2010年09月01日
私の足跡 63 中山道をゆく 10 深谷宿~日本橋
私の足跡 63
中山道をゆく 10 深谷宿~日本橋 約45km

青色の線は前回までの部分 赤色の線は今回の部分
いよいよ埼玉県に入る。この付近より、都心が近付き開発が進み、中山道の昔の面影を残している所がめっきり減り、遺跡を町の人に聞いても知らないと答える人が多くなった。
前回の最後の宿「深谷宿」を出て、「熊谷宿」へ。
熊谷宿は、熊谷次郎直実の出生地で、ここにある高城神社が熊谷氏の氏神。熊谷寺には直実の墓と伝えられる宝筺印塔がある。熊谷次郎直実と言えば、源平合戦の時の平敦盛との悲話を思い出す。直実のような優しい心を全ての人々が持てたらといつも思っている。
二人(直実と敦盛)の霊は 真言宗の聖地・弘法大師が入定されている高野山の奥の院で二人が並んで供養塔として祀られている。今までに、二人はどんな話をしているのかとお参りするたびに思っている。

熊谷はかつて忍藩(現行田市)領で、忍陣屋があった。今でも陣屋通りがあり、陣屋跡がある。
次は、鴻巣宿へ。ここは、江戸時代に京都の伏見人形師が移り住み、作ったのが始まりで、その後 豪華な衣装をつけた人形が作られるようになり、今でも人形店が軒を並べている。
次は、桶川宿である。「桶川臙脂」の産地で、その紅花の大半は中山道を通って京都に運ばれた。

街道沿いには、古い家もかなりある。紅花を大規模に扱っていた商家。


この上の写真は 桶川本陣跡で大きな門がある。何度か火災に遭ったそうだが、当時の本陣遺構の一部が現存している。下の写真を参照。
この本陣は、代々府川家が勤め、加賀・前田家をはじめとする参勤交代の大名たちを迎え、1861年の皇女和宮の江戸下向の時にもここに宿泊されたとある。
次の「上尾宿」は都市化が進み、昔の面影を残す建物が少なかった。
次の宿は「大宮宿」。江戸時代は、脇本陣の数が9で数では中山道では一番多い。

今は、人と車でごった返す街道沿いには、ビルの谷間に、瓦屋根の履物屋や八百屋等も見える。
今の浦和は大都市だが、浦和宿の江戸期の人口は現在の埼玉県下9宿中の7番目であった。


浦和宿では、二と七の日に市が立ち賑わっていた。市場通りに野菜を売る女性のブロンズ像があり、当時の風情を味わうのに役立った。
次の「蕨宿」は 近代化された町の中にも風情のある家もチラホラとある。

蕨市立歴史民俗資料館と蕨本陣がある。この本陣跡は、一の本陣とよばれた岡田加兵衛の本陣で、昭和48年に建てられた。内部には宿泊した諸大名の一覧表があるらしい。
そして、県境の荒川を越えると東京に入る。昔は、江戸を護るために橋をかけずに、戸田の渡しを渡った。
そして、しばらく歩くと有名な「縁切り榎」がある。

小さな祠も見られ、奉納された幟がたくさん風にはためいている。江戸時代、この辺りには樹齢数百年の立派な榎が生い茂り、枝が道を覆うように張っていた。いつの頃からか嫁入りや婿入りの行列がこの下を通ると、不縁になると恐れられ、この木を誰言うことなく「縁切り榎」と呼んだ。
幕末に和宮が徳川家茂に降嫁の時は榎にコモを捲かれたという。
板橋にある橋は江戸時代のは、長さ9間・幅3間の緩やかな太鼓橋だった。その後、何度か建て替えたが広重の浮世絵のような形の橋であったが、昭和47年にはコンクリート橋になった。でも、欄干に木目模様を施し、宿場の雰囲気に合わせている。
中山道に旅立つ人は、わざわざ日本橋に行く人もなく、板橋から出発し、見送る人も迎える人もここまでが普通であった。したがって、酒楼や茶店も多くあり、遊女もいて賑わいは中山道第一であったらしい。

板橋宿は中山道最初の宿である。江戸四宿の一つで、東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、奥州街道の千住とともに有名である。でも、都市化が進むにつれて、当時の面影がなく、この本陣跡もマップにあるのて゛地元の人らしい人達に尋ねたがわからず、5人目位でやっとわかった。無理もなく、入り組んだ玄関脇にあった。
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平尾の一里塚跡の近くに幕末に活躍し有名な新撰組の隊長「近藤 勇」の墓所があり、お花が供えてあった。
江戸六地蔵は昔から有名だが、最近賑やかになった巣鴨地蔵通りの商店街を歩いていると「おばあちゃんの原宿」と言われる商店街を歩いて日本橋へ。
![04[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/9/f9317ad6-s.jpg)
![05[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/4/c4d94ebe-s.jpg)
![24[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/9/b984a1ea-s.jpg)
、高岳寺の「とげ抜き地蔵」があった。


この寺は、1891年に下谷から移って来たので古くはないが線香の煙が絶えないほど信者が多い。巣鴨地蔵通りの名も、この地蔵さんからきているらしい。本尊の御影の護符を身体の痛む部分に貼るか、水に溶かして飲むと、痛みがトゲを抜くように引くと言われている。丁度熱心な信者さんが痛みを直していただいたお礼にお参りし、地蔵さんの身を清めていた。
暑い日差しの中を歩いて日本橋へ向かう。

さらに進むと、加賀前田家の上屋敷の跡に建てた東京大学の敷地にきた。有名な東大の赤門は、前田家の御守殿門である。

休憩を兼ねて、見学に入る。この時期は夏休みで学生はまばらである。
しばらく歩くと、間もなく、神田明神と湯島聖堂がある。

神田明神の境内は広くて立派だった。ここまでの無事にこられたことのお礼をいう。
秋葉原の電気街を抜けると日本橋が目の前である。

江戸時代は この辺りには伊勢・近江・京都に本店を置く上方商人の「江戸店(えどだな)」が並んでいたらしい。その代表的な呉服屋の大店が「三井越後屋」、現在の「三越」である。
これ以外にも、幕府は この付近に京都方面から商人を呼んで商いの中心地として賑わしたとある。

やっと日本橋に到着。この橋(上の高架橋ではない)は、今日でも国道の基点となっている。
木造だった日本橋は 1657年の大火から1858年の約200年の間に数十回も炎上している。橋は何度も架け替えられ、現在の橋は1911年に完成した。

そして、この橋の中央部の道路に埋め込まれている「日本道路元標」を見るために、車の通行の隙間を通って行き、写真撮影。

日本道路元標を基準にした日本各地への里程標である。(大阪市までの距離は中山道ではない)
この中山道は 温暖な太平洋側を行く東海道に対して、中央山岳地帯を進むのでそれだけ難所も多く、冬は雪に見舞われる過酷な道だったが、川止めがないのが利点とされ、特に女性は中山道を利用する事が多かったと言います。
山城の国の三条大橋から近江・美濃・木曽・信濃・上野(こうずけ)を経て武蔵の国の日本橋まで、百三十五里三十二丁(約533.9km)、中山道69宿。東海道よりも約40km長い道程を夜行列車・バスで行った日等も入れ、約30日の日数をかけてやっと辿り着いた。
その間、仲間の励ましや 地元の人達の暖かい励ましを頂き、無事歩き終える事ができました。感謝・感謝。
仲間とは、来年は東海道の踏破をするんだと約束して、2007年を終えた。