2011年08月15日
私の足跡 90 熊野古道の伊勢路を歩く 3 新鹿駅から賀田駅迄
大辺路・伊勢路を歩く
2011年5月18日
伊勢路 3 新鹿駅から賀田駅迄 約10km

昨夜の熊野市の宿泊所「紀南荘」は小じんまりとしていた。予約の時、二人というと二部屋でも同じ値段というので二部屋をお願いしてN氏と別々の部屋で寝た。敷布も糊が良くきいて気持ちよく寝れた。
宿舎を6時半に出て、昨日の新鹿駅から賀田駅迄の世界遺産の多く残る道を歩き始める。

前回 到着した新鹿駅を7時過ぎに出発。昨日鳴いていたキジが今朝も鳴いていた。

約1km歩くと、上の案内標識があり、この二つの峠について解説がしていた。7:50

そして、標高0メートルに近い所から標高290メートルの逢神坂峠への険しい登りにかかる。8:00

やっと、逢神坂峠に到着。 8:50

「逢神」とは、伊勢と熊野の神が出会う場所という意味。また、この辺りで狼(オオカミ)が出没したことによるとの説もある。
かつては、駕籠立場が設けられ、茶屋も店開きをしていたとの説明がしてある。

次の峠へは、猪垣のある道で一度急な石畳の坂道を下ってまた登る。

すると、標高240メートルの二木島峠に到着。9:10


標高240メートルの二木島峠から写真のようなごつごつした荒々しい石畳道を通って下る。

標高0メートルに近い新鹿湾から JR紀勢線のトンネルの上を通って かつては捕鯨の町として賑わった標高0メートルに近い二木島の町に着くのが上の地図でよくわかる。

右のセメントの隙間からの古道より車道に降りる。9:45
そして、 しばらく車道を通って歩く。

車道をしばらく歩いてから 曽根次郎坂・太郎坂の古道に入る。10:10 (頭上の看板)

この付近には、下の写真のような「猪垣」がたくさん残っている。猪や鹿の被害から守るため築いたもので「猪垣」と書いてシシガキとも、シカガキともいう。江戸時代に農民たちは苦労して新しい田畑を開墾したが 猪や鹿の被害から守るために、さらに苦労して築いた「猪垣」で、村人の大切な財産であった。
これらのことを書いた記念碑を 熊野市は熊野市指定文化財にしている。10:23



農民の皆さんの汗水のしみ込んだ見事な石垣を眺めて頂上を目指して歩く。

最高点から少し下った所に ほうじ茶屋跡があ。 12:10
江戸時代の旅人の日記に ほうじ茶屋があったと記されている。

ほうじ茶屋跡には 赤いよだれかけをした地蔵が祭られている。ここを通った旅人の安全を願って建立したものである。
茶屋のすぐ下に 標高305mの甫母峠がある。
ここは、現在尾鷲市と熊野市の市境であるが、大化の改新から天正10年(1582年)迄紀伊と志摩の国境であった。
曽根次郎坂・曽根太郎坂の名称は 自領すなわち自分の領地(志摩) 他領すなわち他人の領地(紀伊)がなまったもので、甫母峠より北は次郎坂 南は太郎坂ということである。(初めて知ってビックリ)

可愛くて癒される地蔵さまも旅人の安全を祈ってくれている。

巡礼供養碑があった。

江戸時代の1830年に ここで倒れた武州足立郡那珂之田村(現 埼玉県さいたま市)の人の供養碑です。巡礼の途中、急に様態が悪化して倒れたのでしょう。当時は 国元へは知らせるが、地元の負担で仮葬して供養もしている。

真珠の養殖もしている賀田湾が見えてきた. 12:30

郷土の英雄・曽根禅正一族の墓地で曽根禅正の五輪塔もある。
室町時代 海賊や盗賊のため治安の悪化に困り果てていた村人が近江から招いた佐々木宇右衛門(名前を佐々木禅正と改める)は 近江の国から甲賀忍者を引き連れてやって来た。そして、この地を平穏な土地として、土地の人々を喜ばしたとある。
集落の中を歩いていると、大クスのある飛鳥神社のそばを通り、賀田駅に到着。13:00
今回、 この後、前日までは三木峠・羽後峠を越えるという予定を組んでいたが臨時の列車があると言うのを知り予定を取りやめ、早く帰ることにした。
新宮を通り、和歌山経由で家に帰る。予定より早く20:30。