2010年08月10日
私の足跡 61 中山道をゆく 8 和田宿~軽井沢宿
私の足跡 61
中山道をゆく 8 和田宿~軽井沢宿 48km

青線は既に公開した所 赤線は今回公開する所

和田宿は1861年3月、大火で大半を焼失した。しかし、皇女和宮の将軍家への降嫁が同年11月と決まり、そしてその東下の際の宿泊地として和田宿がきまっていたので、幕府は全力を挙げて宿場復興につとめた。現在残っているかつての建物はその折建築されたものである。

河内屋。 出桁造り出格子の二階建てで、間口は八間半(約15m) 奥行十一間半(約20m)の堅牢な造りで、上客向けの旅籠であったらしい。現在「歴史の道資料館」として公開されている。

和田宿は交通の便の悪いところであったが故に貴重な歴史遺産を多く残している。そして、地元の人もそれを保存することに努力をしていただいているので、うれしいことです。

長井氏の和田宿本陣の御入門 中の居住棟は復元されて公開されている。

脇本陣の翠川家

道中、道祖神に見守れながら長久保宿に向かう。

この地方独特の出桁造りの「一福処濱屋」の大きな建物がある。詳細は下の説明板を。


一階の土間から二階の全ての部屋まで当時の貴重な物を見学できた。


屋根門を持った本陣跡の石合家。この家の家屋は中山道中の最古のものだといわれている。現在居住していて中を見学できなかった。 詳細は下記の標識を。


長久保宿を出て、芦田宿に向かう。

芦屋宿までの間に笠取峠がある。


笠取峠では、松並木があり、石畳の遊歩道も整備されていた。幕府は中山道整備のため小諸藩に命じて芦田宿から笠取峠まで 松の植樹に協力させ、管理も命じた。その並木道も今は約800mしか残っていないが、路傍には石仏もたたずみ、、かつての街道をしのばせる格好のコースとなっている。
芦田宿に到着。




問屋兼本陣であった建物が残っている。贅をつくした建物で見事というばかりであった。
望月宿との間に茂田井間の宿があるが道があまりにも狭かったので、主要道は避けて迂回したため、集落内の家屋がそのまま残され、見事である。

望月宿には 立派な歴史民俗資料館があった。
八幡宿には 立派な本陣跡

八幡宿には 立派な本陣跡や脇本陣跡がある。大きな地名にもなっている八幡神社がある。
細かい彫刻を施した随身門は素晴らしかった。

御馬寄の大日像の前を通り、塩名田宿へ


古い屋並みも残っていた。本陣は2軒。

千曲川につきあたり、これを渡らなければならない。今は橋があるが、昔は徒歩渡し、舟渡し等があったという。船を繋いでおく岩があるというが定かでなかった。

岩村田宿は内藤氏一万五千石の城下町でもあった。旅人は城下町の堅苦しさを嫌ったので旅籠は少なかった。本陣・脇本陣もなかったとある。珍しい。
今は佐久市の中心町として賑わっていた。

重要文化財になっている駒形神社
次の小田井宿へ向けて出発。
小田井宿は、時の流れから取り残されたような町です。出梁造り縦格子の家が多く残っていて、風情のある。

本陣 詳細は下記の標識を。


脇本陣 他に上の問屋・下の問屋などたくさん残っていた。

小田井宿から、しばらく進むと枝垂れ桜の植わった御代田の一里塚がある。
前方に 浅間山を眺めながら追分宿へ。

追分宿の地名ともなった北国街道と中山道の分去れ。

復元された高札場と右端は本陣のあった場所。

堀辰雄や立原道造らの息吹が感受できる抒情の地である。
また、松尾芭蕉の句碑「吹き飛ばす石も浅間の野分けかな」や貝原益軒もこのあたりのことを書いている。
追分宿を出ると、立派な一里塚があったがこれは復元されたものらしい。
沓掛宿は 本陣もなく、本陣跡の碑のみである。宿場町としてかつての賑わった面影がなかった。
沓掛の地名もなく、駅名も「沓掛駅」から「中軽井沢駅」になっていた。

長谷川 伸 作の「沓掛時次郎」の碑が長倉神社に残っている。
千両万両枉げない意地も、人情搦めば 弱くなる 浅間三筋の煙りの下で 男 沓掛 時次郎
ご存知 「剣をとってはめっぽう強いが 義理と人情にはからっきし弱い」 架空の人物・沓掛時次郎の活躍した土地だがこれを知っている人は殆どいないのではないかと思っている。
軽井沢宿は昔の面影は殆ど残っていない。
今は、別荘地として有名になり、我が国の最高の高級避暑地となった。
中山道をゆく 8 和田宿~軽井沢宿 48km

青線は既に公開した所 赤線は今回公開する所

和田宿は1861年3月、大火で大半を焼失した。しかし、皇女和宮の将軍家への降嫁が同年11月と決まり、そしてその東下の際の宿泊地として和田宿がきまっていたので、幕府は全力を挙げて宿場復興につとめた。現在残っているかつての建物はその折建築されたものである。

河内屋。 出桁造り出格子の二階建てで、間口は八間半(約15m) 奥行十一間半(約20m)の堅牢な造りで、上客向けの旅籠であったらしい。現在「歴史の道資料館」として公開されている。

和田宿は交通の便の悪いところであったが故に貴重な歴史遺産を多く残している。そして、地元の人もそれを保存することに努力をしていただいているので、うれしいことです。

長井氏の和田宿本陣の御入門 中の居住棟は復元されて公開されている。

脇本陣の翠川家

道中、道祖神に見守れながら長久保宿に向かう。

この地方独特の出桁造りの「一福処濱屋」の大きな建物がある。詳細は下の説明板を。


一階の土間から二階の全ての部屋まで当時の貴重な物を見学できた。


屋根門を持った本陣跡の石合家。この家の家屋は中山道中の最古のものだといわれている。現在居住していて中を見学できなかった。 詳細は下記の標識を。


長久保宿を出て、芦田宿に向かう。

芦屋宿までの間に笠取峠がある。


笠取峠では、松並木があり、石畳の遊歩道も整備されていた。幕府は中山道整備のため小諸藩に命じて芦田宿から笠取峠まで 松の植樹に協力させ、管理も命じた。その並木道も今は約800mしか残っていないが、路傍には石仏もたたずみ、、かつての街道をしのばせる格好のコースとなっている。
芦田宿に到着。




問屋兼本陣であった建物が残っている。贅をつくした建物で見事というばかりであった。
望月宿との間に茂田井間の宿があるが道があまりにも狭かったので、主要道は避けて迂回したため、集落内の家屋がそのまま残され、見事である。

望月宿には 立派な歴史民俗資料館があった。
八幡宿には 立派な本陣跡

八幡宿には 立派な本陣跡や脇本陣跡がある。大きな地名にもなっている八幡神社がある。
細かい彫刻を施した随身門は素晴らしかった。

御馬寄の大日像の前を通り、塩名田宿へ


古い屋並みも残っていた。本陣は2軒。

千曲川につきあたり、これを渡らなければならない。今は橋があるが、昔は徒歩渡し、舟渡し等があったという。船を繋いでおく岩があるというが定かでなかった。

岩村田宿は内藤氏一万五千石の城下町でもあった。旅人は城下町の堅苦しさを嫌ったので旅籠は少なかった。本陣・脇本陣もなかったとある。珍しい。
今は佐久市の中心町として賑わっていた。

重要文化財になっている駒形神社
次の小田井宿へ向けて出発。
小田井宿は、時の流れから取り残されたような町です。出梁造り縦格子の家が多く残っていて、風情のある。

本陣 詳細は下記の標識を。


脇本陣 他に上の問屋・下の問屋などたくさん残っていた。

小田井宿から、しばらく進むと枝垂れ桜の植わった御代田の一里塚がある。
前方に 浅間山を眺めながら追分宿へ。

追分宿の地名ともなった北国街道と中山道の分去れ。

復元された高札場と右端は本陣のあった場所。

堀辰雄や立原道造らの息吹が感受できる抒情の地である。
また、松尾芭蕉の句碑「吹き飛ばす石も浅間の野分けかな」や貝原益軒もこのあたりのことを書いている。
追分宿を出ると、立派な一里塚があったがこれは復元されたものらしい。
沓掛宿は 本陣もなく、本陣跡の碑のみである。宿場町としてかつての賑わった面影がなかった。
沓掛の地名もなく、駅名も「沓掛駅」から「中軽井沢駅」になっていた。

長谷川 伸 作の「沓掛時次郎」の碑が長倉神社に残っている。
千両万両枉げない意地も、人情搦めば 弱くなる 浅間三筋の煙りの下で 男 沓掛 時次郎
ご存知 「剣をとってはめっぽう強いが 義理と人情にはからっきし弱い」 架空の人物・沓掛時次郎の活躍した土地だがこれを知っている人は殆どいないのではないかと思っている。
軽井沢宿は昔の面影は殆ど残っていない。
今は、別荘地として有名になり、我が国の最高の高級避暑地となった。
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この記事へのコメント
1. Posted by 北口貞夫 2010年08月18日 10:46
中山道の歴史や風景を楽しませていただいています。58番では馬篭宿の夕景になつかしさとやすらぎを覚えました。ありがとうございます。
私どもの四国のほうは、森先生のブログでおわかりのようにようやく足摺岬を回ってきたところで、いよいよ次回から伊予の国にはいります。先生の一日40Kmを超える速足は毎回三人の話題に上るのですが、我々(特に私)の鈍足では88番まで行き着けるか心配しています。
酷暑の候、御身お大切に。
私どもの四国のほうは、森先生のブログでおわかりのようにようやく足摺岬を回ってきたところで、いよいよ次回から伊予の国にはいります。先生の一日40Kmを超える速足は毎回三人の話題に上るのですが、我々(特に私)の鈍足では88番まで行き着けるか心配しています。
酷暑の候、御身お大切に。