2013年07月01日
私の足跡 137 高野山への七つの登山口(高野町石道)
私の足跡 137
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳ-Ⅰ
(高野町石道)
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
今回は 弘法太師が開いたと言われ、表参詣道として栄えた高野町石道を書きます。
この高野山町石道は 世界遺産である三重・奈良・和歌山の三県の霊場を結んでいる「紀伊山地の霊場とその参詣道」の一つである。
空海が高野山を開いて(816年)以来 史料によると多くの天皇家・摂関家等の著名人が通っています。先ず藤原道長が1023年に 続いて藤原頼道が1048年に登っている。続いて白河上皇が1088年に上皇の参詣登山としては最初で前代未聞と騒がれた。 その後 鳥羽上皇をはじめ後白河上皇等も登っています。
特に、有名なのは後宇多法皇の高野登山(1313年)です。約20kmで標高差約800メートルの登山ですから、普通に歩いて7~8時間を要する。
この道を後宇多法皇は輿に乗らず、草履で足をかため 徒歩で しかも1町毎に立ち止まり町卒塔婆の一本一本に念誦しながら登ったと「後宇多法皇高野御幸記」にある。記録では 午前2時に慈尊院の御所を出発したが、雨もふり、花坂あたりで夜になり、法皇も気を失った。付け人は輿に乗っての登山をと願ったが「たとえ幾日かかろうとも この行を止めるつもりはない」と言い、御幸を続けられ、24時間後の午前2時頃山上に到着した。「高野への道」村上・山蔭共著(高野出版社)を参考にした。
![choisimichimap[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/3/03cc7daf.jpg)
世界遺産では、参詣道としては世界で2番目に指定されている町石道を歩くことにします。
玄関口は 九度山町の慈尊院・丹生官省符神社(共に世界遺産)です。高野山の政所であった所です。
![120815a01[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/7/e7c5aa68-s.jpg)
石段を登れば 慈尊院です。

登って左側に弥勒堂(重文)があり、その中に弥勒菩薩(国宝)が安置されている。
![image3[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/b/7b392c17-s.jpg)
大日如来が安置されている多宝塔です。そして、その奥には長い石段がある。

そして、石段の途中に 180町石(これより 高野山の壇上まで1町(109m)毎に この町石が建てられている。)がある。
この町石は、今まで木製であったのを鎌倉時代に安達泰盛が20年間かけて造りあげた。

丹生官省符神社 丹生官省荘の総神社

丹生官省符神社を過ぎると、右手に厄除観音の勝利寺がある。
是より 町石に沿って標高を上げていく。
![m_DSCN6792-aef9b[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/3/e3378b98.gif)

竹藪の中等を通って、柿畑の険しい坂道を登る。
![image11[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/0/b0190f70-s.jpg)
高度があがると紀の川が見えて来た。朝日・夕日の見事な所。 これから目指す高野山も見えて来た。

町石が2本建っているが、左側は鎌倉時代の町石。不完全のためか、大正時代に造り変えた。

途中 弘法大師の坐像がある。
![image18[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/3/f3e4a1f2-s.jpg)
六本杉という広場があり、小休止に適している。

町石が2本建っている。一つは通常の町石。もう一つは 36町で1里なので 慈尊院から一里歩いたという一里石。

天野の里が一望できる展望台がある。

展望台から 丹生津比売神社のあり 白州正子の愛した天野の里がある。
![m_DSCN6814-5127d[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/e/6eb1b46b.gif)
![kouyasan130323image8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/6/361b2a9f-s.jpg)
展望台の傍に 丹生都比売神社を遥拝する二つ鳥居がある。
![061112-0921[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/3/b37e070d.jpg)
神田地区の地蔵堂。集落と田園の風景は見事。恋人「滝口入道」が通るのを待っていた「横笛」の話で有名。
![061112-119A1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/3/83856359.jpg)
「袈裟掛石」「鞍掛石」「くぐり石」とも言われる岩がある。

岩を押し上げ豪雨から母をまもった「押し上げ石」等がある。
![120815a43[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/1/91d872d7.jpg)
厳しい厳しい坂道を登りつめると突然眼前に姿を現す巨大な大門。標高880m。
苦しい坂道を登って来た登山者は しばし、足を止めて眺める。
![3348-13[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/f/8f876c7a.jpg)
この大門をくぐれば ゴールはあと少し。
![3348-16[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/4/c4d36f99.jpg)
高野山の中心 伽藍の根本大塔に到着。
20kmの町石の道端には登山者を癒してくれる草花がある。(但し 時期により咲く花が異なる。)

うつぎの花

ふたりしずか
![DSC00907-1024x573[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/3/837457a6-s.jpg)
ひとりしずか

ササユリ

シダ

はないかだ

からすうり

しらいと草
次回は 高野七口ではないが、この町石道と関係深い「三谷坂」を書きます。
高野山への
七つの登り口 (高野七口) Ⅳ-Ⅰ
(高野町石道)
![map[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/a/f/af3a5727.gif)
今回は 弘法太師が開いたと言われ、表参詣道として栄えた高野町石道を書きます。
この高野山町石道は 世界遺産である三重・奈良・和歌山の三県の霊場を結んでいる「紀伊山地の霊場とその参詣道」の一つである。
空海が高野山を開いて(816年)以来 史料によると多くの天皇家・摂関家等の著名人が通っています。先ず藤原道長が1023年に 続いて藤原頼道が1048年に登っている。続いて白河上皇が1088年に上皇の参詣登山としては最初で前代未聞と騒がれた。 その後 鳥羽上皇をはじめ後白河上皇等も登っています。
特に、有名なのは後宇多法皇の高野登山(1313年)です。約20kmで標高差約800メートルの登山ですから、普通に歩いて7~8時間を要する。
この道を後宇多法皇は輿に乗らず、草履で足をかため 徒歩で しかも1町毎に立ち止まり町卒塔婆の一本一本に念誦しながら登ったと「後宇多法皇高野御幸記」にある。記録では 午前2時に慈尊院の御所を出発したが、雨もふり、花坂あたりで夜になり、法皇も気を失った。付け人は輿に乗っての登山をと願ったが「たとえ幾日かかろうとも この行を止めるつもりはない」と言い、御幸を続けられ、24時間後の午前2時頃山上に到着した。「高野への道」村上・山蔭共著(高野出版社)を参考にした。
![choisimichimap[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/3/03cc7daf.jpg)
世界遺産では、参詣道としては世界で2番目に指定されている町石道を歩くことにします。
玄関口は 九度山町の慈尊院・丹生官省符神社(共に世界遺産)です。高野山の政所であった所です。
![120815a01[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/7/e7c5aa68-s.jpg)
石段を登れば 慈尊院です。

登って左側に弥勒堂(重文)があり、その中に弥勒菩薩(国宝)が安置されている。
![image3[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/b/7b392c17-s.jpg)
大日如来が安置されている多宝塔です。そして、その奥には長い石段がある。

そして、石段の途中に 180町石(これより 高野山の壇上まで1町(109m)毎に この町石が建てられている。)がある。
この町石は、今まで木製であったのを鎌倉時代に安達泰盛が20年間かけて造りあげた。

丹生官省符神社 丹生官省荘の総神社

丹生官省符神社を過ぎると、右手に厄除観音の勝利寺がある。
是より 町石に沿って標高を上げていく。
![m_DSCN6792-aef9b[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/3/e3378b98.gif)

竹藪の中等を通って、柿畑の険しい坂道を登る。
![image11[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/0/b0190f70-s.jpg)
高度があがると紀の川が見えて来た。朝日・夕日の見事な所。 これから目指す高野山も見えて来た。

町石が2本建っているが、左側は鎌倉時代の町石。不完全のためか、大正時代に造り変えた。

途中 弘法大師の坐像がある。
![image18[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/3/f3e4a1f2-s.jpg)
六本杉という広場があり、小休止に適している。

町石が2本建っている。一つは通常の町石。もう一つは 36町で1里なので 慈尊院から一里歩いたという一里石。

天野の里が一望できる展望台がある。

展望台から 丹生津比売神社のあり 白州正子の愛した天野の里がある。
![m_DSCN6814-5127d[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/e/6eb1b46b.gif)
![kouyasan130323image8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/6/361b2a9f-s.jpg)
展望台の傍に 丹生都比売神社を遥拝する二つ鳥居がある。
![061112-0921[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/3/b37e070d.jpg)
神田地区の地蔵堂。集落と田園の風景は見事。恋人「滝口入道」が通るのを待っていた「横笛」の話で有名。
![061112-119A1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/3/83856359.jpg)
「袈裟掛石」「鞍掛石」「くぐり石」とも言われる岩がある。

岩を押し上げ豪雨から母をまもった「押し上げ石」等がある。
![120815a43[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/1/91d872d7.jpg)
厳しい厳しい坂道を登りつめると突然眼前に姿を現す巨大な大門。標高880m。
苦しい坂道を登って来た登山者は しばし、足を止めて眺める。
![3348-13[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/f/8f876c7a.jpg)
この大門をくぐれば ゴールはあと少し。
![3348-16[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/4/c4d36f99.jpg)
高野山の中心 伽藍の根本大塔に到着。
20kmの町石の道端には登山者を癒してくれる草花がある。(但し 時期により咲く花が異なる。)

うつぎの花

ふたりしずか
![DSC00907-1024x573[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/8/3/837457a6-s.jpg)
ひとりしずか

ササユリ

シダ

はないかだ

からすうり

しらいと草
次回は 高野七口ではないが、この町石道と関係深い「三谷坂」を書きます。