2011年05月01日
私の足跡 83 東海道の完歩 18 川崎宿 ~ 日本橋
東海道を歩く 18
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この東海道シリ-ズの最終
「2」 川崎宿→ 「1」 品川宿 → 日本橋
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[2] 川崎宿 「六郷渡船」 渡しののどかな風景。
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「1」 品川宿 宿場町が海岸脇に連なっていた。
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日本橋 快晴の朝。仰々しい大名行列に遭遇し、魚屋が慌てて道をあける。
神奈川宿より川崎宿に向かう。

大名行列に英国人が横切り、それを武士が切りつけ、薩英戦争の引き金となった事件の場所。

総持寺 以前能登に570年の歴史を持っていたが明治31年の大火のため、現在の位置に移る。石原裕次郎の墓がある。

見事な曲線をもった鶴見橋を渡る。

「芭蕉の句碑」 麦の穂を たよりにつかむ わかれかな
江戸に滞在していた芭蕉が見送りにきた弟子たちとここで別れるときの返歌。
その後、2度と江戸には来れずに亡くなった。

この宿には3軒の本陣があった。その一つである。

「長十郎梨のふるさと」 明治の中ごろ、病害に強く、甘い梨がここ大師川崎村で生まれた。発見者 当麻辰次郎の屋号をとり、「長十郎」と命名し各地へ広がった。

「六郷橋」の欄干の上に当時の渡し船の形をしたモニュメントがある。これを渡れば川崎宿に入る。
徳川家康よって架けられた六郷大橋は1688年の大洪水で流失。その後渡し船。1707年この経営を幕府から請け負い、渡し賃を「宿」の収入にすることにしたのは田中本陣の当主だった。この読みは見事に当たり、厳しい財政難に苦しんでいた川崎宿は、徐々に活気を取り戻していった。
初詣で賑わうで有名な「川崎大師」が近くにある。

歴史によく出る鈴ヶ森刑場遺跡があった。また、その近くに刑を受ける人を見送りに来たという「涙橋」もあった。

火炙り台 八百屋お七をはじめ火炙りの処刑者は皆この石の上で生きたまま焼き殺された。真ん中の穴に鉄柱を立て足下に薪をつみ、しばりつけて処刑された。

「磔石」 丸橋忠弥を初め罪人がこの台に建てた角柱にしばりつけて刺殺したのである。


品川宿の町並み 昔の面影が残っていない。

品川宿本陣跡 今は公園になっている。

八つ山橋の説明とシンボル。

品川駅前を北進する。

赤穂の四十七士が眠る泉岳寺前を通る。

江戸の街を無血で救った両氏が会見した「薩摩藩邸跡」
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ゴールの日本橋が近づいてきた。見慣れぬ乗り物が走っていた。
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何人かの江戸幕府の将軍が眠る増上寺に行く。すぐ後ろに東京タワーも見え、日本の新旧の建物が並んで見える。
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箱根駅伝が近づき、その垂れ幕も見える。
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銀座のど真ん中を我々4人がみすぼらしい姿で歩いた。
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そして、念願の日本橋に到着。上は首都高速道路。その下に日本の道路元標があり、東海道のみならず五街道すべての起点であった。
「日本橋」という名の橋が架けられたのは1603年です。その後、幾度もの焼失と再建を経て、現存する橋は、明治の終わりに完成した石造りの二連アーチ橋。1999年には、国の重要文化財にも指定されている。1963年に首都高速道路が橋の上を通るようになり、往時の雰囲気はすっかり失われたという。辺りには、当時から続く老舗商店も多い。
ここ日本橋は2007年の暮れに中山道を歩いての到着から2回目となる。詳細は「私の足跡 63」
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京都からの道中は、いつもこのフルメンバーではなかったが、終わりは揃ってゴールすることができた。
東海道完歩を祝して般若湯を頂き、祝ったのは言うまでもなかった。
「豆知識」 旅人はどこへ行ったのか?
第2部 一世一代の大旅行には どれくらいの費用がかかったの?
伊勢参りにかかる費用(片道11泊12日、伊勢滞在も含め往復25日27日で計算)
(一番賑わった江戸後期の物価から)
宿泊費 食事代 人馬、川越代 伊勢滞在費 その他 合計
5000文 2700文 2000文 1500文 2000文 13200文
一両は5000~7000文であったので約2両となり、現在の価値には単純に換算できないが、そばの価格で比較すると2両は約25万円 大工の賃金だと2両は約60万円になる。
宿泊費 昼 食 川越え
普通の旅籠1泊2食 茶屋での昼食。そば、 渡船 10文
付きで200文 うどんは20文だが体力 肩車 50文
風呂もある。 のつく食べ物は70文程 蓮台 300文
木賃宿(素泊まり) の名物料理も
70文 白酒は30文ほど
風呂なし
雑魚寝