高野山への七つの登山口
2013年09月01日
私の足跡 141 高野山への七つの登山口 (高野七口 黒河道 2)
私の足跡 141
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅴ
黒 河 口 - Ⅱ
今回の 黒河口-Ⅱの一部は 長い間使用されずに眠っていた道を一昨年ぐらい前から刈り開かれた道もある。そして、今までの地蔵等の石仏が歴史的に貴重な物とわかり、最近 脚光を浴び始めた道である。前回の私の足跡140よりも この黒河道が本当の高野参詣道ではないかと思われます。この道が 世界遺産の「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加されればもう一度詳しく書こうと思っています。

この記録は 一昨年まで世界遺産センターに勤務していた入谷氏に案内を依頼し、2012年11月に この道を案内してもらった記録です。

出発点は前回と同じく、賢堂の定福寺から 出発する。
定福寺については、前回説明済み。

小さなお堂や石仏が祀られている。近在の人々の信仰の深さがわかる。

明神ヶ田和で小休止。今回は是より 最近まで廃道になっていた道を再開発された「わらん谷」を経由して市平に下る。(現在の地図では、わらん谷は消えている。)

ここからしばらくは 埋もれていた道を切り開いたばかりの道を進む。

造られて間もない丸太橋を進む。

平らな道もある。

岩をえぐりとった道もあった。

険しい道を下り切り やっと車道に到着。これから トイレ休憩のできる丹生川キャンプ場迄歩く。

丹生川キャンプ場にやっと到着。各自昼食とする。

昼食後 車道を通って市平への登山口へ。

しばらく前回と同じ道だか、途中で別れて左の道を通り、久保小学校の北側で合流。

当時は倒木もあり、険しい道。

また、細い道もあった。

猪除けのトタン板で囲まれた田んぼの周囲を通る。

やっと 人家が見えてきた。
![img_495590_14551868_0[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/0/40d96d64.jpg)
前回 お世話になった休校中の久保小学校。
![img_495590_14551868_2[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/b/8b698702.jpg)
久保小学校から今回は道標に従い、右の道を通る。(前回は左の道) しばらくすると、茶堂跡に到着。江戸時代に遡る茶堂が近年まであったが老朽化に伴い解体され、今は縮小された小堂が再建されている。この跡から鉄製の茶釜が発見されいる。ここの弘法大師像は花崗岩製で享和元年(1801年)・・・・の銘がある。また、木製の不動明王も残っている。

昭和の初めごろまで営業していた高野豆腐をつくっていた建物の跡。(コンクリート製の水槽の一部) 他に直径約50cmの石臼も残っている。
この跡地から 室町時代の在銘の五輪塔や無銘の宝筺印塔の一部も残っている。
![img_495590_14551868_4[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/2/426f00d7.jpg)
旧峻な坂道を登って行く。
![img_495590_14551868_8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/2/7278ffce.jpg)
子継峠の地蔵石仏。

この石仏は 昔から子授けの信仰のあった石仏で 子宝を願う人達の奉納したよだれかけが何枚もかけられていた。峠名の子継から来たのでしょう。
![2217431[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/3/f3f328e0.jpg)
つい最近 詳細な調査の結果 単に子授けの地蔵ではないことがわかった。
緑泥片岩製の一石彫成の地蔵菩薩立像の石仏です。高野周辺では最大級の石仏です。
向かって右側に「十三年 検校重任」 左側には 「香舂峠 永正九 八月廿二日」と明記されている。

前回は三本杉に出たが、今回は一本杉の傍を通り、高野町役場前に出て、帰る。
注 今は子継峠(粉撞峠とも粉突峠とも)が普通だが、室町時代は「香舂峠」と標記されていたことがわかる。
2013年08月15日
私の足跡 140 高野山への七つの登山口 (高野七口 黒河道1)
私の足跡 140
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅴ
黒 河 口 - Ⅰ
今回 世界遺産に追加されるのは 私の足跡 141 黒 河 口 - 2 の方です。
世界遺産に正式に決定されれば 改めて 私の足跡 189・190・191で再掲します。
ご期待 ください。
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/6/a6c13b4a.gif)
高野七口の中ではあまり知られていない黒河口を書きます。この道は、奈良の人には近いから大和口とも言われている。しかし、不動坂口に比べて険しくて人気のない道でしたが、最近 古い石造物が見つかり、脚光を浴び、世界遺産への追加も検討されている道です。
また、豊臣秀吉が高野山での母堂の法事後、当時 高野山内では禁止されている音の出る楽器を使って能狂言をした為、スゴイ雷雨が降ってきた。これは 仏の祟りと思い、急遽 この道を駈け下り橋本市の利生護国寺にやっと辿り着いたと言われている道です。(あくまでも言い伝えの話 高野山の禁制を破るとそれによる報いは 当時の権力者をも恐れさせるものであったという事でしょう。)
この黒河道は 何度も通っているが 各集落を結ぶ生活道が中心の黒河道と参詣道中心の黒河道があるので 今回は生活道が中心の黒河道を書きます。

![kurokomap[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/7/37ac6595.jpg)
これは、2008年と2009年に振興局主催の「山の日」のハイキングに2度参加した記録です。
![jyofukuji[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/9/99d60e24.jpg)
黒河道のスタート地点 定福寺 本堂の阿弥陀如来座像は平安期の11~12世紀の作
![0810180011[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/6/1687080c.jpg)
九重の塔は鎌倉時代のもの
![05[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/4/9431d2a9.jpg)
道中 上の写真のような祠がたくさんある。旅人や近在の人達の健康と幸せを祈ったものでしょう。
![04[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/8/f8b137c8.jpg)
しばらくして 振り返るとこの地方の特産品・柿畑の向こうに橋本橋も下方に見えてくる。
![u028s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/8/888ad08a.jpg)
明星ヶ田和の辻で 道が分岐している。間違えないように。今回は一番左の道を行き、青淵の集落を目指す。
![u049s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/f/9fd08ed7.jpg)
初めは平らな道だったが急坂となり、青淵の集落を過ぎ民家の庭先を通った頃より急な下り坂。
![14[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/4/74cef3e2.jpg)
下ると 吊橋を渡って 市平の集落へ。(この橋 その後使用禁止になり、現在下流の方へ迂回する)
![17[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/7/b717c1f1.jpg)
市平集落の「桂の大木」 シーズンにはピンクの花が咲き、対岸の青淵からは見事らしい。
![18[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/d/7da5c81b.jpg)
その後、細い山道を登って行く。
![0810180038[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/a/3a7e1021.jpg)
道が林道と交差する。そして、久保小学校跡地に到着。真新しい校舎だが現在休校中とか。
![0810180040[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/2/521adda6.jpg)
昼食場所に借りる。地元の人達の心のこもった汁物を頂き、古老から昔の生活の様子を聞かせてもらう。
![u115s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/c/ec45e32c.jpg)
しばらく歩くと 道もほそくなり、昭和34年を最後に地図上から3つの集落名が消えた所に到着。
この仏谷 黒河 平の三地区の歴史は、9世紀末からで高野山建設に従事した人達が住み着いたといわれている集落である。したがって、高野山との関係は密接であり、高野圏の集落であった。
上記の三地区は 江戸時代の文書では戸数11~13戸 人口50人前後が生活をしていた。店もないので花や炭を町に売りに行き、帰りに日用品を買って帰るという生活。水田跡もあり、米をつくっていたが、収穫も少なかった。
最後まで残ったのは仏谷。(標高504m) 昭和22年に電気が来たが、34年 最後に転居。
次は 黒河 。(標高610m) 大正11年 最後に転居 八幡宮 お寺跡が残る。
最初は 平 (標高750m) 大正 7年 最後に転居
![29[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/4/b44c7e4c.jpg)
石垣を積んだ屋敷・水田跡が今も残る。少し前までは 集落があり、子どもの遊び声もあっただろうと思うと寂しい思いで通過した。
![34[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/7/075a2370.jpg)
人は 生活をしている人がいないが、綺麗な花が供えられている。平の字も見える。
![35[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/2/e2196dae.jpg)
やっと黒河峠に到着。以前、高野山の女人道を通った時の峠 「黒河峠」
![36[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/9/893e3b60.jpg)
峠から 激しい下り坂を降りて行くとトロッコ道の線路が残る道を歩く。昭和の初めごろまで高野山のあちこちから、大木をトロッコにのせて九度山まで運んだ面影が残っている。
![37[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/c/4c7fcace.jpg)
道も大きく 平らになり、三本杉の所まできた。ゴールはもうすぐ。
![38[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/3/13f7143a.jpg)
奥の院の裏を通り、やっと奥の院の正面に到着。
次回は 黒河口Ⅱです。(私の足跡 141) 参詣道としての黒河道
2013年08月01日
私の足跡 139 高野山への七つの登山口(高野七口 麻生津坂)
私の足跡 138
世界遺産 高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳー3
麻生津坂
この麻生津坂も高野七口ではないが、最後は 矢立の町石道の60町石に到着し、以後高野山までは町石道を通るのでここで紹介することにする。
![090307a1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/0/302cfd8d.jpg)
JR名手駅を降りる。
![970[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/8/0884a631.jpg)
大和街道筋にある国の史跡「名手宿本陣跡」
麻酔医 華岡青洲氏の奥さん 「加恵」さんの実家
![970_2[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/f/bf9d46df.jpg)
建物内部の様子。
![090307a2[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/e/0edbbd4b.jpg)
名手より麻生津橋を渡り、麻生津へ。
![090307b1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/5/051a61b0.jpg)
街道には 旅人の安全を守る六地蔵がある。京・大坂道の清水にある第一の六地蔵から桜茶屋の第六の六地蔵があるように この麻生津道にもある。多くの参詣者が一つ一つのお地蔵さんにお参りして通ったことでしょう
この麻生津道の賑わったのは、西国三番札所「粉河寺」のお参りを済ませ、次の四番札所「槇尾山」への途中 高野山詣でをした道でもあったのです。
![090307b4[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/3/037e99ce.jpg)
将棋の形の石・「将棋石」
![090307c13[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/8/f81a25e2.jpg)
六地蔵の第二番目です。
![090307c9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/a/daaf6f62.jpg)
水の不自由の村民の為に、大師が掘ったという「大師の井戸」
![090307c3[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/5/5515a54d.jpg)
昔から人々を悩ましていた歯痛を治すハイタ地蔵。
![090307b10[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/c/dcda7526.jpg)
堂前の地蔵。休憩に良い所。
![090307b6[1] - コピー](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/c/1c227c51.jpg)
第三の六地蔵。
![090307a04[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/3/13e7c570.jpg)
標高もあがり、紀の川も遥か下方に見える。
![090307d8b[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/e/de4caf71.jpg)
第四の六地蔵
![090307e6[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/6/b6b3aeb8.jpg)
梨の木峠を越えて、第五の地蔵を見たかったが今回はトンネルを越えた。
![090307e9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/9/291a6908.jpg)
トンネルを越えると 花坂地区の集落へ。
。
![090307e10[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/f/cf530b5a.jpg)
最後の舗装された自動車道を登ると矢立の町石道の60町石に到着し、以後高野山までは町石道を通る。
![090129d10[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/f/bf06ecb7.jpg)
そして、最後の第六の六地蔵にお参りして、今回の無事の歩行を感謝する。
この地蔵は 「砂捏地蔵」といい、大師が砂をこねてつくったといわれている。
約一時間をかけて、紀伊細川駅まで歩いた。
もう一つ、この麻生津坂とほぼ平行に通っている安楽川道(根来から矢立まで)もあるが詳細は略す。
この安楽川道は 鳥羽上皇の最愛の美福門院 得子のお骨を高野山に納める時に通った道です。
世界遺産 高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳー3
麻生津坂
この麻生津坂も高野七口ではないが、最後は 矢立の町石道の60町石に到着し、以後高野山までは町石道を通るのでここで紹介することにする。
![090307a1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/0/302cfd8d.jpg)
JR名手駅を降りる。
![970[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/8/0884a631.jpg)
大和街道筋にある国の史跡「名手宿本陣跡」
麻酔医 華岡青洲氏の奥さん 「加恵」さんの実家
![970_2[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/f/bf9d46df.jpg)
建物内部の様子。
![090307a2[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/e/0edbbd4b.jpg)
名手より麻生津橋を渡り、麻生津へ。
![090307b1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/5/051a61b0.jpg)
街道には 旅人の安全を守る六地蔵がある。京・大坂道の清水にある第一の六地蔵から桜茶屋の第六の六地蔵があるように この麻生津道にもある。多くの参詣者が一つ一つのお地蔵さんにお参りして通ったことでしょう
この麻生津道の賑わったのは、西国三番札所「粉河寺」のお参りを済ませ、次の四番札所「槇尾山」への途中 高野山詣でをした道でもあったのです。
![090307b4[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/3/037e99ce.jpg)
将棋の形の石・「将棋石」
![090307c13[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/8/f81a25e2.jpg)
六地蔵の第二番目です。
![090307c9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/a/daaf6f62.jpg)
水の不自由の村民の為に、大師が掘ったという「大師の井戸」
![090307c3[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/5/5515a54d.jpg)
昔から人々を悩ましていた歯痛を治すハイタ地蔵。
![090307b10[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/c/dcda7526.jpg)
堂前の地蔵。休憩に良い所。
![090307b6[1] - コピー](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/c/1c227c51.jpg)
第三の六地蔵。
![090307a04[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/3/13e7c570.jpg)
標高もあがり、紀の川も遥か下方に見える。
![090307d8b[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/e/de4caf71.jpg)
第四の六地蔵
![090307e6[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/6/b6b3aeb8.jpg)
梨の木峠を越えて、第五の地蔵を見たかったが今回はトンネルを越えた。
![090307e9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/9/291a6908.jpg)
トンネルを越えると 花坂地区の集落へ。
。
![090307e10[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/f/cf530b5a.jpg)
最後の舗装された自動車道を登ると矢立の町石道の60町石に到着し、以後高野山までは町石道を通る。
![090129d10[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/f/bf06ecb7.jpg)
そして、最後の第六の六地蔵にお参りして、今回の無事の歩行を感謝する。
この地蔵は 「砂捏地蔵」といい、大師が砂をこねてつくったといわれている。
約一時間をかけて、紀伊細川駅まで歩いた。
もう一つ、この麻生津坂とほぼ平行に通っている安楽川道(根来から矢立まで)もあるが詳細は略す。
この安楽川道は 鳥羽上皇の最愛の美福門院 得子のお骨を高野山に納める時に通った道です。
2013年07月15日
私の足跡 138 高野山への七つの登山口(高野七口 三谷坂)
私の足跡 138
世界遺産 高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳー2
三谷坂
今回は 前回の町石道と繋がりがある三谷坂を 公表します。
この道は 正式には高野七口ではないが、古い石仏が見つかり、世界遺産への追加に向けて進んでいます。
![mitanimiti[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/1/018d1c78.gif)
この道を有名にしたのは「高野参籠日記」という詳しい記録である。これは 仁和寺の第4代門跡「覚法法親王」(白河上皇の第4皇子)と第5代門跡「覚性入道親王」(鳥羽上皇の第5皇子)の高野参籠日記の記録である。
この日記から、覚法法親王は 1147年から4年間に5度の参籠日記がある。当時の高野参籠は町石道を使い、徒歩での参籠が普通だが、覚法法親王は1回目の往以外は、この三谷坂を利用している。そして、輿を使っての参籠である。
日記の一部を抜粋
1日目 仁和寺を暁に出発。船を乗り継ぎ、後 輿に乗り「住吉の浜」で宿泊。
2日目 午前6時出発 船で「日根の湊」へ。下船後、輿で「新家の庄」で宿泊。
3日目 雨の中 雄ノ山峠を越え 紀の川をさかのぼり、「名手の庄」で宿泊。
4日目 三谷津で下船 三谷坂を登り、天野の里を通り、途中町石道に合流し高野山へ。
覚法法親王は町石道でなく、三谷坂をどうして利用したかを「高野参籠日記」に「三谷坂は、木陰にして深き泥なし。道ほど近し。かたがた神妙の由、上下よろこびをなす。」と書いている。
確かに道は近い。道は 険しいが水はけが良い。それに、「涙岩」といわれる水場等があって、人間だけでなく牛馬にも水飲場として都合が良い。
それ以外に、慈尊院は東寺の支配下だが、三谷や天野は仁和寺の支配下で何かにつけ都合が良かったのではないかと考えられる。
現在の三谷坂を実際に何度も登っていますが、5年前の記録を書きます。この記録は平成20年の高野山学体験講座の記録です。

JRの妙寺駅に降りる。

対岸の三谷へ橋を渡る。

今回の講師 村上保壽先生より 当時「三谷津」の跡にある神社の説明。

丹生酒殿神社の一ノ鳥居をくぐる。

丹生酒殿神社に到着。(丹生都比売神(天照大神の妹)が初めこの地に降臨された所。そして、ここで酒造りをしていた。今も、竃戸家があり、竃戸神社もある。) 降臨された後、巡行して各地で農耕や織物などを教え、最後に現在の天野に鎮座した。
鳥居の奥に見えるイチョウの大木はシーズンにはライトアップされて見事である。この大イチョウの幹周は5.26m 樹高25mの大木で 葉っぱが紅葉すると見事である。

丹生酒殿神社の御由緒。主神は丹生都比売命で高野御子(丹生都比売命の御子)と建御名方命(大国主命の御子)と 誉田別大神(熊手八幡)が祀られている。

![081216a10[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/7/77da477b.jpg)
神木であるいちいの木に鎌を打ちこみ願いを祈った鎌八幡宮が1942年より兄井より合祀されている。

世界で初めて麻酔による手術に成功した華岡青洲が寄進した石灯篭がある。天保5年(1834年) 青洲 74歳の時である。
この後、ミカンや柿畑のある急坂を登って行く。


畑の傍に笠石がある。


更に進むと鉾立て岩 と 経文岩がある。


畑が終わり森林の中に入ると、旅人の喉を潤していた湧水・「涙岩と拝水」。

坂道も本格的な登り坂にかかる。今から60年ほど前・私の子どもの頃 一軒の農家があり、米作りをしていた。今 棚田の跡としての石垣が残っているだけである。
この近くに、頬切地蔵がある。ごく最近まで江戸時代に造られたものでわと思われていたが、調べると鎌倉時代のものとわかり、世界遺産に追加申請をしている。
![081216c5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/4/543527e0.jpg)
三谷地区の人達がこの石仏の世話をしている。私も小さい頃よくお祭りの日に参ったのを覚えている。
![mitani36[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/8/182db4f3-s.jpg)
この頬切地蔵は 地表に出ている巾60㎝ 長さ2m 高さ70㎝位の自然岩の3面に三体の仏が彫ってある。
北に大日如来 東に釈迦如来 西に阿弥陀如来の坐像である。上には宝珠のついた屋根がのっているが宝珠を除いて一つの岩からなっている。

更に険しい山道を右手に「まといわ」を見ながら登る。

しばなくすると自動車道に合流。ここから、少し右に行くと笠松峠に到着。
この笠松峠から左の小道に入り 137町近くの六本松で町石道に合流するか 右の小道に入り天野の里に行き111町近くの神田地蔵堂で町石道に合流するとかの方法がある。
今回は右の小道に入り、標高450m天野盆地の史跡をめぐることにする。

丹生都比売神社に参拝し、丹生宮司に説明してもらう。
丹生都比売神(天照大神の妹)が応神天皇により1370年前に祀られた。


境内左横の石造卒塔婆群の見学・山蔭加春夫先生の説明を聞く。
修験道の高野先達の碑伝。

奥の院灯篭堂の貧女の一灯(祈親燈)で有名な「お照の墓」



西行の後を追ってきて天野に住んだ西行の妻と娘の墓碑。

西行堂

有王丸の墓。 平清盛を倒そうとして捕えられた僧俊寛を有王丸が鬼界ヶ島を訪ねて遺骨を高野山に納め、天野に住んだ。(1179年頃)
外に 曽我兄弟の遺骨を高野山に納め、天野に住んだといわれる鬼王・団三郎の墓もある。
その他 院の墓・横笛の恋塚等 旧跡がたくさんある。
世界遺産 高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳー2
三谷坂
今回は 前回の町石道と繋がりがある三谷坂を 公表します。
この道は 正式には高野七口ではないが、古い石仏が見つかり、世界遺産への追加に向けて進んでいます。
![mitanimiti[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/1/018d1c78.gif)
この道を有名にしたのは「高野参籠日記」という詳しい記録である。これは 仁和寺の第4代門跡「覚法法親王」(白河上皇の第4皇子)と第5代門跡「覚性入道親王」(鳥羽上皇の第5皇子)の高野参籠日記の記録である。
この日記から、覚法法親王は 1147年から4年間に5度の参籠日記がある。当時の高野参籠は町石道を使い、徒歩での参籠が普通だが、覚法法親王は1回目の往以外は、この三谷坂を利用している。そして、輿を使っての参籠である。
日記の一部を抜粋
1日目 仁和寺を暁に出発。船を乗り継ぎ、後 輿に乗り「住吉の浜」で宿泊。
2日目 午前6時出発 船で「日根の湊」へ。下船後、輿で「新家の庄」で宿泊。
3日目 雨の中 雄ノ山峠を越え 紀の川をさかのぼり、「名手の庄」で宿泊。
4日目 三谷津で下船 三谷坂を登り、天野の里を通り、途中町石道に合流し高野山へ。
覚法法親王は町石道でなく、三谷坂をどうして利用したかを「高野参籠日記」に「三谷坂は、木陰にして深き泥なし。道ほど近し。かたがた神妙の由、上下よろこびをなす。」と書いている。
確かに道は近い。道は 険しいが水はけが良い。それに、「涙岩」といわれる水場等があって、人間だけでなく牛馬にも水飲場として都合が良い。
それ以外に、慈尊院は東寺の支配下だが、三谷や天野は仁和寺の支配下で何かにつけ都合が良かったのではないかと考えられる。
現在の三谷坂を実際に何度も登っていますが、5年前の記録を書きます。この記録は平成20年の高野山学体験講座の記録です。

JRの妙寺駅に降りる。

対岸の三谷へ橋を渡る。

今回の講師 村上保壽先生より 当時「三谷津」の跡にある神社の説明。

丹生酒殿神社の一ノ鳥居をくぐる。

丹生酒殿神社に到着。(丹生都比売神(天照大神の妹)が初めこの地に降臨された所。そして、ここで酒造りをしていた。今も、竃戸家があり、竃戸神社もある。) 降臨された後、巡行して各地で農耕や織物などを教え、最後に現在の天野に鎮座した。
鳥居の奥に見えるイチョウの大木はシーズンにはライトアップされて見事である。この大イチョウの幹周は5.26m 樹高25mの大木で 葉っぱが紅葉すると見事である。

丹生酒殿神社の御由緒。主神は丹生都比売命で高野御子(丹生都比売命の御子)と建御名方命(大国主命の御子)と 誉田別大神(熊手八幡)が祀られている。

![081216a10[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/7/77da477b.jpg)
神木であるいちいの木に鎌を打ちこみ願いを祈った鎌八幡宮が1942年より兄井より合祀されている。

世界で初めて麻酔による手術に成功した華岡青洲が寄進した石灯篭がある。天保5年(1834年) 青洲 74歳の時である。
この後、ミカンや柿畑のある急坂を登って行く。


畑の傍に笠石がある。


更に進むと鉾立て岩 と 経文岩がある。


畑が終わり森林の中に入ると、旅人の喉を潤していた湧水・「涙岩と拝水」。

坂道も本格的な登り坂にかかる。今から60年ほど前・私の子どもの頃 一軒の農家があり、米作りをしていた。今 棚田の跡としての石垣が残っているだけである。
この近くに、頬切地蔵がある。ごく最近まで江戸時代に造られたものでわと思われていたが、調べると鎌倉時代のものとわかり、世界遺産に追加申請をしている。
![081216c5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/4/543527e0.jpg)
三谷地区の人達がこの石仏の世話をしている。私も小さい頃よくお祭りの日に参ったのを覚えている。
![mitani36[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/8/182db4f3-s.jpg)
この頬切地蔵は 地表に出ている巾60㎝ 長さ2m 高さ70㎝位の自然岩の3面に三体の仏が彫ってある。
北に大日如来 東に釈迦如来 西に阿弥陀如来の坐像である。上には宝珠のついた屋根がのっているが宝珠を除いて一つの岩からなっている。

更に険しい山道を右手に「まといわ」を見ながら登る。

しばなくすると自動車道に合流。ここから、少し右に行くと笠松峠に到着。
この笠松峠から左の小道に入り 137町近くの六本松で町石道に合流するか 右の小道に入り天野の里に行き111町近くの神田地蔵堂で町石道に合流するとかの方法がある。
今回は右の小道に入り、標高450m天野盆地の史跡をめぐることにする。

丹生都比売神社に参拝し、丹生宮司に説明してもらう。
丹生都比売神(天照大神の妹)が応神天皇により1370年前に祀られた。


境内左横の石造卒塔婆群の見学・山蔭加春夫先生の説明を聞く。
修験道の高野先達の碑伝。

奥の院灯篭堂の貧女の一灯(祈親燈)で有名な「お照の墓」



西行の後を追ってきて天野に住んだ西行の妻と娘の墓碑。

西行堂

有王丸の墓。 平清盛を倒そうとして捕えられた僧俊寛を有王丸が鬼界ヶ島を訪ねて遺骨を高野山に納め、天野に住んだ。(1179年頃)
外に 曽我兄弟の遺骨を高野山に納め、天野に住んだといわれる鬼王・団三郎の墓もある。
その他 院の墓・横笛の恋塚等 旧跡がたくさんある。
2013年07月01日
私の足跡 137 高野山への七つの登山口(高野町石道)
私の足跡 137
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳ-Ⅰ
(高野町石道)
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
今回は 弘法太師が開いたと言われ、表参詣道として栄えた高野町石道を書きます。
この高野山町石道は 世界遺産である三重・奈良・和歌山の三県の霊場を結んでいる「紀伊山地の霊場とその参詣道」の一つである。
空海が高野山を開いて(816年)以来 史料によると多くの天皇家・摂関家等の著名人が通っています。先ず藤原道長が1023年に 続いて藤原頼道が1048年に登っている。続いて白河上皇が1088年に上皇の参詣登山としては最初で前代未聞と騒がれた。 その後 鳥羽上皇をはじめ後白河上皇等も登っています。
特に、有名なのは後宇多法皇の高野登山(1313年)です。約20kmで標高差約800メートルの登山ですから、普通に歩いて7~8時間を要する。
この道を後宇多法皇は輿に乗らず、草履で足をかため 徒歩で しかも1町毎に立ち止まり町卒塔婆の一本一本に念誦しながら登ったと「後宇多法皇高野御幸記」にある。記録では 午前2時に慈尊院の御所を出発したが、雨もふり、花坂あたりで夜になり、法皇も気を失った。付け人は輿に乗っての登山をと願ったが「たとえ幾日かかろうとも この行を止めるつもりはない」と言い、御幸を続けられ、24時間後の午前2時頃山上に到着した。「高野への道」村上・山蔭共著(高野出版社)を参考にした。
![choisimichimap[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/3/03cc7daf.jpg)
世界遺産では、参詣道としては世界で2番目に指定されている町石道を歩くことにします。
玄関口は 九度山町の慈尊院・丹生官省符神社(共に世界遺産)です。高野山の政所であった所です。
![120815a01[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/7/e7c5aa68-s.jpg)
石段を登れば 慈尊院です。

登って左側に弥勒堂(重文)があり、その中に弥勒菩薩(国宝)が安置されている。
![image3[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/b/7b392c17-s.jpg)
大日如来が安置されている多宝塔です。そして、その奥には長い石段がある。

そして、石段の途中に 180町石(これより 高野山の壇上まで1町(109m)毎に この町石が建てられている。)がある。
この町石は、今まで木製であったのを鎌倉時代に安達泰盛が20年間かけて造りあげた。

丹生官省符神社 丹生官省荘の総神社

丹生官省符神社を過ぎると、右手に厄除観音の勝利寺がある。
是より 町石に沿って標高を上げていく。
![m_DSCN6792-aef9b[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/3/e3378b98.gif)

竹藪の中等を通って、柿畑の険しい坂道を登る。
![image11[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/0/b0190f70-s.jpg)
高度があがると紀の川が見えて来た。朝日・夕日の見事な所。 これから目指す高野山も見えて来た。

町石が2本建っているが、左側は鎌倉時代の町石。不完全のためか、大正時代に造り変えた。

途中 弘法大師の坐像がある。
![image18[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/3/f3e4a1f2-s.jpg)
六本杉という広場があり、小休止に適している。

町石が2本建っている。一つは通常の町石。もう一つは 36町で1里なので 慈尊院から一里歩いたという一里石。

天野の里が一望できる展望台がある。

展望台から 丹生津比売神社のあり 白州正子の愛した天野の里がある。
![m_DSCN6814-5127d[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/e/6eb1b46b.gif)
![kouyasan130323image8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/6/361b2a9f-s.jpg)
展望台の傍に 丹生都比売神社を遥拝する二つ鳥居がある。
![061112-0921[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/3/b37e070d.jpg)
神田地区の地蔵堂。集落と田園の風景は見事。恋人「滝口入道」が通るのを待っていた「横笛」の話で有名。
![061112-119A1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/3/83856359.jpg)
「袈裟掛石」「鞍掛石」「くぐり石」とも言われる岩がある。

岩を押し上げ豪雨から母をまもった「押し上げ石」等がある。
![120815a43[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/1/91d872d7.jpg)
厳しい厳しい坂道を登りつめると突然眼前に姿を現す巨大な大門。標高880m。
苦しい坂道を登って来た登山者は しばし、足を止めて眺める。
![3348-13[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/f/8f876c7a.jpg)
この大門をくぐれば ゴールはあと少し。
![3348-16[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/4/c4d36f99.jpg)
高野山の中心 伽藍の根本大塔に到着。
20kmの町石の道端には登山者を癒してくれる草花がある。(但し 時期により咲く花が異なる。)

うつぎの花

ふたりしずか
![DSC00907-1024x573[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/3/837457a6-s.jpg)
ひとりしずか

ササユリ

シダ

はないかだ

からすうり

しらいと草
次回は 高野七口ではないが、この町石道と関係深い「三谷坂」を書きます。
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳ-Ⅰ
(高野町石道)
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
今回は 弘法太師が開いたと言われ、表参詣道として栄えた高野町石道を書きます。
この高野山町石道は 世界遺産である三重・奈良・和歌山の三県の霊場を結んでいる「紀伊山地の霊場とその参詣道」の一つである。
空海が高野山を開いて(816年)以来 史料によると多くの天皇家・摂関家等の著名人が通っています。先ず藤原道長が1023年に 続いて藤原頼道が1048年に登っている。続いて白河上皇が1088年に上皇の参詣登山としては最初で前代未聞と騒がれた。 その後 鳥羽上皇をはじめ後白河上皇等も登っています。
特に、有名なのは後宇多法皇の高野登山(1313年)です。約20kmで標高差約800メートルの登山ですから、普通に歩いて7~8時間を要する。
この道を後宇多法皇は輿に乗らず、草履で足をかため 徒歩で しかも1町毎に立ち止まり町卒塔婆の一本一本に念誦しながら登ったと「後宇多法皇高野御幸記」にある。記録では 午前2時に慈尊院の御所を出発したが、雨もふり、花坂あたりで夜になり、法皇も気を失った。付け人は輿に乗っての登山をと願ったが「たとえ幾日かかろうとも この行を止めるつもりはない」と言い、御幸を続けられ、24時間後の午前2時頃山上に到着した。「高野への道」村上・山蔭共著(高野出版社)を参考にした。
![choisimichimap[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/3/03cc7daf.jpg)
世界遺産では、参詣道としては世界で2番目に指定されている町石道を歩くことにします。
玄関口は 九度山町の慈尊院・丹生官省符神社(共に世界遺産)です。高野山の政所であった所です。
![120815a01[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/7/e7c5aa68-s.jpg)
石段を登れば 慈尊院です。

登って左側に弥勒堂(重文)があり、その中に弥勒菩薩(国宝)が安置されている。
![image3[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/b/7b392c17-s.jpg)
大日如来が安置されている多宝塔です。そして、その奥には長い石段がある。

そして、石段の途中に 180町石(これより 高野山の壇上まで1町(109m)毎に この町石が建てられている。)がある。
この町石は、今まで木製であったのを鎌倉時代に安達泰盛が20年間かけて造りあげた。

丹生官省符神社 丹生官省荘の総神社

丹生官省符神社を過ぎると、右手に厄除観音の勝利寺がある。
是より 町石に沿って標高を上げていく。
![m_DSCN6792-aef9b[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/3/e3378b98.gif)

竹藪の中等を通って、柿畑の険しい坂道を登る。
![image11[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/0/b0190f70-s.jpg)
高度があがると紀の川が見えて来た。朝日・夕日の見事な所。 これから目指す高野山も見えて来た。

町石が2本建っているが、左側は鎌倉時代の町石。不完全のためか、大正時代に造り変えた。

途中 弘法大師の坐像がある。
![image18[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/3/f3e4a1f2-s.jpg)
六本杉という広場があり、小休止に適している。

町石が2本建っている。一つは通常の町石。もう一つは 36町で1里なので 慈尊院から一里歩いたという一里石。

天野の里が一望できる展望台がある。

展望台から 丹生津比売神社のあり 白州正子の愛した天野の里がある。
![m_DSCN6814-5127d[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/e/6eb1b46b.gif)
![kouyasan130323image8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/6/361b2a9f-s.jpg)
展望台の傍に 丹生都比売神社を遥拝する二つ鳥居がある。
![061112-0921[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/3/b37e070d.jpg)
神田地区の地蔵堂。集落と田園の風景は見事。恋人「滝口入道」が通るのを待っていた「横笛」の話で有名。
![061112-119A1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/3/83856359.jpg)
「袈裟掛石」「鞍掛石」「くぐり石」とも言われる岩がある。

岩を押し上げ豪雨から母をまもった「押し上げ石」等がある。
![120815a43[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/1/91d872d7.jpg)
厳しい厳しい坂道を登りつめると突然眼前に姿を現す巨大な大門。標高880m。
苦しい坂道を登って来た登山者は しばし、足を止めて眺める。
![3348-13[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/f/8f876c7a.jpg)
この大門をくぐれば ゴールはあと少し。
![3348-16[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/4/c4d36f99.jpg)
高野山の中心 伽藍の根本大塔に到着。
20kmの町石の道端には登山者を癒してくれる草花がある。(但し 時期により咲く花が異なる。)

うつぎの花

ふたりしずか
![DSC00907-1024x573[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/3/837457a6-s.jpg)
ひとりしずか

ササユリ

シダ

はないかだ

からすうり

しらいと草
次回は 高野七口ではないが、この町石道と関係深い「三谷坂」を書きます。
2012年11月15日
私の足跡122 高野山への七つの登山口(高野七口 京・大坂道))
私の足跡 122
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅲ-2
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
前回の続き 京 大阪道の極楽橋から大門までを書きます。

朱塗りの極楽橋を渡る

そして 従来の不動坂を登る
![f-015[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/a/fae441bc-s.jpg)
今回は 江戸時代によく使われていたが 大正4年頃から 約100年間埋もれていた登山道を登ることにする。この道は 今年整備された。

1915年 高野山開創1100年記念大法要が行われるので大勢の参詣客のため、急勾配でなく広くて歩きやすい道をつくった。そのため 旧道は使われなくなった。

この難所を登る人を助ける「腰押し」や「荷物持ち」などの仕事をする人も多くいたそうです。また 牛にロープをつけそれを持ち引っ張ってもらう人もいたそうです。
![dscn3073[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/4/04f6dae6.jpg)
整備前の道路
![p1130742[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/2/f204d009.jpg)
整備後の道路


上記の場所とか「稚児の滝」とかの名所もあります。
![p1130745[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/b/2b036104.jpg)
右 加みや(神谷) まきのを(槇尾) いせ 京 大阪
「寛政四子年七月立」「南無大師遍照金剛」の石柱あり。100年の間 倒れていたそうです。

現在の清不動 新しい道を造ったため、旧不動坂より大正時代につくったこの道に新しく造ったもの。

旧不動坂に建てられていた。山内の不動堂と区別するため 「外不動」と言われていた。これを移築して現在は「清不動」と言われている。

また 旧不動坂を登っていくと花折坂の石の花立てがある。これも100年の間 倒れていたそうです。

仏像が祀られている。

京 大阪道の終点 女人堂に到着。以前は高野七口の全てに女人堂が建てられていたが、現在残っているのはここだけ。この近くに 小杉明神やお竹地蔵が祀られています。
高野の町を囲むように 女人禁制の時代に女人のための女人道があるが 今回その一部を上の女人堂から大門迄を歩くことにする。

ここにも 女人堂があった。「谷上女人堂跡」

もくもくと弁天岳の頂上をめざす。

高野山には 七つの弁天様が祀られているが ここのは弁天岳の弁天様で通称「岳弁」と言われている。

頂上(985m)からの遠景の素晴らしさにウットリ。

もう一つの絶景ポイント。大塔が見える。昔の女人は この女人道からしか拝めなかったからどんな気持ちで眺めたことだろう。首をロクロのように伸ばして眺めたというロクロ峠があるが こんなに遠い所からでも何日もかけて登って来てお大師さんの修行地を眺めて涙を流した人も多くいたことでょう。
![10photo01[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/5/a5f0a50e-s.jpg)
今回のゴール大門。 創建は 江戸時代

高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅲ-2
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
前回の続き 京 大阪道の極楽橋から大門までを書きます。

朱塗りの極楽橋を渡る

そして 従来の不動坂を登る
![f-015[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/a/fae441bc-s.jpg)
今回は 江戸時代によく使われていたが 大正4年頃から 約100年間埋もれていた登山道を登ることにする。この道は 今年整備された。

1915年 高野山開創1100年記念大法要が行われるので大勢の参詣客のため、急勾配でなく広くて歩きやすい道をつくった。そのため 旧道は使われなくなった。

この難所を登る人を助ける「腰押し」や「荷物持ち」などの仕事をする人も多くいたそうです。また 牛にロープをつけそれを持ち引っ張ってもらう人もいたそうです。
![dscn3073[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/4/04f6dae6.jpg)
整備前の道路
![p1130742[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/2/f204d009.jpg)
整備後の道路


上記の場所とか「稚児の滝」とかの名所もあります。
![p1130745[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/b/2b036104.jpg)
右 加みや(神谷) まきのを(槇尾) いせ 京 大阪
「寛政四子年七月立」「南無大師遍照金剛」の石柱あり。100年の間 倒れていたそうです。

現在の清不動 新しい道を造ったため、旧不動坂より大正時代につくったこの道に新しく造ったもの。

旧不動坂に建てられていた。山内の不動堂と区別するため 「外不動」と言われていた。これを移築して現在は「清不動」と言われている。

また 旧不動坂を登っていくと花折坂の石の花立てがある。これも100年の間 倒れていたそうです。

仏像が祀られている。

京 大阪道の終点 女人堂に到着。以前は高野七口の全てに女人堂が建てられていたが、現在残っているのはここだけ。この近くに 小杉明神やお竹地蔵が祀られています。
高野の町を囲むように 女人禁制の時代に女人のための女人道があるが 今回その一部を上の女人堂から大門迄を歩くことにする。

ここにも 女人堂があった。「谷上女人堂跡」

もくもくと弁天岳の頂上をめざす。

高野山には 七つの弁天様が祀られているが ここのは弁天岳の弁天様で通称「岳弁」と言われている。

頂上(985m)からの遠景の素晴らしさにウットリ。

もう一つの絶景ポイント。大塔が見える。昔の女人は この女人道からしか拝めなかったからどんな気持ちで眺めたことだろう。首をロクロのように伸ばして眺めたというロクロ峠があるが こんなに遠い所からでも何日もかけて登って来てお大師さんの修行地を眺めて涙を流した人も多くいたことでょう。
![10photo01[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/5/a5f0a50e-s.jpg)
今回のゴール大門。 創建は 江戸時代

2012年11月03日
私の足跡121 高野山への七つの登山口(高野七口 京・大坂道)
私の足跡 121
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅲ-1
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
今回は 江戸時代になって 特に参詣道として賑わった「京 大坂道」を書くことにする。
中世より 表参詣道として栄えた町石道に変わり 庶民の旅が盛んになった江戸時代より多く利用されるようになった。理由は 道は険しいが距離が2里短い。(約8Km短い)
それに 旅人の心も 信仰 修行の道として栄えた町石道より 楽しく通れるこの道を使ったらしい。
この道の出発点は 京都から八幡市を通を経て東高野街道を通り河内長野市を通り 橋本市を経て学文路に至る道です。
cf 私の足跡 34 2009.5
もう一つは大阪から堺市を経て西高野街道を通り河内長野市 橋本市を経て学文路に至る道です。
cf 私の足跡 31 2009.4
したがって 今回は学文路から出発することにします。
(東高野街道 西高野街道の詳細は 「私の足跡 31」 ・ 「私の足跡 32」をご覧ください)
![080928c2[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/9/59b534e7-s.jpg)
出発点には 1758年建立の上の石柱がある。右 慈尊院みち是より 一里 左 高野みち女人堂迄三里 とある。
紀伊名所図絵にもある玉屋旅館の跡がある。「この村 旅舎多し 玉屋与次兵衛といふ臥房繁昌す 刈萱道心の因縁ある家なりとぞ・・・・」と記してある。
![080928c5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/5/75260799-s.jpg)
杖の梅天神を過ぎると 刈萱堂がある。ここは 有名な「石童丸物語」と関わった寺です。
また、有形民俗文化財の人魚のミイラもある。
![080928c8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/f/efbb785b-s.jpg)
この付近 柿の産地で全国的に有名です。秋に通るとたわわに実った柿で食欲をそそります。
![080928c12[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/4/d4e80710-s.jpg)
高度があがって息が途切れる頃に 六地蔵の一つ三番目の地蔵が祀っている。ここ繁野集落は歴史が古く 平家全盛の時代よりあるという。
![img_1288927_38441106_15[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/2/32dce479-s.jpg)
弘法大師が村人のために掘ると清水が湧きでたという所。硯の水がほしいと言うとここは峠で水がありませんと言い 遠い谷まで汲みに行ってくれたので村人のために清水が湧き出るようにしたという。硯り水ともいう。
![img_1288927_38441106_11[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/d/5d07dacb-s.jpg)
河根峠にある第四の地蔵さん。子安地蔵さん。地蔵さんの優しい心のお話も残っています。
この付近から しばらく激しい下り坂にかかり 今まで稼いだ高度(約250m)を一気に丹生川(約120m)下ることになる。
![080928d9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/f/6fb2a86d-s.jpg)
坂の途中に丹生神社がある。和歌山県下で一番歴史のある室町時代の石造の狛犬さんがある。また、次の面もあり、創建は不明だが由緒ある神社である。2012年上遷宮で賑わって祝った。
![image022[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/6/96ab5635-s.jpg)
![img_1288927_38441106_5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/d/fdeb25a1-s.jpg)
ここは 本陣跡でなかや旅館です。瓦・門等に見るべきものが残っている。和歌山県の史跡。
![080928d11[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/1/f19bee6c-s.jpg)
河根宿の外れの丹生川にかかる千石橋。 昔からの橋が大水で流されていて渡れず困った明石城主 松平孫四郎はその後幕府に願い出て 1635年に 長さ18間 巾2間半 欄干有り 柱無しの橋を造った。当時としては 貴重な橋で有名であった。この橋を7年に一度建て替えるための費用として千石を給した。ここから「千石橋」の由来である。右端の石柱は「女人堂迄二里」と書いた石柱です。
この橋を越えると高野町である。先ほど河根峠付近より100m強下ったので今度は激しい登り坂の「作水坂」にとりかかる。
あまりにもきつい登り坂なので、お客の荷物を持って坂をのぼったり、「腰押し」といいお客の腰を押すという商売をする人たちもいたという。 また、子どもたちは青竹を切っただけの杖を作ってお客に売っていたらしい。良寛さんは「黄金もて いざ買わん さみつ坂(作水坂のこと)」という歌をつくっている。
![080928d5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/c/7c4e6cf8.jpg)
やっと きつい坂の作水坂を登り 河根峠付近の高さにある第五の地蔵に到着。ここより車の往来が激しくなる。
![080928e4[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/1/41eff943-s.jpg)
振り返ると 河根の集落を随分下方に見るようになった。
![080928e5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/2/f2486268-s.jpg)
そして 桜茶屋 六地蔵の最後 六番目の地蔵に到着。標高444m>
ここは 桜茶屋とも言い、昔は桜の大木が多かったとある。
![img_1288927_38438070_8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/0/f09b6636.jpg)
日本最後の仇討場所に到着。明治4年(1871年)2月30日(旧暦) 赤穂藩の後継者問題から事件が起こり、悲しい結末となった。 政府は明治6年に復讐禁止令を出したので これが 最後の復讐となった。
手前の大岩(当時はもっと大きかったが道路拡張のため 小さくなった)に隠れ待ち 相手をうちころした。
当時の敗者の人達の墓が少し離れた所にある。
![080928f1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/9/c9ab611d-s.jpg)
ここは 神谷宿。今は家屋も少なくなり 人影も滅多に見ない。上の家は脇本陣をしていた。
昭和4年に南海高野線が極楽橋迄延び 翌年ケーブルも出来 お客はそちらへ行ってしまい 客は激減してしまった。
わずか80年前の当時は 宿泊施設は16件で750人の人が泊まれ、ほかに芝居小屋 茶店 食堂 土産店等もあり、昼から三味線の音が聞こえたという。そして「日が昇れば 銭が湧く」といわれたが 今はその当時の面影は全然ない。学校も休校になって年月もたっている。
![080928f4[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/3/f34cec23-s.jpg)
しばらく歩くと 電車が見えだした。
![080928g7[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/3/c32d428f-s.jpg)
そして 極楽橋の駅も見える。
![080928f8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/8/28b0cf82-s.jpg)
朱塗りの極楽橋を渡り、不動坂へと入っていく。
今回は ここまでにします 次回をお楽しみに
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅲ-1
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
今回は 江戸時代になって 特に参詣道として賑わった「京 大坂道」を書くことにする。
中世より 表参詣道として栄えた町石道に変わり 庶民の旅が盛んになった江戸時代より多く利用されるようになった。理由は 道は険しいが距離が2里短い。(約8Km短い)
それに 旅人の心も 信仰 修行の道として栄えた町石道より 楽しく通れるこの道を使ったらしい。
この道の出発点は 京都から八幡市を通を経て東高野街道を通り河内長野市を通り 橋本市を経て学文路に至る道です。
cf 私の足跡 34 2009.5
もう一つは大阪から堺市を経て西高野街道を通り河内長野市 橋本市を経て学文路に至る道です。
cf 私の足跡 31 2009.4
したがって 今回は学文路から出発することにします。
(東高野街道 西高野街道の詳細は 「私の足跡 31」 ・ 「私の足跡 32」をご覧ください)
![080928c2[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/9/59b534e7-s.jpg)
出発点には 1758年建立の上の石柱がある。右 慈尊院みち是より 一里 左 高野みち女人堂迄三里 とある。
紀伊名所図絵にもある玉屋旅館の跡がある。「この村 旅舎多し 玉屋与次兵衛といふ臥房繁昌す 刈萱道心の因縁ある家なりとぞ・・・・」と記してある。
![080928c5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/5/75260799-s.jpg)
杖の梅天神を過ぎると 刈萱堂がある。ここは 有名な「石童丸物語」と関わった寺です。
また、有形民俗文化財の人魚のミイラもある。
![080928c8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/f/efbb785b-s.jpg)
この付近 柿の産地で全国的に有名です。秋に通るとたわわに実った柿で食欲をそそります。
![080928c12[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/4/d4e80710-s.jpg)
高度があがって息が途切れる頃に 六地蔵の一つ三番目の地蔵が祀っている。ここ繁野集落は歴史が古く 平家全盛の時代よりあるという。
![img_1288927_38441106_15[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/2/32dce479-s.jpg)
弘法大師が村人のために掘ると清水が湧きでたという所。硯の水がほしいと言うとここは峠で水がありませんと言い 遠い谷まで汲みに行ってくれたので村人のために清水が湧き出るようにしたという。硯り水ともいう。
![img_1288927_38441106_11[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/d/5d07dacb-s.jpg)
河根峠にある第四の地蔵さん。子安地蔵さん。地蔵さんの優しい心のお話も残っています。
この付近から しばらく激しい下り坂にかかり 今まで稼いだ高度(約250m)を一気に丹生川(約120m)下ることになる。
![080928d9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/f/6fb2a86d-s.jpg)
坂の途中に丹生神社がある。和歌山県下で一番歴史のある室町時代の石造の狛犬さんがある。また、次の面もあり、創建は不明だが由緒ある神社である。2012年上遷宮で賑わって祝った。
![image022[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/6/96ab5635-s.jpg)
![img_1288927_38441106_5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/d/fdeb25a1-s.jpg)
ここは 本陣跡でなかや旅館です。瓦・門等に見るべきものが残っている。和歌山県の史跡。
![080928d11[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/1/f19bee6c-s.jpg)
河根宿の外れの丹生川にかかる千石橋。 昔からの橋が大水で流されていて渡れず困った明石城主 松平孫四郎はその後幕府に願い出て 1635年に 長さ18間 巾2間半 欄干有り 柱無しの橋を造った。当時としては 貴重な橋で有名であった。この橋を7年に一度建て替えるための費用として千石を給した。ここから「千石橋」の由来である。右端の石柱は「女人堂迄二里」と書いた石柱です。
この橋を越えると高野町である。先ほど河根峠付近より100m強下ったので今度は激しい登り坂の「作水坂」にとりかかる。
あまりにもきつい登り坂なので、お客の荷物を持って坂をのぼったり、「腰押し」といいお客の腰を押すという商売をする人たちもいたという。 また、子どもたちは青竹を切っただけの杖を作ってお客に売っていたらしい。良寛さんは「黄金もて いざ買わん さみつ坂(作水坂のこと)」という歌をつくっている。
![080928d5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/c/7c4e6cf8.jpg)
やっと きつい坂の作水坂を登り 河根峠付近の高さにある第五の地蔵に到着。ここより車の往来が激しくなる。
![080928e4[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/1/41eff943-s.jpg)
振り返ると 河根の集落を随分下方に見るようになった。
![080928e5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/2/f2486268-s.jpg)
そして 桜茶屋 六地蔵の最後 六番目の地蔵に到着。標高444m>
ここは 桜茶屋とも言い、昔は桜の大木が多かったとある。
![img_1288927_38438070_8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/0/f09b6636.jpg)
日本最後の仇討場所に到着。明治4年(1871年)2月30日(旧暦) 赤穂藩の後継者問題から事件が起こり、悲しい結末となった。 政府は明治6年に復讐禁止令を出したので これが 最後の復讐となった。
手前の大岩(当時はもっと大きかったが道路拡張のため 小さくなった)に隠れ待ち 相手をうちころした。
当時の敗者の人達の墓が少し離れた所にある。
![080928f1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/9/c9ab611d-s.jpg)
ここは 神谷宿。今は家屋も少なくなり 人影も滅多に見ない。上の家は脇本陣をしていた。
昭和4年に南海高野線が極楽橋迄延び 翌年ケーブルも出来 お客はそちらへ行ってしまい 客は激減してしまった。
わずか80年前の当時は 宿泊施設は16件で750人の人が泊まれ、ほかに芝居小屋 茶店 食堂 土産店等もあり、昼から三味線の音が聞こえたという。そして「日が昇れば 銭が湧く」といわれたが 今はその当時の面影は全然ない。学校も休校になって年月もたっている。
![080928f4[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/3/f34cec23-s.jpg)
しばらく歩くと 電車が見えだした。
![080928g7[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/3/c32d428f-s.jpg)
そして 極楽橋の駅も見える。
![080928f8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/8/28b0cf82-s.jpg)
朱塗りの極楽橋を渡り、不動坂へと入っていく。
今回は ここまでにします 次回をお楽しみに
2012年10月15日
私の足跡120 高野山への七つの登山口(高野七口 小辺路)
私の足跡 120
世界遺産
高野山への七つの
登り口 (高野七口) Ⅱ
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
今回は 熊野古道小辺路を紹介します。
( この道は 「私の足跡 27 高野山から熊野へ」で紹介済み ここをご覧頂けると高野山から熊野の本宮迄記しています。そして 私の足跡 28 と 私の足跡 29の小雲・大雲越えで 那智大社までを記しています。 )
2005年10月16日
車で 野迫川の大股へ行き、そこから高野山へ帰るようにした。
大股では、前回の悪夢の雨を思い出し3人でその時の様子を話し 当時を思い出す。

8時30分大滝を出発 今回は 快晴。ゆっくり景色を楽しみながら歩くことができた。

大股を出発して まもなく急にはげしい登りになる。近年、林道が開発されて大事な古道がズタズタに寸断されているのは、とても残念だ。



でも、古道の道端には、多くの旅人を見送った石仏がたくさん残っていたので、有難かった。 9:20

2時間近く歩くと、本日の標高最高地点である林道と古道の合流点(標高 約1000m)へ。10:20

しばらく歩くと何軒かの集落跡の残る水ヶ峰集落跡に到着。建物はなく、屋敷の石垣とお墓だけです。何年か前までは、子どもの遊び声や大人の会話が聞こえていたと思うと、寂しい思いがした。でも、このお墓に最近お参りしたのか新しい花がいけられていたので嬉しかった。11:00

すぐに、高野龍神道と合流し、そこを約30分歩く。ドライバ-は人が歩いているのでびっくりしている。我々も車には細心の注意をはらい歩く。 約2Kmだが、歩道をつけるとかして安全に歩けるよう何とか改善できないだろうか。

三荒神の一つで有名な立里荒神社の遥拝所。 11:10

やっと 危険な車道とも別れ 安心して歩ける山道に入る。静かな古道を歩く。 11:30

昔は賑わって 学校もあったが今はひっひりとした大滝の集落に入る。人口が減り、住民も高齢化しているそうだ。
旅人の為の公衆便所もつくってくれていて有り難い。 12:20
この小辺路は 世界遺産に指定されている道です。世界遺産高野地区のマスターをしているので ここから 高野山までは 年に一度 何度となく ボランティアで清掃ウォークをしている道だ。

急こう配の下り坂を歩く。


高野の町から流れて来ている川「御殿川」迄下る。12:40

橋を越えて 登り返すことになる。ここにも集落跡がある。

高野槇の傍を通り、高野山への登り道に入る。

ほどなく、文久二年(1862年)に建立された丁石(道標)に着く。13:10
丁石には「右側には高野山へ四十丁、くまの本宮へ十七里 左側には大坂十六里奈良へ十八里 和歌山へ十二里」と記してある。

坂道を約30分登ると薄峠に着く。13:40

ここからなだらかなアップダウンの道を約30分歩くと大滝口女人堂跡だ。 14:20
この高野山への道は7口あり、それぞれの入り口に「女人堂」があり、女人禁制の時代はここより中には入れなかった。ここはその一つでロクロ峠といい、山内に入ることを許されなかった女性たちは、ここから伽藍を遥拝し、仏の救済を祈った。(現存している女人堂は不動坂の一つだけ)

金剛三昧院の傍を通り、ゴールへ。

約20分で ゴ-ルの高野山大学に着く。14:50
今回は 少ない距離だったが これで、3泊4日の日程で約70Kmの小辺路を歩き通して、喜びのハイタッチ。そして、軽く祝杯。帰宅、5時半。
那智大社迄の記事を希望される方は 是非 私の「足跡28 29」をご覧ください。
2012年10月02日
私の足跡119 高野山への七つの登り口 (高野七口 有田・龍神道)
私の足跡 119
世界遺産 高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅰ
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
上記のように高野山への登り口は 時代により多少の違いがあるが七口(七つの登山道)があった。
このシリーズではこの七口を記すことにする。(但し 相の浦道は使用されていないので省く)
A 有田・龍神道 6月24日
先ず最初は 利用者が少なく有名ではないが 「有田・龍神道」からにする。


JR和歌山線の「笠田駅」からバスに乗る。客は初めは五人 最後は我々二人だけ。

約一時間で花園村の「ねむの木」に到着。9:15 静かでひっそりとしていた。

上記の標識に沿って 林内歩道の入り口を探したが見つけるのに時間がかかった。

ヤット見つけて 約10分位で上の写真のような楽しい山道を登ることが出来た。

道も整備され 森林浴を楽しみながら登り続ける。やっと三分の一が過ぎる。

そして 三分の二も過ぎる。

森林の中の歩道を通り 林内歩道も終わる。10:50 標高 880m

そして 高野山へ向けて歩き始める。標高は高野山と同じだから 多少のアップダウンはあるが 殆ど平坦な道となる。そして 途中より 舗装された道となり 山の中を歩くが登山の気分は半減する。

しかし 道端には 上記の二人静の花やうつぎの花等が咲き、心を癒してくれる。

また 遠くの山並みも見え 感動もした。

「高野山ヘリポート場」の傍を通る。13:30

やっと 大門到着。 14:20 予定より 時間が早かったので 町石道を通り 花坂経由で上古沢駅迄歩き 電車に乗ることにする。

見事な高野万年苔を見る事ができた。

アジサイも見事であった。

少なくなっているササユリも見る事が出来た。
今日は体調が良かったから 久しぶりに長距離を歩いた。 36782歩
世界遺産 高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅰ
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
上記のように高野山への登り口は 時代により多少の違いがあるが七口(七つの登山道)があった。
このシリーズではこの七口を記すことにする。(但し 相の浦道は使用されていないので省く)
A 有田・龍神道 6月24日
先ず最初は 利用者が少なく有名ではないが 「有田・龍神道」からにする。


JR和歌山線の「笠田駅」からバスに乗る。客は初めは五人 最後は我々二人だけ。

約一時間で花園村の「ねむの木」に到着。9:15 静かでひっそりとしていた。

上記の標識に沿って 林内歩道の入り口を探したが見つけるのに時間がかかった。

ヤット見つけて 約10分位で上の写真のような楽しい山道を登ることが出来た。

道も整備され 森林浴を楽しみながら登り続ける。やっと三分の一が過ぎる。

そして 三分の二も過ぎる。

森林の中の歩道を通り 林内歩道も終わる。10:50 標高 880m

そして 高野山へ向けて歩き始める。標高は高野山と同じだから 多少のアップダウンはあるが 殆ど平坦な道となる。そして 途中より 舗装された道となり 山の中を歩くが登山の気分は半減する。

しかし 道端には 上記の二人静の花やうつぎの花等が咲き、心を癒してくれる。

また 遠くの山並みも見え 感動もした。

「高野山ヘリポート場」の傍を通る。13:30

やっと 大門到着。 14:20 予定より 時間が早かったので 町石道を通り 花坂経由で上古沢駅迄歩き 電車に乗ることにする。

見事な高野万年苔を見る事ができた。

アジサイも見事であった。

少なくなっているササユリも見る事が出来た。
今日は体調が良かったから 久しぶりに長距離を歩いた。 36782歩