2015年03月17日
私の足跡 174 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 7
私の足跡 174
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 7
v 滝谷不動駅から天見へ 3月 2日
今回は 前回の天見駅を 9時に出発する
![0e5bbffb-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/3/43f7e2e4.jpg)
二つの班に分かれて出発。
![c409112c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/4/e4b07b76.jpg)
出合いの辻を過ぎて 旧街道を通る。
![1d3b246c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/c/5c914de6.jpg)
国道に出ると ガードレールに守られた歩道を楽しく歩く。
紀見峠を越える時 旧国道ではなく 昔の道「み坂」を通る。
![ebce6d61-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/c/2cf13455.jpg)
紀見峠では 旧宿場町の説明や世界的に有名なで橋本市の名誉市民である「岡 潔」が少年時代を過ごした様子をガイドにしてもらう。(ここに 六里石がある)
![c0adf719-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/1/01087963.jpg)
昔の面影の残る宿場町跡。
![51618a1c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/8/58c079f3.jpg)
慶賀野戎神社に寄り、ここより良く見える 長藪城址の説明を聞く。
![bce4b613[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/4/44082eb6.jpg)
幕末になり賑わいをあった京・大阪道に 大阪狭山市の二人が発起人になり 堺から高野山迄の13里の道に 一里ごとに道標を建てた。 それが当時の旅人の役にたった。その里程石が 今に残っている。 (橋本市には 紀見峠の六里石から学文路の三里石迄のの四基がある。)
![bc9dd7eb-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/2/227e26f0.jpg)
現「御幸駅」の近くにある道標。 現在の高野参詣道は この道を南に直進して橋本経由で高野山へのびているが、平安時代からは ここで分岐して 西に延びていたという資料により、駅名にもなっている「御幸」道を歩くことにした。
菖蒲谷・出塔・一時期鋳物の生産地として栄えた柏原を通り 本日のゴール「紀伊山田駅」へ。
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 7
v 滝谷不動駅から天見へ 3月 2日
今回は 前回の天見駅を 9時に出発する
![0e5bbffb-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/3/43f7e2e4.jpg)
二つの班に分かれて出発。
![c409112c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/4/e4b07b76.jpg)
出合いの辻を過ぎて 旧街道を通る。
![1d3b246c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/c/5c914de6.jpg)
国道に出ると ガードレールに守られた歩道を楽しく歩く。
紀見峠を越える時 旧国道ではなく 昔の道「み坂」を通る。
![ebce6d61-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/c/2cf13455.jpg)
紀見峠では 旧宿場町の説明や世界的に有名なで橋本市の名誉市民である「岡 潔」が少年時代を過ごした様子をガイドにしてもらう。(ここに 六里石がある)
![c0adf719-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/1/01087963.jpg)
昔の面影の残る宿場町跡。
![51618a1c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/8/58c079f3.jpg)
慶賀野戎神社に寄り、ここより良く見える 長藪城址の説明を聞く。
![bce4b613[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/4/44082eb6.jpg)
幕末になり賑わいをあった京・大阪道に 大阪狭山市の二人が発起人になり 堺から高野山迄の13里の道に 一里ごとに道標を建てた。 それが当時の旅人の役にたった。その里程石が 今に残っている。 (橋本市には 紀見峠の六里石から学文路の三里石迄のの四基がある。)
![bc9dd7eb-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/2/227e26f0.jpg)
現「御幸駅」の近くにある道標。 現在の高野参詣道は この道を南に直進して橋本経由で高野山へのびているが、平安時代からは ここで分岐して 西に延びていたという資料により、駅名にもなっている「御幸」道を歩くことにした。
菖蒲谷・出塔・一時期鋳物の生産地として栄えた柏原を通り 本日のゴール「紀伊山田駅」へ。