2010年04月06日
私の足跡 54 中山道を歩く 1
4月1より、私のブログがライブドアに変更したので、しばらくブログを公開することが出来ず、迷惑をかけましたことを深謝申し上げます。今後は、皆さんに喜んでもらえるようなブログになるよう努力します。

2008年3月よりその年の年末までに延べ約30日をかけて京都の三条大橋から江戸の日本橋までの534km・69宿を歩いた。皇女・「和の宮」と同じように「東くだり」で行ったが季節や行事により順には行かなかった。3年前の記事なので、記憶も薄れて資料も乏しいので内容が希薄にならないように努めます。

中山道を歩く 1 三条大橋 ~ 67宿「守山宿」 約31km

鯖街道と同じように「高山彦九郎」氏に見送りをしてもらい長い旅の出発をする。

しばらく歩くと、亀水不動があり、亀の口から井戸水が落ちていた。

峠上には「逢坂の関跡」の碑があり、これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関 と蝉丸が詠んだ逢坂の関である。古来より多くの旅人がここで出会い、すれ違い、そして別れていったのだろう。


蝉丸神社上社と下社があった。祭神の蝉丸は謎の多い人物だが、盲目の琵琶の名手であったと言われ、百人一首にも歌を残す歌人としても知られている。

京都から10km少しで大津に着く。大津には 大津事件の碑がある。1891年来日中のロシアの皇太子に警備の巡査が切りつけた事件。

少し行くと木曾義仲と松尾芭蕉が眠る義仲寺がある。平氏を破って入京しながら義経らに討たれた悲運の武将・義仲。彼の葬られたこの地に側室・巴御前が庵を結んだことから寺は巴寺ともよばれていたが、後に義仲寺となった。
芭蕉は、義仲を偲んで何度もここに宿泊し、大阪で没する時も「骨は木曾塚(義仲寺)に」との遺言を残し、この地に葬られたと言う。

大津から約15kmで草津宿です。東海道と中山道の分岐の追分である。二つの街道の合流する草津宿は、規模も大きく、本陣2 脇本陣2 旅籠70軒余を擁した。追分の近くには、その本陣の一つが当時の姿をほぼとどめたまま公開している。立派な構えの門もある。

現存する本陣としては、最大級といわれるだけあって内部も広く、上段の間や湯殿、広間など一通り見るだけでもかなりの時間を要した。でも、価値ある時間であった。



「守山宿」が近づくと、均整のとれた近江富士と呼ばれる三上山が見えてきた。宿場内には古い家並みが比較的残っている。ここは 健脚の人は「京発ち 守山泊まり」で宿泊地として賑わったらしい。

2008年3月よりその年の年末までに延べ約30日をかけて京都の三条大橋から江戸の日本橋までの534km・69宿を歩いた。皇女・「和の宮」と同じように「東くだり」で行ったが季節や行事により順には行かなかった。3年前の記事なので、記憶も薄れて資料も乏しいので内容が希薄にならないように努めます。

中山道を歩く 1 三条大橋 ~ 67宿「守山宿」 約31km

鯖街道と同じように「高山彦九郎」氏に見送りをしてもらい長い旅の出発をする。

しばらく歩くと、亀水不動があり、亀の口から井戸水が落ちていた。

峠上には「逢坂の関跡」の碑があり、これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関 と蝉丸が詠んだ逢坂の関である。古来より多くの旅人がここで出会い、すれ違い、そして別れていったのだろう。


蝉丸神社上社と下社があった。祭神の蝉丸は謎の多い人物だが、盲目の琵琶の名手であったと言われ、百人一首にも歌を残す歌人としても知られている。

京都から10km少しで大津に着く。大津には 大津事件の碑がある。1891年来日中のロシアの皇太子に警備の巡査が切りつけた事件。

少し行くと木曾義仲と松尾芭蕉が眠る義仲寺がある。平氏を破って入京しながら義経らに討たれた悲運の武将・義仲。彼の葬られたこの地に側室・巴御前が庵を結んだことから寺は巴寺ともよばれていたが、後に義仲寺となった。
芭蕉は、義仲を偲んで何度もここに宿泊し、大阪で没する時も「骨は木曾塚(義仲寺)に」との遺言を残し、この地に葬られたと言う。

大津から約15kmで草津宿です。東海道と中山道の分岐の追分である。二つの街道の合流する草津宿は、規模も大きく、本陣2 脇本陣2 旅籠70軒余を擁した。追分の近くには、その本陣の一つが当時の姿をほぼとどめたまま公開している。立派な構えの門もある。

現存する本陣としては、最大級といわれるだけあって内部も広く、上段の間や湯殿、広間など一通り見るだけでもかなりの時間を要した。でも、価値ある時間であった。



「守山宿」が近づくと、均整のとれた近江富士と呼ばれる三上山が見えてきた。宿場内には古い家並みが比較的残っている。ここは 健脚の人は「京発ち 守山泊まり」で宿泊地として賑わったらしい。