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2010年11月01日

私の足跡 69 東海道の完歩 4 庄野宿~桑名宿


東海道を歩く 4

 4 45庄野→44石薬師→43四日市→42桑名宿

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   「44」 石薬師宿 「石薬師寺」  宿場町の裏に広がる田んぼでは、収穫を終えた農民が田の整備をしている。

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   「43」 四日市宿 「三重川」  現在「笹井屋」がある場所の近くにあった三重川(三滝川)にかかる三重橋とされる。
     
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    42」 桑名 「七里渡口」   二隻の船が丁度渡し口に到着したところ。
 各回の初めに「東海道中五十三次」の浮世絵をいれてきていますが「東海道中五十三次」について触れておきます。

 「東海道中五十三次」と聞くと、現在の風景より先に、歌川広重による浮世絵を思い浮かべる人も多いだろう。この作品が出版されたのは、1833年(天保4)。その約30年前に十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が刊行されており、全国的の旅ブームの中で大ヒットしたらしい。

 広重は江戸の火消の同心・安藤源右衛門の子として生まれる。そのため、「安藤広重」とも言われた。15歳にして浮世絵師・歌川豊広に入門、20代後半にして家業の火消同心を譲り、画業に専念した。


  この続きは、次回に


 ここ石薬師寺は、庄野宿とともに遅くに宿場町に指定された。(亀山宿と四日市宿の間が長すぎたから)

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 この石薬師寺は真言宗の古刹である。(726年)。嵯峨天皇の勅願所で、元は大伽藍であったというが戦国期に兵火に罹り、現在の堂宇は近世のはじめに再建されたものである。
 
  本尊の石造薬師如来は有名で、弘法大師が巨石に爪で薬師如来の姿を彫りこみ、それが今に伝わる秘仏の本尊だと伝わる。厄除けの神として信仰を集め、有名な寺なので地名の由来ともなっている。

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 宿内には、歌人で国文学者の佐々木信綱の生家があり、その隣には資料館が建てられている。

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 信綱は短歌雑誌「心の花」を主宰し、和歌革新運動の中心となり、昭和12年に第一回文化勲章を受章した。

IMG_4444 小澤本陣跡(石薬師宿)
 宿内の町並みは比較的風情をとどめ、小澤本陣跡などが残されている。

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 この坂道は、「杖衝坂」と呼ばれる急こう配の坂がある。これは、かつて東国平定ののちに伊吹山に向かったヤマトタケルが、山の神との戦いに敗れて傷つき、大和への帰還を目指してここまでたどり着いたものの、弱り切った身体では剣を杖代わりに衝いて上がるのがやっとだった・・・・・・という故事にちなんだ名称だという。
 坂を上り切ったところには、その時ヤマトタケルが流れ出た血を洗い流したと伝わる「血塚社」も。
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IMG_4513 東海道名残の一本松
 往時の東海道を偲ぶことのできる松並木の名残りの一本松
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 ここは東海道と伊勢街道の分岐点で有名な「日永の追分」である。石製の常夜灯、標柱や鳥居が見える。
   
  詳細は下記の「立て札」を見てください。
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 私の好きな作家の一人 「丹羽文雄」 生誕の地とある。
IMG_5659 三ツ谷一里塚跡
 日本各地の街道には、江戸時代は一里塚が完備されていたが今やほんの一部しか残ってなくて、このように一里塚跡とあるのみだ。
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 約1300年前、当地に疫病が流行し、人々が苦しんでいた。弘法大師は、東国からの帰りに此の事を知り、薬師如来を彫り、開眼し祈願した。すると、たちまち夕立の雲の晴れるがように諸人の難病は平癒していった。
 諸人は弘法大師に感謝をするとともに、お堂を建てて、薬師如来を祀ったのが始まりとある。
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 壬申の乱のおり、後の天武天皇がここに滞在したことから天武天皇を祭祀する全国唯一の神社。

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 桑名はまた、城下町でもあった。本格的な城下町の町割は、1601年に桑名藩主となつた本多忠勝のもとで始まった。本格的な城郭だったが、二度の戦災、伊勢湾台風の被害などにより、今ではおうじの面影は残されていません。
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 渡し場近くには常夜灯や鳥居がたっている。常夜灯の役目はわかるが、鳥居がたっているのは、まさに「伊勢参り」の出発点ということで、伊勢国に入ったという実感させる。
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 七里の渡しの跡の説明を読むと良く分かった。本陣2 脇本陣1 旅籠248もあり、当時の人口は1万人越の人が住み、賑わっていたと想像できる。

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 この桑名宿より、宮宿まで海上渡しで東海道上で唯一の海上路。所要時間は約4時間ほど。
 海難事故も多かったので渡しを回避して脇街道を徒歩で往来する人もいたらしい。
 
それに、「七里の渡し」とは言いながら干潮時には沖合を通らねばならず、航海が10里近くになることもあったという。
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 賑わった桑名宿だが、悲しい話もある。それは、18世紀半ばの「宝暦治水」に殉じた薩摩藩士たちである。木曽・長良・揖斐の大河の下流に位置するこの地域は、古くから洪水に苦しめられていた。そして、1753年の大洪水後、幕府は薩摩藩に河川改修工事を命ずる。
 工事は一年あまりで完了したが、そのあまりに過酷な状況に、病死者や切腹自害者
が相次いだ。総奉行・平田ゆきえも、その責任を取って工事終了後に自害している。

 平田はじめ薩摩藩士24名の墓は、近くの海蔵寺につくられている。





  桑名といえば蛤の焼いた「焼き蛤」が有名で、現在も看板を掲げている店が多い。
 それと変わらぬぐらい多いのは佃煮の「時雨蛤」の看板。当時の資料によると「焼き蛤」は その場で楽しんだメニュー。「時雨蛤」のほうは土産物として売られたらしい。



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