2015年03月
2015年03月26日
私の足跡 175 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 8
私の足跡 175
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 8
8 紀伊山田駅から丹生都比売神社へ 3月 16日
![thumb5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/b/3bc79391-s.jpg)
出発後 奈良時代に建てられたと言われる「神野々廃寺塔跡」に到着。
![thumb6[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/b/fb3642cd-s.jpg)
礎石は巨大なもので 心柱を建てた穴は 直径80cm以上もあり 相当大規模な塔だったと推定されている。
![04042_1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/3/73a9103b-s.jpg)
「延喜式神名帳」に記されている 「小田神社」に到着。
戦火により荒れていた旧本殿の跡に 石の宝殿を建て「小田神社」と刻して後世に伝えさせたのが ご神体となり現在に至っている。
![spot-19[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/a/0a5015b7.jpg)
清涼寺に到着 伝承によると 昔は4町(約400m強)四方の寺域を有し 深く皇室の保護を受けていた。
高野御幸の際 旅程の最後の宿泊をされた大寺であった。
![CIMG0242[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/6/468b166c.jpg)
世界遺産に登録されている「慈尊院」にお参りする。
816年 弘法大師(空海)が 高野山開創に際し 高野山参詣の表玄関として伽藍をつくり 政所等の場所とされたと言う。
![7adaf389[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/4/1425c061.jpg)
弥勒堂(国の重文)に祀られている秘仏の弥勒菩薩(国宝)が 4月2日より (高野山開創1200年祭の間) 御開帳とのこと 楽しみです。
![13_tahou[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/5/c56e38a3.jpg)
大日如来を祀っている多宝塔。
丹生官省符神社を過ぎた勝利寺の下で 昼食休憩。
![e3378b98[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/2/d261e5ea.gif)
その後 町石道を登って行く。
![b0190f70-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/a/fa1e4b78.jpg)
北を見れば 紀の川 南を見れば高野山の見える絶景の場所。展望台からの眺め。
(天気が良ければ 高見山も)
![bce3e1f0[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/8/68ea087d.jpg)
弘法大師坐像。目的地まで無事に行けますようにお願いする。
![f3e4a1f2-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/8/089d8f02.jpg)
六本杉で 休憩。
![0762370c[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/b/bb6b5961.jpg)
天野の展望台が見えて来た。
![6eb1b46b[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/6/1665ba88.gif)
二つ鳥居に到着。
![361b2a9f-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/e/3e165623.jpg)
この地点より上は 次回にして 八丁坂を降りて 丹生都比売神社に参拝。
![top_billboard_main[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/5/f5959a2f-s.jpg)
丹生都比売神社に参拝し、宮司さんより丁寧な説明を受け、バスで各自の家へ。
。
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 8
8 紀伊山田駅から丹生都比売神社へ 3月 16日
![thumb5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/b/3bc79391-s.jpg)
出発後 奈良時代に建てられたと言われる「神野々廃寺塔跡」に到着。
![thumb6[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/b/fb3642cd-s.jpg)
礎石は巨大なもので 心柱を建てた穴は 直径80cm以上もあり 相当大規模な塔だったと推定されている。
![04042_1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/3/73a9103b-s.jpg)
「延喜式神名帳」に記されている 「小田神社」に到着。
戦火により荒れていた旧本殿の跡に 石の宝殿を建て「小田神社」と刻して後世に伝えさせたのが ご神体となり現在に至っている。
![spot-19[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/a/0a5015b7.jpg)
清涼寺に到着 伝承によると 昔は4町(約400m強)四方の寺域を有し 深く皇室の保護を受けていた。
高野御幸の際 旅程の最後の宿泊をされた大寺であった。
![CIMG0242[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/6/468b166c.jpg)
世界遺産に登録されている「慈尊院」にお参りする。
816年 弘法大師(空海)が 高野山開創に際し 高野山参詣の表玄関として伽藍をつくり 政所等の場所とされたと言う。
![7adaf389[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/4/1425c061.jpg)
弥勒堂(国の重文)に祀られている秘仏の弥勒菩薩(国宝)が 4月2日より (高野山開創1200年祭の間) 御開帳とのこと 楽しみです。
![13_tahou[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/5/c56e38a3.jpg)
大日如来を祀っている多宝塔。
丹生官省符神社を過ぎた勝利寺の下で 昼食休憩。
![e3378b98[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/2/d261e5ea.gif)
その後 町石道を登って行く。
![b0190f70-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/a/fa1e4b78.jpg)
北を見れば 紀の川 南を見れば高野山の見える絶景の場所。展望台からの眺め。
(天気が良ければ 高見山も)
![bce3e1f0[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/8/68ea087d.jpg)
弘法大師坐像。目的地まで無事に行けますようにお願いする。
![f3e4a1f2-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/8/089d8f02.jpg)
六本杉で 休憩。
![0762370c[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/b/bb6b5961.jpg)
天野の展望台が見えて来た。
![6eb1b46b[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/1/6/1665ba88.gif)
二つ鳥居に到着。
![361b2a9f-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/e/3e165623.jpg)
この地点より上は 次回にして 八丁坂を降りて 丹生都比売神社に参拝。
![top_billboard_main[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/5/f5959a2f-s.jpg)
丹生都比売神社に参拝し、宮司さんより丁寧な説明を受け、バスで各自の家へ。
。
2015年03月17日
私の足跡 174 平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 7
私の足跡 174
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 7
v 滝谷不動駅から天見へ 3月 2日
今回は 前回の天見駅を 9時に出発する
![0e5bbffb-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/3/43f7e2e4.jpg)
二つの班に分かれて出発。
![c409112c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/4/e4b07b76.jpg)
出合いの辻を過ぎて 旧街道を通る。
![1d3b246c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/c/5c914de6.jpg)
国道に出ると ガードレールに守られた歩道を楽しく歩く。
紀見峠を越える時 旧国道ではなく 昔の道「み坂」を通る。
![ebce6d61-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/c/2cf13455.jpg)
紀見峠では 旧宿場町の説明や世界的に有名なで橋本市の名誉市民である「岡 潔」が少年時代を過ごした様子をガイドにしてもらう。(ここに 六里石がある)
![c0adf719-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/1/01087963.jpg)
昔の面影の残る宿場町跡。
![51618a1c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/8/58c079f3.jpg)
慶賀野戎神社に寄り、ここより良く見える 長藪城址の説明を聞く。
![bce4b613[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/4/44082eb6.jpg)
幕末になり賑わいをあった京・大阪道に 大阪狭山市の二人が発起人になり 堺から高野山迄の13里の道に 一里ごとに道標を建てた。 それが当時の旅人の役にたった。その里程石が 今に残っている。 (橋本市には 紀見峠の六里石から学文路の三里石迄のの四基がある。)
![bc9dd7eb-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/2/227e26f0.jpg)
現「御幸駅」の近くにある道標。 現在の高野参詣道は この道を南に直進して橋本経由で高野山へのびているが、平安時代からは ここで分岐して 西に延びていたという資料により、駅名にもなっている「御幸」道を歩くことにした。
菖蒲谷・出塔・一時期鋳物の生産地として栄えた柏原を通り 本日のゴール「紀伊山田駅」へ。
平安京から 開創1200年の高野山へ歩く 7
v 滝谷不動駅から天見へ 3月 2日
今回は 前回の天見駅を 9時に出発する
![0e5bbffb-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/3/43f7e2e4.jpg)
二つの班に分かれて出発。
![c409112c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/4/e4b07b76.jpg)
出合いの辻を過ぎて 旧街道を通る。
![1d3b246c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/c/5c914de6.jpg)
国道に出ると ガードレールに守られた歩道を楽しく歩く。
紀見峠を越える時 旧国道ではなく 昔の道「み坂」を通る。
![ebce6d61-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/c/2cf13455.jpg)
紀見峠では 旧宿場町の説明や世界的に有名なで橋本市の名誉市民である「岡 潔」が少年時代を過ごした様子をガイドにしてもらう。(ここに 六里石がある)
![c0adf719-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/1/01087963.jpg)
昔の面影の残る宿場町跡。
![51618a1c-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/8/58c079f3.jpg)
慶賀野戎神社に寄り、ここより良く見える 長藪城址の説明を聞く。
![bce4b613[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/4/44082eb6.jpg)
幕末になり賑わいをあった京・大阪道に 大阪狭山市の二人が発起人になり 堺から高野山迄の13里の道に 一里ごとに道標を建てた。 それが当時の旅人の役にたった。その里程石が 今に残っている。 (橋本市には 紀見峠の六里石から学文路の三里石迄のの四基がある。)
![bc9dd7eb-s[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/2/2/227e26f0.jpg)
現「御幸駅」の近くにある道標。 現在の高野参詣道は この道を南に直進して橋本経由で高野山へのびているが、平安時代からは ここで分岐して 西に延びていたという資料により、駅名にもなっている「御幸」道を歩くことにした。
菖蒲谷・出塔・一時期鋳物の生産地として栄えた柏原を通り 本日のゴール「紀伊山田駅」へ。