2010年08月20日
私の足跡 62 中山道をゆく 9 軽井沢宿~深谷宿
私の足跡 62
中山道をゆく 9 軽井沢宿~深谷宿 約70km

青線は是までに公開した所、赤線は今回公開した所
大阪から軽井沢宿迄夜行バスで行く。

早朝、バスを降り、ひっそりとした昔の面影のない軽井沢宿を歩く。

教会の前に軽井沢開発の恩人、英国人宣教師アレキサンダー・ショーの記念碑がある。
中山道隋一の難所といわれた上信越国境の碓氷峠を越える。これで信濃路を終わったことになる。


峠には、熊野神社があり、傍に力餅屋がある。早速注文をしてご馳走になる。気さくなご夫婦が経営をしていて、ポラロイド写真を撮ってその写真を頂く。そして、新年には年賀状まで送ってくれた。

峠を過ぎれば下り坂 「座頭ころがし」 赤土で小石がゴロゴロ。

「覗」という坂本宿を見下ろせ、よく見える所。「坂本や袂の下の夕ひばり」と一茶が詠んだ。
この付近に「横川」という地名がある。横川といえば、駅前に昔の鉄道ファンには懐かしい「峠の釜飯」の店がある。また、鉄道博物館もある。
![pic23b[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/d/cd6195cf-s.jpg)
現在、新幹線が走り、廃線になっている「めがね橋」も見に行く。明治25年に完成し、芸術と技術が融合した美しいレンガ造りのアーチ式で川底から31mの高さがある。このような橋梁は、第2橋梁から第6まての5基が残っており、国の重要文化財となって観光スポットとして最近人気が上がっている。
坂本宿は本陣2 脇本陣2 旅籠40軒と宿泊施設が多いが、これは この宿の前後に峠や関所を控え、旅装を解く人達が多かったから。


昔のままの門構えの本陣・永井家や連子・格子の家が残っているが昔の賑わいがない。

碓氷関所跡(横川関所跡)。東海道の箱根の関所とともに、「入り鉄砲に出女」を取り締まった重要な関所であった。設置は平安時代といわれる。ここに設けられたのは1622年である。今は関所資料館になっている。その資料館の前に、旅人が手形の改めを受けると、お辞儀をして手をついた「お辞儀石」も残っている。

五料村茶屋本陣の名主屋敷・中島家がある。茶屋本陣は、参勤交代の大名や公家の休憩所で、宿泊施設ではないので、必要な時には名主の居宅等が選ばれた。

五料の夜泣き地蔵がある。昔、馬方が荷物のバランスをとるため落ちていた地蔵の首を馬の背に付けて深谷まで行き、用済みとなった地蔵の首を道端においてきたところその首が夜な夜な「五料恋しや」と鳴き声を発したので深谷の人が届けて胴の上に戻したと言う話がある。

松井田宿は あまり遺構はないが本陣跡や脇本陣跡がある。
江戸初期の寺や神社が多く残っている。上の寺は見事な不動寺の仁王門。

特異な山容の妙義山が近づいてきた。
安中宿

安中宿本陣跡の碑

旧安中藩 郡奉行役宅

復元された旧安中藩の屋敷跡

板鼻宿の本陣跡の碑

「かねつ橋供養塔」がある。旅人のために寒念仏でお金を集めて石橋を改修し、後年、木島某が亡父の遺志でまた改修したという曰くつきの塔である。

高崎は井伊氏の城下町として栄えた。
高崎宿は 城下町だったので本陣・脇本陣は置かれなかった。ただし旅籠は15軒あった。

倉賀野宿の本陣跡の碑

倉賀野宿の脇本陣跡

倉賀野追分は 日光例弊使道と中山道の分岐点。「従是右江戸道、左日光道」の道標と常夜灯がある。常夜灯には寄進者の名前が約300名。

新町宿の本陣跡の碑と芭蕉の句碑がある。

本庄宿の本陣跡の門。

深谷宿の本陣跡の碑
中山道をゆく 9 軽井沢宿~深谷宿 約70km

青線は是までに公開した所、赤線は今回公開した所
大阪から軽井沢宿迄夜行バスで行く。

早朝、バスを降り、ひっそりとした昔の面影のない軽井沢宿を歩く。

教会の前に軽井沢開発の恩人、英国人宣教師アレキサンダー・ショーの記念碑がある。
中山道隋一の難所といわれた上信越国境の碓氷峠を越える。これで信濃路を終わったことになる。


峠には、熊野神社があり、傍に力餅屋がある。早速注文をしてご馳走になる。気さくなご夫婦が経営をしていて、ポラロイド写真を撮ってその写真を頂く。そして、新年には年賀状まで送ってくれた。

峠を過ぎれば下り坂 「座頭ころがし」 赤土で小石がゴロゴロ。

「覗」という坂本宿を見下ろせ、よく見える所。「坂本や袂の下の夕ひばり」と一茶が詠んだ。
この付近に「横川」という地名がある。横川といえば、駅前に昔の鉄道ファンには懐かしい「峠の釜飯」の店がある。また、鉄道博物館もある。
![pic23b[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/d/cd6195cf-s.jpg)
現在、新幹線が走り、廃線になっている「めがね橋」も見に行く。明治25年に完成し、芸術と技術が融合した美しいレンガ造りのアーチ式で川底から31mの高さがある。このような橋梁は、第2橋梁から第6まての5基が残っており、国の重要文化財となって観光スポットとして最近人気が上がっている。
坂本宿は本陣2 脇本陣2 旅籠40軒と宿泊施設が多いが、これは この宿の前後に峠や関所を控え、旅装を解く人達が多かったから。


昔のままの門構えの本陣・永井家や連子・格子の家が残っているが昔の賑わいがない。

碓氷関所跡(横川関所跡)。東海道の箱根の関所とともに、「入り鉄砲に出女」を取り締まった重要な関所であった。設置は平安時代といわれる。ここに設けられたのは1622年である。今は関所資料館になっている。その資料館の前に、旅人が手形の改めを受けると、お辞儀をして手をついた「お辞儀石」も残っている。

五料村茶屋本陣の名主屋敷・中島家がある。茶屋本陣は、参勤交代の大名や公家の休憩所で、宿泊施設ではないので、必要な時には名主の居宅等が選ばれた。

五料の夜泣き地蔵がある。昔、馬方が荷物のバランスをとるため落ちていた地蔵の首を馬の背に付けて深谷まで行き、用済みとなった地蔵の首を道端においてきたところその首が夜な夜な「五料恋しや」と鳴き声を発したので深谷の人が届けて胴の上に戻したと言う話がある。

松井田宿は あまり遺構はないが本陣跡や脇本陣跡がある。
江戸初期の寺や神社が多く残っている。上の寺は見事な不動寺の仁王門。

特異な山容の妙義山が近づいてきた。
安中宿

安中宿本陣跡の碑

旧安中藩 郡奉行役宅

復元された旧安中藩の屋敷跡

板鼻宿の本陣跡の碑

「かねつ橋供養塔」がある。旅人のために寒念仏でお金を集めて石橋を改修し、後年、木島某が亡父の遺志でまた改修したという曰くつきの塔である。

高崎は井伊氏の城下町として栄えた。
高崎宿は 城下町だったので本陣・脇本陣は置かれなかった。ただし旅籠は15軒あった。

倉賀野宿の本陣跡の碑

倉賀野宿の脇本陣跡

倉賀野追分は 日光例弊使道と中山道の分岐点。「従是右江戸道、左日光道」の道標と常夜灯がある。常夜灯には寄進者の名前が約300名。

新町宿の本陣跡の碑と芭蕉の句碑がある。

本庄宿の本陣跡の門。

深谷宿の本陣跡の碑