2010年10月01日
私の足跡 66 東海道の完歩 1 草津宿~水口宿
![tokaido_hdb_tizu[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/9/d/9d3cd3f6-s.gif)
![west[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/b/cb5c9403-s.jpg)
東海道を歩く 1
2007年は皇女「和宮」が降嫁した中山道の69宿に足跡を残してきた。
2008年は「篤姫」が将軍家に嫁ぐ道の東海道53次宿場を完歩することにした。
今回も中山道と同様 京都から順に歩いたのでなく、季節に応じて(雪を被った富士と桜の花を見た) 又各地の祭(豊橋での手筒花火大会)や行事に合わせて歩いた。
![htm4[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/6/2683a503-s.jpg?9db1ed9d)
京 三条大橋 500kmの東海道のゴールでもあり、出発点でもある三条大橋。
橋の上には、 実にさまざまな人達が描かれている。それぞれの理由で都に到着した人と出て行く人。都の出入り口となる大橋は、今も昔も多くの人の出会いと別れを見つめてきたことでしょう。
![htm8[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/5/b55b0274-s.jpg?3c90bcc8)
「53」 大津宿 「走井茶屋」
第 Ⅰ 回 52草津宿 → 51石部宿 → 50水口宿

「52」 草津宿 「名物立場」 次の大津宿に向かう途中の「矢倉の立場」にある名物「姥が餅」を売る茶屋である。大きな荷物を担いだ人足と早駕籠がすれ違う。
由来は 佐々木義賢が織田信長に滅ぼされた際、義賢の血を引く子を託された乳母が、郷里の草津に戻り、養育費のために餅をつくって街道筋で売ったのが始まりとされる。
一説には徳川家康や松尾芭蕉も食したとされ、与謝野蕪村は俳句に詠んで褒め称えたという。
![htm12[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/1/f19857d3-s.jpg?1db5da82)
「 51」 石部宿 「目川の里」 この目川の名物は、地元の食材を使った菜飯。そして、豆腐に味噌を塗って焼いた「田楽」。此の絵は 元伊勢屋だといわれる。
![800px-Tokaido50_Minakuchi[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/8/d8d82792-s.jpg?97d62c2f)
「50」 水口宿 「名物干瓢」 1682年の加藤秋友より特産品として、干瓢を進めた。夕顔を栽培し、それを薄い干瓢にすることに成功し、今も水口の有力な特産物の一つである。
本来なら京都の三条から記すのが当然だが、前回の中山道とは草津宿まで同じ道なので割愛します。(詳細は 私の足跡 54 中山道をゆく 1)
草津宿と言えば、当時の京・大坂と江戸を結ぶ二つの(東海道・中山道)大動脈の追分(草津追分)なので人通りも多く、大変賑わったと記されている。

京・大坂と江戸を結ぶ二つの(東海道・中山道)大動脈の追分道しるべ等も見事な物が残っている。
宿場町としての最大のシンボルともいえる本陣が2軒あったが、現存するその一つ1200坪の広大な敷地を誇る田中七左衛門本陣に寄る。
宿泊者名簿には、吉良上野介や浅野内匠頭、皇女和宮,シーボルト、土方歳三などそうそうたる名前がある。勿論、参勤交代時に各国の大名行列で賑わったとある。

現存している本陣では最大級の建物だそうです。1998年より一般公開している。

長い畳み廊下が幾つもの部屋を通り越し、上段の間まで続いている。

草津宿に別れを告げ、東進すると草津川が天井川となり、道路の上を流れている。
街道筋は、所々に当時の面影を残すものがある。

田楽の発祥の地は ここ栗東市ですとある。

当時旅人は 名物の田楽と菜飯を食べるのを楽しみに旅をしたのでしょう。
上の写真のような名物食堂が3軒あったというが今は碑があるのみである。
![htm12[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/1/f19857d3-s.jpg?1db5da82)
今は当時の面影はないが、広重の絵の舞台である。

善性寺の門前に こんな説明板もあった。

応仁の乱後、衰えた幕府の力を強めるため、当時の将軍・足利義尚は2年間当地で頑張るも、病のため当地で無念の死を遂げたとある。後に、この地にたくさんの句碑が建てられている。
更に進むと、徳川家康が名付け親となったと伝わる道中薬・「和中散」を製造・販売していた「和中散本舗」ある。

現在の建物は1624~43年に建てられたものである。

重厚な建物であることが良く分かる。お陰で筑後400年近く経過してもびくともしていない。
店舗の他、大名や公家の休憩用本陣として使われた座敷などがそのまま残されている。

「京立ち石部泊り」の言葉があるように、京から東海道を下る旅人の多くが最初の宿をとった石部宿。
ここも、伊勢神宮参詣の道への分岐点だったから尚一層賑わったところだが、現在はその面影が殆どない。

でも、町の人々が創意工夫をしてくれて私達を楽しませてくれているのがうれしい。

通りには 昔からの造り酒屋「御代榮」が営業していた。

小さな公園の中に碑があるので近づき下の写真の記事を見てみると百姓一揆があり、沢山の犠牲者が出たと書いてある。


日本各地に弘法大師にまつわる話が何百とあるが、ここにも大師が地元の人にもらった箸を土にさしておいたのが、杉の大木になった・・・・・・・・と書いてある。


現在は大きな川には今ではりっぱな橋が架っているが、江戸時代には幕府の都合で渡し船が長い間活躍していた。その時の旅人の便利を考え大きな常夜灯を造った。それが今も残っている。私も川の常夜灯がこんなに大きく立派なのでビックリした。


水口には、小さいが城郭がある。これは徳川家光が京都に用がある時に宿泊するために造ったが一度も使用しなかったらしい。