私の足跡 73 東海道の完歩 8  白須賀宿 ~ 舞阪宿  私の足跡 75 東海道の完歩 10 掛川宿 ~ 金谷宿  

2011年01月11日

私の足跡 74 東海道の完歩 9  浜松宿 ~ 袋井宿  

 東海道を歩く   9
      
   west[1]
   
 29 浜松宿 → 28 見付宿(見附) → 27 袋井宿
 
  hiroshige042[1]
  29」 濱松宿 「冬枯ノ図」
              杉の大木の根元で暖をとる男たち。手前に松林、遠くに浜松城を望む。  

  hiroshige041[2]
   28」 見附宿 「天竜川図」 
            霧にむせぶ天竜川。手前の人間は川の深さを測っているのだろうか。


  hiroshige040[1]
     27」 袋井宿 「出茶屋ノ図」  
            簡素な出店の茶屋で火をおこす女中と人夫。

  ここで一言
   東海道を歩く「Ⅰ」より 歌川広重の「東海道五十三次」の絵を順次載せてきて、 東海道を歩く「4」「5」「6」では 歌川(安藤)広重について記しました。
 しかし、今年の元日の夕方のBSTVで、天才画家・歌川広重の「東海道五十三次」は司馬江漢の作品の盗作だった?の放送があったのを見た人もいるでしょう。

 私はびっくりしています。

  舞阪宿より、松並木の道を通り、一路東へ。

  途中、熊野神社・諏訪神社・愛宕神社・稲荷神社等の前を通り、浜松宿へ。

  ここ浜松は かつては、6軒もの本陣を抱える東海道の中でも箱根と並んで最大規模の宿場町であった。旅籠の数も100軒近くと、その繁栄ぶりがうかがえる。
  しかし、広重の絵は、その賑わいでなく、街道から外れた冬の枯野の光景である。

  
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でも、今は浜松とその周辺の中心街となり、昔の面影は全くない。
 
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   本陣跡等の碑のみである

 見付宿が近づく。見付宿の名の由来は、京都から下ってここまで来ると初めて富士さんを「見付ける」場所だからこの地名「見付」がついたという。近くに「富士見台」の地名もあるのも納得する。
  
  
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 街道沿いには、今も国府の護りとして建てられた府八幡宮、聖武天皇の命で建てられた国分寺の跡等が点在し、この地方の歴史の中心だったことが分かる。
   
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   金原明善翁生家

   
  IMG_9467 天竜川橋
  
   日本で有数の暴れ川で有名な天竜川を渡ることにする。
   手前の橋は歴史が古く、歩道もなく、危険で渡れそうでないので左手に見える新しい橋へ行く。
  
  IMG_9468 新天竜川橋
   この橋は新天竜川橋で広い歩道もあり、安心して渡れた。

  高野山 東海道 高千穂 真田祭 070

  見付宿の本陣跡

  IMG_9489 宮ノ一色一里塚
  ここ見付宿付近には 一里塚跡が多く残っており、それを保存している
  宮の一色一里塚では 木はないが、小山の塚を残していた。

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  この付近で 東海道を歩く 7 にも記した姫街道も東海道に合流する。
  東海道を歩いているので、姫街道も一度歩いて多くの遺跡を訪ねたいものです。


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  見附と言えば磐田。磐田と云えばジュピロ磐田。一時は全盛の時代があった。
 当時の名選手の中山雅史選手等の足跡が今も残していた。(今年は 復活の兆候がある)
 応援していたチームだ。ガンバレ。  
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   洋風の小学校跡が残されている。


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   松並木を越えて 見付宿を後にした。

 そして、ド真ん中で有名な袋井宿に入る。
 どうして、ド真ん中かというと五十三次のうち、東からも西からも27番目。「東海道のど真ん中」にあたる「袋井宿」。やっと半分かと言って良いか、もう半分かとも思う。

 もう一つの特徴は 東海道で一番「短い宿場町」である。入り口から出口までが約570mだったらしい。今は宿場町の雰囲気は殆ど感じられない。

 現在 町のあちこちに掲げられているキャッチフレーズは「東海道のど真ん中」だ。    
   
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  その他、お菓子・饅頭等にも命名されていた。


   「凧」について

 「遠州の空っ風」といわれる強い風の吹く遠州地方は「凧上げ」が盛んだった。その起源は殿様に男の子が生まれたのが始まりと言われる。
 今も一部の地域で受け継がれている風習が「初凧」だ。端午の節句に、初節句を迎えた子どもの名前と家紋を入れた凧を揚げるというのだ。かつては、長男だけの行事だったが、時代とともに次男以降や女の子にも行われるようになった。

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     江戸時代の凧上げ

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  上の三点の作品は二川宿の歴史資料館に展示されている凧。



  女性の旅 (前号の続き)

 前号でも記しましたが、出女を取り締まるため、江戸時代の女性の旅行は厳しいチェックで大変だった。関所では、人見女という女検査官が通過する女性の旅人を詳細に調べていた。
 怪我の傷跡やホクロの位置までこと細かく調べ、少しでも不審な点があれば厳しい詮議が行われていた。勿論、手形や証文に不備があれば、どんな仔細なことでも頑として通過を許さなかった。
 こうした厳しいチェックを嫌う女性は 夜中に関所を通ったり、案内人を雇って裏道を通り関所破りをする者がいたという。
 新居関所は特に検査が荒々しく厳しいので 高貴な子女達は姫街道をよく利用したという。

 厳しい検査があったが、江戸時代の後半には緩やかになり100日以上の旅行をした女性もいた。
 でも、女性の一人旅は少なかったとある。当時は追剥ぎ暴漢に襲われる危険が今よりずっと多かったからでしょう。
 


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