2015年04月
2015年04月30日
高野山開創1200年祭に参加
高野山開創1200年祭に参加
弘法大師空海が816年に高野山に真言密教の道場を開いて 今年で1200年。4月2日から5月21日まで高野山内で盛大に催しが行われている。
今回 地元の私は 初日の六日に 参加した。
初日の注目は 再建なった中門前で 横綱の土俵入りが行われる。大勢のファンか詰めかけると思って 駐車場がなくなると思い 車で行くのを止めて早朝に 電車に出かけた。
しかし、現場に到着すると大勢のファンで一杯。
![wst1504020036-p1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/5/d57cead2.jpg)
しかし、現場に到着すると大勢のファンで一杯。上のような写真を撮りたかったが報道関係者がほとんど。
何とかしなければと思い 以前から 何箇所かの撮影場所を考えて 下調べをしていたのでその場所へ行き、撮影した。

道路側から 北の中門を見る。朝6時頃から待っている観客が中門の向こうに見える。

高野山座主が到着。

横綱 白鵬が 露払いと太刀持ちを従え 到着。

横綱 白鵬の土俵入り。

続いて 横綱 白馬富士の土俵入り。

土俵入り終了後 バスに向かう途中 ファンに取り囲まれる。

今 人気者の関脇・照の富士も見られた。

バスの窓から ファンに手をふる白馬富士
江戸時代の天保14年(1843年)に焼失していた中門の再建が行われた。そして 四天王像もこの日 お披露目された。
両眼をカット見開き、奮怒の表情ながらも 慈悲深さを漂わせている。「強さを表す四天王の顔は怒るばかりでは駄目。見つめられたら うそをつけない。そう思わせる顔に。」にとの思いで造ったと仏師の弁。
四体の四天王像を見て頂きたい。
今回 中門焼失時に焼失していた広目天と増長天は 今回 仏師 松本明慶により新しく造られた。
持国天と多聞天は 中門焼失時に救い出されていたものを修復した。

広目天の役目は 広く見渡すのが役目 胸にセミがとまっている。

増長天が槍を持っているのは 悪なものから守るため。 その象徴として 胸の甲冑にトンボを表した。「トンボは前にしか飛ばない。決して退却しないという強い意志を表したかった」とある。

修復された「持国天」

修復された「多聞天」

講堂(金堂)での 長い法会が終わり 管長さんが出てこられた。


法会を終えた高僧たちの列

つかの間のくつろぎ

今度は 奥の院での法会に出発



人々に見送られ 御廟に向かう。
この日は 高僧たちにとっては 長い一日だった事でしょう。
お疲れさまでした。
2015年04月10日
私の足跡 176 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 9
私の足跡 176
平安京から
開創1200年の高野山へ歩く 9
9 丹生都比売神社から高野山上へ 4月 6日
橋本駅を8時にバスを出発し 途中で仲間を乗せ丹生都比売神社に9時前に到着。
準備体操の後 9時10分に出発。
丹生都比売神社を出発して すぐに「有王丸」の墓がある。
「清盛討伐の謀計が漏れ、鬼界ケ島に流された俊寛の遺骨を高野山に納め その後 天野に住んだ」と源平盛衰記に記された「有王丸の墓」
![ama7[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/a/4aa75081-s.jpg)
そして しばらく歩くと 「院の墓」がある。
待賢門院の墓と伝えられているが 院に仕えた後 この地に隠れ住んだ中納言の局の墓と言われている。
![ama31[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/3/c3663589.jpg)
苦しい八丁坂を登りきり しばらく下り坂を過ぎるとゴルフ場が見え その傍に池がある。
応其上人が 丹生都比売神社の御神田のために築造したため池と言われている。
![ama2[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/4/c4944235.jpg)
横笛が 滝口入道に会いたいため この堂に来て恋しい入道を待った所
弘法大師 子安地蔵 応其上人が祀られている。
![090228h16[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/3/738360ec.jpg)
笠木峠で休憩。
![090305a[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/5/15c76fc0.jpg)
やっと 60町の矢立に到着。予定通り 12時より昼食休憩。
![090129e2[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/6/36a7eb4a-s.jpg)
歩き始めて すぐに六地像がある。
![090129e6[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/7/b757ae78-s.jpg)
袈裟掛石 女人禁制の山に母親が登ろうとしたので 弘法大師が袈裟を岩に掛けて越えさせないようしたと言われる岩。鞍のような形をしているので鞍掛石とも言われ またくぐり石とも言われている。
しばらく歩くと 大師の言葉を聞かずに 越えようしたので雷雨が降って来たので 大岩を持ちあげ そこにかくまったいう押し上げ石等の石がある。
![090129e9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/f/ffca9148-s.jpg)
鎌倉時代の町石が無くなったので 新しい町石が造られているが この石は昭和の時代に造られた新しい町石である。 後に原石が見つかり 二基が並んでいる。
![090129f3[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/d/0d4e01d6-s.jpg)
40町石を過ぎると展望台があり 休憩する。
![090129g20[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/0/20eb3569.jpg)
12町石を過ぎると厳しい登り坂となる。
![081129g9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/1/d1d0aa45.jpg)
坂を登り切ると 大門に到着。国の重要文化財 高さ 25.8mは日本では 最大級です。
両側にある 金剛力士像は 見事である。
![081129g11[1] - コピー](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/e/6e9ff3db-s.jpg)
壇上伽藍の中心である根本大塔である。
4時頃 京都から高野山迄の130kmを歩き終え お互いの健闘をたたえ終了した。
平安京から
開創1200年の高野山へ歩く 9
9 丹生都比売神社から高野山上へ 4月 6日
橋本駅を8時にバスを出発し 途中で仲間を乗せ丹生都比売神社に9時前に到着。
準備体操の後 9時10分に出発。
![ama19[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/7/d7540f44-s.jpg)
丹生都比売神社を出発して すぐに「有王丸」の墓がある。
「清盛討伐の謀計が漏れ、鬼界ケ島に流された俊寛の遺骨を高野山に納め その後 天野に住んだ」と源平盛衰記に記された「有王丸の墓」
![ama7[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/a/4aa75081-s.jpg)
そして しばらく歩くと 「院の墓」がある。
待賢門院の墓と伝えられているが 院に仕えた後 この地に隠れ住んだ中納言の局の墓と言われている。
![ama31[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/3/c3663589.jpg)
苦しい八丁坂を登りきり しばらく下り坂を過ぎるとゴルフ場が見え その傍に池がある。
応其上人が 丹生都比売神社の御神田のために築造したため池と言われている。
![ama2[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/4/c4944235.jpg)
横笛が 滝口入道に会いたいため この堂に来て恋しい入道を待った所
弘法大師 子安地蔵 応其上人が祀られている。
![090228h16[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/3/738360ec.jpg)
笠木峠で休憩。
![090305a[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/5/15c76fc0.jpg)
やっと 60町の矢立に到着。予定通り 12時より昼食休憩。
![090129e2[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/6/36a7eb4a-s.jpg)
歩き始めて すぐに六地像がある。
![090129e6[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/7/b757ae78-s.jpg)
袈裟掛石 女人禁制の山に母親が登ろうとしたので 弘法大師が袈裟を岩に掛けて越えさせないようしたと言われる岩。鞍のような形をしているので鞍掛石とも言われ またくぐり石とも言われている。
しばらく歩くと 大師の言葉を聞かずに 越えようしたので雷雨が降って来たので 大岩を持ちあげ そこにかくまったいう押し上げ石等の石がある。
![090129e9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/f/ffca9148-s.jpg)
鎌倉時代の町石が無くなったので 新しい町石が造られているが この石は昭和の時代に造られた新しい町石である。 後に原石が見つかり 二基が並んでいる。
![090129f3[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/d/0d4e01d6-s.jpg)
40町石を過ぎると展望台があり 休憩する。
![090129g20[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/0/20eb3569.jpg)
12町石を過ぎると厳しい登り坂となる。
![081129g9[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/1/d1d0aa45.jpg)
坂を登り切ると 大門に到着。国の重要文化財 高さ 25.8mは日本では 最大級です。
両側にある 金剛力士像は 見事である。
![081129g11[1] - コピー](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/e/6e9ff3db-s.jpg)
壇上伽藍の中心である根本大塔である。
4時頃 京都から高野山迄の130kmを歩き終え お互いの健闘をたたえ終了した。