2015年02月15日
私の足跡 173 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅵ
私の足跡 173
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅵ
v 天見駅から紀伊山田駅へ 2月 16日
今回は 前回の終着駅を 9時に出発する。今回より参加者8名の増加を予定していたが、6名
欠席で 総勢31名で出発。
![FH000025[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/8/28064b9f.jpg)
河内長野市に近づくと一里塚跡に到着。一辺9メートルの正方形で この錦織一里塚は 東高野街道に接して 造られています。現在 宝筺印塔と石碑が残されている。府指定文化財。
![FH100024[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/6/56a04787.jpg)
塚の上には 宝筺院塔があり 承応2(1653)年の銘がある。

融通念仏宗の極楽寺に到着。阿弥陀如来の坐像です。高さ6メートル 青銅製。


天野酒の酒蔵 享保3(1718)年 創業の造り酒屋。この建物は国の登録文化財。

国指定の重要文化財の烏帽子形八幡神社に到着し 石段を登り 参拝をする。
創建は わからないが 山頂には楠木七城の一つと伝えられる烏帽子形城があり その鎮守として祀られたとの説もある。


三日市宿に到着。昔の面影を残す街道を歩く。

重厚の感じの建物・八木邸です。

江戸末期 堺から高野山迄の距離を表すため建てた里提標。 京・大坂道では 高野山まで八里となるが、我々は大師も歩いたと言われる平安時代からの町石道を通るのでもっと長い。

弘法大師に縁のある寺であったが、今は融通念仏宗の寺である。大きな石仏があるので、石仏寺と呼ばれている。

弘法大師伝説を残す「松明屋」というお堂です。大師が旅の途中 この地で夜が明け、不要になった松明を地面に突き立てたところ、松の木になったという。
本日の目的地 天見駅に予定通り 16時着。
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く Ⅵ
v 天見駅から紀伊山田駅へ 2月 16日
今回は 前回の終着駅を 9時に出発する。今回より参加者8名の増加を予定していたが、6名
欠席で 総勢31名で出発。
![FH000025[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/8/28064b9f.jpg)
河内長野市に近づくと一里塚跡に到着。一辺9メートルの正方形で この錦織一里塚は 東高野街道に接して 造られています。現在 宝筺印塔と石碑が残されている。府指定文化財。
![FH100024[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/6/56a04787.jpg)
塚の上には 宝筺院塔があり 承応2(1653)年の銘がある。

融通念仏宗の極楽寺に到着。阿弥陀如来の坐像です。高さ6メートル 青銅製。


天野酒の酒蔵 享保3(1718)年 創業の造り酒屋。この建物は国の登録文化財。

国指定の重要文化財の烏帽子形八幡神社に到着し 石段を登り 参拝をする。
創建は わからないが 山頂には楠木七城の一つと伝えられる烏帽子形城があり その鎮守として祀られたとの説もある。


三日市宿に到着。昔の面影を残す街道を歩く。

重厚の感じの建物・八木邸です。

江戸末期 堺から高野山迄の距離を表すため建てた里提標。 京・大坂道では 高野山まで八里となるが、我々は大師も歩いたと言われる平安時代からの町石道を通るのでもっと長い。

弘法大師に縁のある寺であったが、今は融通念仏宗の寺である。大きな石仏があるので、石仏寺と呼ばれている。

弘法大師伝説を残す「松明屋」というお堂です。大師が旅の途中 この地で夜が明け、不要になった松明を地面に突き立てたところ、松の木になったという。
本日の目的地 天見駅に予定通り 16時着。