2010年07月12日
私の足跡 57 中山道をゆく 4 太田宿~中津川宿
お詫び
永らく記事を公開出来ずにいて、皆様にご心配とご迷惑をおかけしましたことをお詫び致します。
その理由は、ブログの会社がドリコムからライブドアーに変わった時に手違いが起こり、トラブルに巻き込まれ復旧までに時間がかかってしまったのです。
名誉挽回のために公開の回数を増やし、内容も充実しますのでよろしくお願いします。
私の足跡 57
中山道をゆく 4 51「太田宿 」 ~ 45「中津川宿」 約55km
青い線は既に公開している部分 赤い線は今回公開する部分
太田宿より、約8kmで伏見宿に着く。途中、季節はずれで見られなかったが
有名な「日本ライン下り」の川の堤防を通った。
その後は、交通量の多い国道を通って伏見宿へ。
伏見宿は、町の中を国道が通っているので昔の遺跡を残す面影は殆んどなかった。
目についたのは 公民館前の本陣跡だった。
伏見宿からしばらく国道を通り、4km先の「御嵩宿」に到着。
御嵩宿は願興寺を中心に栄えたとある。この寺は平安期の開創の古刹で
「蟹薬師」とも言われ、重文級の仏様が多いとある。
今後の旅の安全をお祈りをして出発する。
御嵩宿を出て、しばらくすると和泉式部の墓がある。
この付近より山間部に入り、坂道も多くなってきた。急坂なので牛の鼻が地面にこすり、鼻が欠けるから「牛の鼻かけ坂」とか 旅人が自らを元気付けるために歌を唄ったという「謡坂」とかがある。
その外に、「耳神社」とか「一呑の清水」等もある。
また、 約20年ほど前に見つかった「隠れキリシタンのマリア像」等もあり、
「細久手宿」までの約18km楽しく通れた。
細久手宿は 名前のように街道筋に沿った細長い宿である。
あまり古い建物が残っていない宿場での中で、目を引くのは今も旅館として営業を続けている旅籠の「大黒屋」である。当時旅籠でありながら尾張藩指定の本陣で,卯達のある外観から上段の間の残る内部まで当時の雰囲気が残している。女将さんも気さくな人で内部も見学させてくれた。このような旅館に泊まり、当時の雰囲気を味わってみたいものだ。
この宿より次の大くて宿までは、6kmだが、その少し前から有名な「琵琶峠」に入る。標高540mである。
この石畳は、日本一長いとも言われている。明治以降。埋もれていたが、昭和45年に発見され、現在の形になっている。石の大きいのが特徴で2m近くもあるのもある。
この峠には、和の宮の歌碑やいくつかの文学碑がある。後方のお椀のような小山は一里塚跡である。
大くて宿には、神社の樹齢1300年と推定される巨樹があり、見事なものだ。
それと石段から 門・建物に至るまで当時の面影を残している脇本陣が印象に残っている。
いよいよ「十三峠」という登りの始まりです。
大くて宿から次の大井宿までは14kmもあり、その上に「十三峠」というアップダウンの多い道である。
途中に三城峠・乱坂・平六坂・紅坂などの坂を登ったり、下ったりしていると西行塚が見えた。西行の墓といえば大阪の河内の弘川寺が有名だがここにもある。
西行塚から2kmで大井宿に着く。ここは恵那市の中心地である。
大井宿には、六ヶ所の枡形があり、昔の面影が多く残り、上の写真は本陣跡で表門と庭園しか残っていないが、りっぱな門構えは充分な威容を誇っている。
また、疫病などが宿内に入ってこないようにということで石仏群があったり、また高札場もある。
大井宿から10kmで中津川宿に到着。
当時から経済の中心地で、今も当時の面影をたくさん残していた。楽しいひと時を過ごせた。