(前回は、視界がきかなかったので、紅ガラに沿って、 もくもくと歩いたのを思い出す。)
頭上を見れば真っ青の空、足元は延々と続く雪渓の雪、そして左右を見れば杓子岳からの杓子尾根等が迫ってきている最高の花道を通って白馬岳の頂上へ。
(但し、左右の尾根からの落石があり、事故にあうこともあるので紅ガラに沿って歩いた。)
葱平に着き、小休止。小雪渓をトラバ-スするとお花畑だ。高山植物は最高の見ごろで、シナノキンバイ・ミヤマキンポウゲなどにいろぞられたお花畑をゆっくり歩き、カメラにたくさん収めた。特に女性達は、動かない。
本日の行程は、ゆっくりしたものなので、女性たちを置いて、兄と先に村営小屋に着き、ビ-ルを飲みながら待つ。そして、4人揃ったので遅い昼食。
食後、頂上小屋の白馬山荘へ。予想より空いていて、よかった。荷物を置き、頂上へ。天気がよかったので、360度の展望をゆっくり楽しんだ。
新田次郎の作品「強力伝」に出てくる標示板があった。尿に血が混じる苦労をして、一人で担ぎ上げた物と思えば、何ともいえぬ思いがして、じっくりと撫ぜてみた。
その後、小屋に戻り、夕食。食後、外に出て、素晴らしい「日の入り」を楽しんだ。しばらくして、外に出て、星空の素晴らしさに感激。
三日目
早朝、朝食を済ませ、荷物を持ち、小屋を出、頂上でご来光をと思い、頂上へ。そこには、すでに十数人がいた。東の空が明るくなり、ご来光。頂上にいた者はあまりの素晴らしさに歓声と万歳の声が上がった。
余韻を残し、下山開始。三国境周辺には、コマクサが群生。
祠のある小蓮華山からもう一度白馬岳を眺めて下る。 しばらくすると、ブルーの白馬大池の傍に真っ赤な屋根の白馬大池山荘が見えて来た。池からは、大きな岩を乗り越え乗鞍岳へ登り返す。駄々広い頂上。栂池自然園も少し見ただけで栂池自然園駅にやっと到着。ロ-プウェイ・バスを小走りで乗り継ぎ白馬駅へ。そこから、予定の列車に乗り、帰宅。
今回の山行きは、最初大雨の影響でどうなるか心配したが、天気がよくなり、特に、白馬山頂からの展望は最高で思い出に残る登山となった。
2008年03月10日
私の足跡 4 大杉谷 御嶽山 富士山 乗鞍岳 雪の立山 木曽駒ヶ岳
198?年8月?日
大台ケ原・大杉谷
一日目
職場の同僚F氏等6人と夏休みを利用して、大台ケ原から大杉谷へ。
一番の列車に乗り、日出ケ岳に登り、昼前に出発。最初は石楠花の多い道だった。最初の滝、堂倉の滝で休憩。その後の道は、下りが殆んどで、つり橋が多くなった。 殆んどのつり橋は人数制限をしていた。
私たちは、少人数だったし、平日だったので、自分達のグル-プ意外の待ち時間はなく、時間の浪費が少なかった。
しかし、その年の秋の祝日に多数の人が登山をし、つり橋で待ちきれずに人数制限を守らず橋を渡った。そのため、ロ-プが切れ、川に墜落という悲しい事故があった。 (規則通りに渡れば、時間を要し、後の人は明るい時間に目的地に到着できない。)
当時、マスコミは、管理している所が悪い、いや、規則を守らなかった者が悪いとの意見があった。わたしはどちらかと言えば登山者の方が悪いと思う。
ただし、規則を守らず、事故にあった登山者だけではありませんと付け加えておきます。
事故の事は、これくらいで、私達のその後は、長時間の下りで膝がガクガク。それに、谷間ばかりなので湿度が高く、疲労も多かった。
やっと、宿泊地の「桃の木小屋」に到着。
二日目
翌日、疲労もとれ、元気に出発。しかし、またもや下りの連続。
みんなの疲労度もたかまる。特に仲間の一人の悲痛な叫び声が今も思い出されます。
予定の時刻に歩き終え、乗り物に乗った時の仲間の表情もおだやかになっていた。
198?年8月?日
御嶽山
一日目
旅行の帰り、他の仲間に無理を言い、別行動をとり、F氏等4人で御嶽山に登った。木曽福島からバスに乗り、宿泊地に到着。
二日目
翌日、一番のバスで登山基地「田の原」へ。そして登山開始。途中、御嶽講の人たちの「・・・六根清浄、懺悔 懺悔・・・」の声に励まされ、快調にとばす。途中 雪渓もあり、楽しませてくれた。やっと頂上と思いきやそこは王滝頂上。それから、30分後、目的の御嶽頂上・剣ケ峰 3067m。
天気もよく、周辺のアルプスの山々もスッキリ。特に乗鞍岳の大きさに感激。さすが、3000mの山に酔いしれる。頂上直下の池へも行った。
帰りに、思い出に4人のケルンを作った。そして、近々結婚する二人の女性の幸せを祈った。
そして、素晴らしい景色に未練を残して、山を後にした。
翌年、御嶽山が火山爆発を起こした。私たちの作った思い出のケルンはどうなっているのか心配だ。
さて、ここで、あくまで偶然と思うが、不思議な話をしておきます。
それは、私がF氏と出かけた後に何かが起こるということです。上記の御嶽山の爆発の件、大杉谷のつり橋の件、それに登山ではなかったので、記していないが197?,年に二人で北海道旅行をした時、有珠山・昭和新山に登ったが、翌年爆発を起こした。
この時期に 同じような事が三度も起こったのは、偶然とはいえ、不思議だ。
198?年8月?日
富士山
一日目
神奈川での研修会の帰り、S氏等4人で富士山に登った。新5合目に車を置き、登山開始。翌日、楽に頂上にいけるよう8合目まで登り、宿泊。夜、沼津の町の灯がとても綺麗だった。一人が高山病にかかり、体調をくずした。
二日目
昨日、高山病で体調をくずしたのは、急に高度を上げたからだと反省。出発を遅らせ、ゆっくり登ったので、頂上でのご来光には、間に合わなかったが4人揃って頂上に立てた。その後、めでたいことに、登山した仲間で一組のカップルができた。私も仲人の第一号をさせてもらった。
私は富士山に二度登ることになったので、世間では馬鹿だといっているが・・・。
(富士山は二度も登る山ではない。富士山は眺める山だと言っている一部の人たちがいる。)
199?年8月?日
乗鞍岳
職員旅行の二日目。予定では、頂上直下 畳平で一時間半の予定をとっていた。以前、来たときは天気が悪く視界がきかなかった。今回は快晴。ガイドさんの話ではこんなに良い天気は一年に何回もないとの話。それで、幹事さんから時間を延長するとの事。それではということで一部の人と頂上へ。
頂上では、視界をさえぎるものは無く、アルプスの山々はくっきり。特に御嶽山が綺麗だった。
1993年5月3~5日
雪の立山・上高地
二日目
5月の連休を利用して、F氏と前日の夜行列車に乗り、早朝富山着。
美女平で時間を費やし、一番のバスで室堂へ。途中よりガスが出たり、消えたりしていた。途中、大谷で雪のトンネルを通って、室堂に着く。
空も晴れ、全身に雪を被った真っ白な立山(雄山)は素晴らしかった。
アイゼンを持って行かなかったので滑りながらも、みくりが池ま行ってきた。
後はバス・ロ-プウェイを乗り継ぎ、列車で安曇野へ。レンタサイクルで、わさび園・道祖神を見て回った。松本の宿舎に着いたら7時を過ぎていた。
三日目
翌早朝、一番の電車・バスで上高地へ。道路には雪がなかったが、河童橋からの山全体が真っ白になった穂高の山々に感動した。
明神池までの木道を歩いていると、猿の群れが餌を探しに出てきていた。
焼岳も頂上付近は雪に覆われていたが、噴煙ははっきり見えた。
春の立山・上高地は素晴らしかった。帰りに、松本駅で平成5年5月5日の5・5・5を記した入場券を買って記念にしている。
1994年7月31~8月1日
木曽駒ケ岳
一日目
F氏と木曽駒ケ岳へ 以前、バス・ロ-プウェイを乗り継ぎ、千畳敷まで来たことがあるが、今回は、千畳敷カ-ルを歩き、浄土乗り越えの小屋・宝剣山荘へ。
荷物を置いて、宝剣岳の頂上へ。 私は ○○ だから高い所が好きなので、後ろの岩の上に立とうとしたが、そこに祠があるのでやめた。
登りも下りも瓦礫の多い岩場を慎重に進む。
足場は確保されているが、ふと足元を見ると宝剣沢がスット落ちており注意が必要。
スリルのある岩場の多い男性的な山だった。
二日目
翌早朝、30分ほどの小高いピ-クに登り、ご来光。少し雲があったが、富士山を初め、乗鞍岳・北・中央・南アルプスが見え、最高だった。
朝食後、荷物を背負い中岳を越え、駒ケ岳の頂上へ。二つの社があった。
宝剣岳とは違い、女性的な山だった。
馬の背を通って,将棋頭山へ。
途中、新田次郎の作品「聖職の碑」で有名な遭難碑があった。
以前、彼のこの作品を読んでいたので、当時遭難した教師・生徒の苦しさ、また、それに関わった人達の悲しみが大変であっただろうと思い、遭難者のご冥福を祈った。しばらくすると、先生に引率された中学生の団体が登ってきた。
過ぎ去った列の後方より、全員無事に下山できるよう祈って見送った。
新田次郎の作品は 山を舞台にしたものが多いので、殆んどの作品を読んでいる。繰り返し読んだ本もたくさんある。今印象に残っている作品は、「強力伝」「富士山頂」「チンネの裁き」「芙蓉の人」「縦走路」「槍ヶ岳開山」「風雪の北鎌尾根」等々たくさんあるが、何といっても「孤高の人」は私にとっては、最高の作品である。ヒマラヤ征服の夢を秘め、日本アルプスの山々を疾風のごとく踏破した[単独行の加藤文太郎]の生涯を記した傑作小説。また、「聖職の碑」も同じ立場の者として、印象深い作品であり、事件であった。
彼の意思で作っているお墓がスイスアルプスのアイガー・メンヒ・ユングフラフの三山が真正面に見える所にあると聞いていたので、スイスに行った時、それを捜し求めて、食事時間を短縮して 走って行って 私も同じ位置に立ち、三山を眺めてきた。さすがに、絶景の所にあった。
大台ケ原・大杉谷
一日目
職場の同僚F氏等6人と夏休みを利用して、大台ケ原から大杉谷へ。
一番の列車に乗り、日出ケ岳に登り、昼前に出発。最初は石楠花の多い道だった。最初の滝、堂倉の滝で休憩。その後の道は、下りが殆んどで、つり橋が多くなった。 殆んどのつり橋は人数制限をしていた。
私たちは、少人数だったし、平日だったので、自分達のグル-プ意外の待ち時間はなく、時間の浪費が少なかった。
しかし、その年の秋の祝日に多数の人が登山をし、つり橋で待ちきれずに人数制限を守らず橋を渡った。そのため、ロ-プが切れ、川に墜落という悲しい事故があった。 (規則通りに渡れば、時間を要し、後の人は明るい時間に目的地に到着できない。)
当時、マスコミは、管理している所が悪い、いや、規則を守らなかった者が悪いとの意見があった。わたしはどちらかと言えば登山者の方が悪いと思う。
ただし、規則を守らず、事故にあった登山者だけではありませんと付け加えておきます。
事故の事は、これくらいで、私達のその後は、長時間の下りで膝がガクガク。それに、谷間ばかりなので湿度が高く、疲労も多かった。
やっと、宿泊地の「桃の木小屋」に到着。
二日目
翌日、疲労もとれ、元気に出発。しかし、またもや下りの連続。
みんなの疲労度もたかまる。特に仲間の一人の悲痛な叫び声が今も思い出されます。
予定の時刻に歩き終え、乗り物に乗った時の仲間の表情もおだやかになっていた。
198?年8月?日
御嶽山
一日目
旅行の帰り、他の仲間に無理を言い、別行動をとり、F氏等4人で御嶽山に登った。木曽福島からバスに乗り、宿泊地に到着。
二日目
翌日、一番のバスで登山基地「田の原」へ。そして登山開始。途中、御嶽講の人たちの「・・・六根清浄、懺悔 懺悔・・・」の声に励まされ、快調にとばす。途中 雪渓もあり、楽しませてくれた。やっと頂上と思いきやそこは王滝頂上。それから、30分後、目的の御嶽頂上・剣ケ峰 3067m。
天気もよく、周辺のアルプスの山々もスッキリ。特に乗鞍岳の大きさに感激。さすが、3000mの山に酔いしれる。頂上直下の池へも行った。
帰りに、思い出に4人のケルンを作った。そして、近々結婚する二人の女性の幸せを祈った。
そして、素晴らしい景色に未練を残して、山を後にした。
翌年、御嶽山が火山爆発を起こした。私たちの作った思い出のケルンはどうなっているのか心配だ。
さて、ここで、あくまで偶然と思うが、不思議な話をしておきます。
それは、私がF氏と出かけた後に何かが起こるということです。上記の御嶽山の爆発の件、大杉谷のつり橋の件、それに登山ではなかったので、記していないが197?,年に二人で北海道旅行をした時、有珠山・昭和新山に登ったが、翌年爆発を起こした。
この時期に 同じような事が三度も起こったのは、偶然とはいえ、不思議だ。
198?年8月?日
富士山
一日目
神奈川での研修会の帰り、S氏等4人で富士山に登った。新5合目に車を置き、登山開始。翌日、楽に頂上にいけるよう8合目まで登り、宿泊。夜、沼津の町の灯がとても綺麗だった。一人が高山病にかかり、体調をくずした。
二日目
昨日、高山病で体調をくずしたのは、急に高度を上げたからだと反省。出発を遅らせ、ゆっくり登ったので、頂上でのご来光には、間に合わなかったが4人揃って頂上に立てた。その後、めでたいことに、登山した仲間で一組のカップルができた。私も仲人の第一号をさせてもらった。
私は富士山に二度登ることになったので、世間では馬鹿だといっているが・・・。
(富士山は二度も登る山ではない。富士山は眺める山だと言っている一部の人たちがいる。)
199?年8月?日
乗鞍岳
職員旅行の二日目。予定では、頂上直下 畳平で一時間半の予定をとっていた。以前、来たときは天気が悪く視界がきかなかった。今回は快晴。ガイドさんの話ではこんなに良い天気は一年に何回もないとの話。それで、幹事さんから時間を延長するとの事。それではということで一部の人と頂上へ。
頂上では、視界をさえぎるものは無く、アルプスの山々はくっきり。特に御嶽山が綺麗だった。
1993年5月3~5日
雪の立山・上高地
二日目
5月の連休を利用して、F氏と前日の夜行列車に乗り、早朝富山着。
美女平で時間を費やし、一番のバスで室堂へ。途中よりガスが出たり、消えたりしていた。途中、大谷で雪のトンネルを通って、室堂に着く。
空も晴れ、全身に雪を被った真っ白な立山(雄山)は素晴らしかった。
アイゼンを持って行かなかったので滑りながらも、みくりが池ま行ってきた。
後はバス・ロ-プウェイを乗り継ぎ、列車で安曇野へ。レンタサイクルで、わさび園・道祖神を見て回った。松本の宿舎に着いたら7時を過ぎていた。
三日目
翌早朝、一番の電車・バスで上高地へ。道路には雪がなかったが、河童橋からの山全体が真っ白になった穂高の山々に感動した。
明神池までの木道を歩いていると、猿の群れが餌を探しに出てきていた。
焼岳も頂上付近は雪に覆われていたが、噴煙ははっきり見えた。
春の立山・上高地は素晴らしかった。帰りに、松本駅で平成5年5月5日の5・5・5を記した入場券を買って記念にしている。
1994年7月31~8月1日
木曽駒ケ岳
一日目
F氏と木曽駒ケ岳へ 以前、バス・ロ-プウェイを乗り継ぎ、千畳敷まで来たことがあるが、今回は、千畳敷カ-ルを歩き、浄土乗り越えの小屋・宝剣山荘へ。
荷物を置いて、宝剣岳の頂上へ。 私は ○○ だから高い所が好きなので、後ろの岩の上に立とうとしたが、そこに祠があるのでやめた。
登りも下りも瓦礫の多い岩場を慎重に進む。
足場は確保されているが、ふと足元を見ると宝剣沢がスット落ちており注意が必要。
スリルのある岩場の多い男性的な山だった。
二日目
翌早朝、30分ほどの小高いピ-クに登り、ご来光。少し雲があったが、富士山を初め、乗鞍岳・北・中央・南アルプスが見え、最高だった。
朝食後、荷物を背負い中岳を越え、駒ケ岳の頂上へ。二つの社があった。
宝剣岳とは違い、女性的な山だった。
馬の背を通って,将棋頭山へ。
途中、新田次郎の作品「聖職の碑」で有名な遭難碑があった。
以前、彼のこの作品を読んでいたので、当時遭難した教師・生徒の苦しさ、また、それに関わった人達の悲しみが大変であっただろうと思い、遭難者のご冥福を祈った。しばらくすると、先生に引率された中学生の団体が登ってきた。
過ぎ去った列の後方より、全員無事に下山できるよう祈って見送った。
新田次郎の作品は 山を舞台にしたものが多いので、殆んどの作品を読んでいる。繰り返し読んだ本もたくさんある。今印象に残っている作品は、「強力伝」「富士山頂」「チンネの裁き」「芙蓉の人」「縦走路」「槍ヶ岳開山」「風雪の北鎌尾根」等々たくさんあるが、何といっても「孤高の人」は私にとっては、最高の作品である。ヒマラヤ征服の夢を秘め、日本アルプスの山々を疾風のごとく踏破した[単独行の加藤文太郎]の生涯を記した傑作小説。また、「聖職の碑」も同じ立場の者として、印象深い作品であり、事件であった。
彼の意思で作っているお墓がスイスアルプスのアイガー・メンヒ・ユングフラフの三山が真正面に見える所にあると聞いていたので、スイスに行った時、それを捜し求めて、食事時間を短縮して 走って行って 私も同じ位置に立ち、三山を眺めてきた。さすがに、絶景の所にあった。