私の足跡120 高野山への七つの登山口(高野七口 小辺路)私の足跡122 高野山への七つの登山口(高野七口 京・大坂道))

2012年11月03日

私の足跡121 高野山への七つの登山口(高野七口 京・大坂道)

私の足跡 121 

 
    高野山への
     七つの登り口 (高野七口) Ⅲ-1


     map[1]
     
  今回は 江戸時代になって 特に参詣道として賑わった「京 大坂道」を書くことにする。

  中世より 表参詣道として栄えた町石道に変わり 庶民の旅が盛んになった江戸時代より多く利用されるようになった。理由は 道は険しいが距離が2里短い。(約8Km短い)
     それに 旅人の心も 信仰 修行の道として栄えた町石道より 楽しく通れるこの道を使ったらしい。

  この道の出発点は 京都から八幡市を通を経て東高野街道を通り河内長野市を通り 橋本市を経て学文路に至る道です。
  cf  私の足跡 34    2009.5  

  もう一つは大阪から堺市を経て西高野街道を通り河内長野市 橋本市を経て学文路に至る道です。 
     cf  私の足跡 31   2009.4 

  したがって 今回は学文路から出発することにします。

 (東高野街道 西高野街道の詳細は 「私の足跡 31」 ・ 「私の足跡 32」をご覧ください)

    
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   出発点には 1758年建立の上の石柱がある。右 慈尊院みち是より 一里  左 高野みち女人堂迄三里 とある。

   紀伊名所図絵にもある玉屋旅館の跡がある。「この村 旅舎多し 玉屋与次兵衛といふ臥房繁昌す 刈萱道心の因縁ある家なりとぞ・・・・」と記してある。



   
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   杖の梅天神を過ぎると 刈萱堂がある。ここは 有名な「石童丸物語」と関わった寺です。
 また、有形民俗文化財の人魚のミイラもある。


   
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   この付近 柿の産地で全国的に有名です。秋に通るとたわわに実った柿で食欲をそそります。


   
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   高度があがって息が途切れる頃に 六地蔵の一つ三番目の地蔵が祀っている。ここ繁野集落は歴史が古く 平家全盛の時代よりあるという。   

   
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   弘法大師が村人のために掘ると清水が湧きでたという所。硯の水がほしいと言うとここは峠で水がありませんと言い 遠い谷まで汲みに行ってくれたので村人のために清水が湧き出るようにしたという。硯り水ともいう。 

   
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   河根峠にある第四の地蔵さん。子安地蔵さん。地蔵さんの優しい心のお話も残っています。
   この付近から しばらく激しい下り坂にかかり 今まで稼いだ高度(約250m)を一気に丹生川(約120m)下ることになる。

     
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  坂の途中に丹生神社がある。和歌山県下で一番歴史のある室町時代の石造の狛犬さんがある。また、次の面もあり、創建は不明だが由緒ある神社である。2012年上遷宮で賑わって祝った。

   
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   ここは 本陣跡でなかや旅館です。瓦・門等に見るべきものが残っている。和歌山県の史跡。

    
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  河根宿の外れの丹生川にかかる千石橋。  昔からの橋が大水で流されていて渡れず困った明石城主 松平孫四郎はその後幕府に願い出て 1635年に 長さ18間 巾2間半 欄干有り 柱無しの橋を造った。当時としては 貴重な橋で有名であった。この橋を7年に一度建て替えるための費用として千石を給した。ここから「千石橋」の由来である。右端の石柱は「女人堂迄二里」と書いた石柱です。

  この橋を越えると高野町である。先ほど河根峠付近より100m強下ったので今度は激しい登り坂の「作水坂」にとりかかる。
  あまりにもきつい登り坂なので、お客の荷物を持って坂をのぼったり、「腰押し」といいお客の腰を押すという商売をする人たちもいたという。 また、子どもたちは青竹を切っただけの杖を作ってお客に売っていたらしい。良寛さんは「黄金もて いざ買わん さみつ坂(作水坂のこと)」という歌をつくっている。


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   やっと きつい坂の作水坂を登り 河根峠付近の高さにある第五の地蔵に到着。ここより車の往来が激しくなる。


   


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     振り返ると 河根の集落を随分下方に見るようになった。 

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     そして 桜茶屋 六地蔵の最後 六番目の地蔵に到着。標高444m>
              ここは 桜茶屋とも言い、昔は桜の大木が多かったとある。

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     日本最後の仇討場所に到着。明治4年(1871年)2月30日(旧暦) 赤穂藩の後継者問題から事件が起こり、悲しい結末となった。 政府は明治6年に復讐禁止令を出したので これが 最後の復讐となった。
     手前の大岩(当時はもっと大きかったが道路拡張のため 小さくなった)に隠れ待ち 相手をうちころした。
     当時の敗者の人達の墓が少し離れた所にある。     

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    ここは 神谷宿。今は家屋も少なくなり 人影も滅多に見ない。上の家は脇本陣をしていた。
    
    昭和4年に南海高野線が極楽橋迄延び 翌年ケーブルも出来 お客はそちらへ行ってしまい 客は激減してしまった。

    わずか80年前の当時は 宿泊施設は16件で750人の人が泊まれ、ほかに芝居小屋 茶店 食堂 土産店等もあり、昼から三味線の音が聞こえたという。そして「日が昇れば 銭が湧く」といわれたが 今はその当時の面影は全然ない。学校も休校になって年月もたっている。

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    しばらく歩くと 電車が見えだした。

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    そして 極楽橋の駅も見える。

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    朱塗りの極楽橋を渡り、不動坂へと入っていく。


        今回は ここまでにします  次回をお楽しみに

  


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