2013年03月
2013年03月15日
私の足跡 130 高野山への街道
私の足跡 130
高野山への街道
中高野街道 Ⅱ (松原から杭全神社まで) (12月7日)
![kouya[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/d/0d00ea18.gif)
前回の続きで 松原駅を12時に出発。

長尾街道との交差点を通り越し、北上する。

地蔵尊(延命地蔵・子安地蔵)を右に行く。

街道から少し右に行くと阿保神社がある。
阿保神社の由緒が書かれていた。

松原の三宅の交差点の右側の屯倉神社に到着。

屯倉神社に参拝。

屯倉神社の由来が書かれている。

しばらく歩くと大阪市の瓜破に入る。向こうで道が途切れているようです。

ガードレールの向こうは大和川です。左を見れば大きな橋が見える。

その橋に近づくと高野大橋と書かれていた。この橋は昭和29年に完成したものです。それまでは 先ほどのガードレールの所に明治時代に作られた木橋が直線に作られていた。


昔の航空写真で撮影した貴重な写真。写真の左側は高野大橋。やや右側に川の中に橋の跡が見える。

川の反対側に立って見れば その当時の橋杭の跡が残っているのが見えた。

木枠の中に「すく天王寺迄一里半・大念仏寺十八丁」の石柱道標があった。

式内神社楯原神社に参拝

楯原神社の由来

平野郷に入る。戦国時代の平野郷は、町の安全を図って市街のまわりを壕と土塁で囲み、その郷の間に各方面に通じる十三の木戸口もおかれ、門や地蔵堂があった。この地蔵堂もその一つである。

流れ口地蔵堂。この地蔵堂は上記の十三の木戸口の一つ流れ口の傍らにあった地蔵堂

平野郷が壕と土塁で囲まれ十三の木戸口をあらわして図。

町家風の建物が並んでいる。

そして建物に上の紙が張られ、町おこしに工夫をしている。

全興寺の境内に入る。

大きな石標があった。両側の面には 右 さ山・高野山・すぐ住吉 と 左天王寺・大坂・すく住吉・さかひとある。


少し歩くと、上の道標があった。



以上 4面には上記の文字が描かれている。

本日のゴール・杭全神社前に到着。15:40

杭全神社に参拝。

杭全神社の由緒。
中高野街道を踏破した後、年末の御堂筋のライトアップの撮影に行ってきた。
高野山への街道
中高野街道 Ⅱ (松原から杭全神社まで) (12月7日)
![kouya[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/d/0d00ea18.gif)

前回の続きで 松原駅を12時に出発。

長尾街道との交差点を通り越し、北上する。

地蔵尊(延命地蔵・子安地蔵)を右に行く。

街道から少し右に行くと阿保神社がある。

阿保神社の由緒が書かれていた。

松原の三宅の交差点の右側の屯倉神社に到着。

屯倉神社に参拝。

屯倉神社の由来が書かれている。

しばらく歩くと大阪市の瓜破に入る。向こうで道が途切れているようです。

ガードレールの向こうは大和川です。左を見れば大きな橋が見える。

その橋に近づくと高野大橋と書かれていた。この橋は昭和29年に完成したものです。それまでは 先ほどのガードレールの所に明治時代に作られた木橋が直線に作られていた。


昔の航空写真で撮影した貴重な写真。写真の左側は高野大橋。やや右側に川の中に橋の跡が見える。

川の反対側に立って見れば その当時の橋杭の跡が残っているのが見えた。

木枠の中に「すく天王寺迄一里半・大念仏寺十八丁」の石柱道標があった。

式内神社楯原神社に参拝

楯原神社の由来

平野郷に入る。戦国時代の平野郷は、町の安全を図って市街のまわりを壕と土塁で囲み、その郷の間に各方面に通じる十三の木戸口もおかれ、門や地蔵堂があった。この地蔵堂もその一つである。

流れ口地蔵堂。この地蔵堂は上記の十三の木戸口の一つ流れ口の傍らにあった地蔵堂

平野郷が壕と土塁で囲まれ十三の木戸口をあらわして図。

町家風の建物が並んでいる。

そして建物に上の紙が張られ、町おこしに工夫をしている。

全興寺の境内に入る。

大きな石標があった。両側の面には 右 さ山・高野山・すぐ住吉 と 左天王寺・大坂・すく住吉・さかひとある。


少し歩くと、上の道標があった。



以上 4面には上記の文字が描かれている。

本日のゴール・杭全神社前に到着。15:40

杭全神社に参拝。

杭全神社の由緒。
中高野街道を踏破した後、年末の御堂筋のライトアップの撮影に行ってきた。
2013年03月01日
私の足跡 129 高野山への街道
私の足跡 129
高野山への街道
(以前にも書いておきましたが写真をクリックしますと写真を拡大して読みやすくなります。ご利用ください。)
高野山への登山口を続けて3例書いた後 「しまなみ海道」と「青春18切符を使って」を書き 少し話題を変えましたが、また 元に戻り その続きとして中高野街道と下高野街道を書きます。
平安末期までの天皇・公家達の熊野詣が盛んだったころは 京都から大阪まで船で下っていたが平安末期より熊野詣に変わり、高野参りが多くなってきた。
![0d00ea18[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/4/348df30d.gif)
そのため ① 淀川の途中で船を下り、石清水八幡宮にお参りし、東高野街道を通る人 ②守口で船をおり、布施を通り、ここ杭全神社にお参りし中高野街道を通る人 ③大阪で船をおり四天王寺にお参りして下高野街道を通る人 それに ④黄金の町・堺を見学して西高野街道を通る人が多くなった。
東高野街道は「私の足跡 34」・西高野街道は「私の足跡 31」に記しています。
初めに 中高野街道を書き、次に下高野街道を書きます
中高野街道 Ⅰ (河内長野市から松原市まで) (11月21日)

出発した地点は 西高野街道との分岐点(高野線 千代田駅西北)とする。左に行けば堺市へ(西高野街道)。 今回は 右側(中高野街道の分岐点)の道を通り、大阪市の平野へ。 9:30 スタート。

西・下・中・東高野街道についての説明板がある。

昔の街道の面影の残る道を北上する。

春日神社の塀と松林寺の塀が見えて来た。

境内には この時期 葉も実もなくなつたムクロジの木があった。

ムクロの木の説明

河内長野市の市指定文化財の松林寺の山門。

真言宗のお寺。


浄土宗の安楽寺を過ぎる。

古い家並みが並び 江戸時代の旅人とも出会いそうな雰囲気の所を通る。

しばらくの間 大阪狭山市と富田林市の境界線を通る。

左 こうやみち 天下大平安永八年・・・等と書いた石柱があった。

融通念仏宗の風林寺の傍を通る。
この後、高野線の線路の東側に渡る。

道路の片隅に 地蔵尊が祀られていて、中高野街道の道標がある。
上の写真の右手前の単車の傍の石柱の古い標識です。右こうや 左よしの道

踏切を渡り、駅を過ぎると上の石碑が屋敷跡に残っていた。

その家の庭に植えられていたであろう柿が 家の主がいないのにたわわに実っていたのが私には心に残る風景だった。

次の四差路の右にある 浄土宗のお寺・報恩寺。

狭山北條氏の上屋敷や下屋敷のあった場所。

菅生神社の鳥居が 神社から離れた所にある。おおきな道標がある。

式内社 菅生神社に参拝。


舟渡池の近くを通ると鷺が羽根を休めていた。

警戒心が強いのか コンパクトカメラで近づくとすぐに飛び去ってしまう。
面白い風景なので 半月後 望遠レンズをつけて撮影に行った時には 鳥はいなかった。

丹比神社に参拝

由緒ありそうな井戸がある。 由緒は下の石標に書かれていた。


道標がある。 右 ひらの 大坂 道 左 さやま 三日市 かうや 道

松原の町に入ると 中高野街道の説明の標識がある。

中高野街道の道標

今日の出発は 遅くて(9時半) 松原着15時。これから目的地の杭全神社への到着は遅くなるので松原駅で終えることにする。
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高野山への街道
(以前にも書いておきましたが写真をクリックしますと写真を拡大して読みやすくなります。ご利用ください。)
高野山への登山口を続けて3例書いた後 「しまなみ海道」と「青春18切符を使って」を書き 少し話題を変えましたが、また 元に戻り その続きとして中高野街道と下高野街道を書きます。
平安末期までの天皇・公家達の熊野詣が盛んだったころは 京都から大阪まで船で下っていたが平安末期より熊野詣に変わり、高野参りが多くなってきた。
![0d00ea18[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/3/4/348df30d.gif)
そのため ① 淀川の途中で船を下り、石清水八幡宮にお参りし、東高野街道を通る人 ②守口で船をおり、布施を通り、ここ杭全神社にお参りし中高野街道を通る人 ③大阪で船をおり四天王寺にお参りして下高野街道を通る人 それに ④黄金の町・堺を見学して西高野街道を通る人が多くなった。
東高野街道は「私の足跡 34」・西高野街道は「私の足跡 31」に記しています。
初めに 中高野街道を書き、次に下高野街道を書きます
中高野街道 Ⅰ (河内長野市から松原市まで) (11月21日)

出発した地点は 西高野街道との分岐点(高野線 千代田駅西北)とする。左に行けば堺市へ(西高野街道)。 今回は 右側(中高野街道の分岐点)の道を通り、大阪市の平野へ。 9:30 スタート。

西・下・中・東高野街道についての説明板がある。

昔の街道の面影の残る道を北上する。

春日神社の塀と松林寺の塀が見えて来た。

境内には この時期 葉も実もなくなつたムクロジの木があった。

ムクロの木の説明

河内長野市の市指定文化財の松林寺の山門。

真言宗のお寺。


浄土宗の安楽寺を過ぎる。

古い家並みが並び 江戸時代の旅人とも出会いそうな雰囲気の所を通る。

しばらくの間 大阪狭山市と富田林市の境界線を通る。

左 こうやみち 天下大平安永八年・・・等と書いた石柱があった。

融通念仏宗の風林寺の傍を通る。
この後、高野線の線路の東側に渡る。

道路の片隅に 地蔵尊が祀られていて、中高野街道の道標がある。


踏切を渡り、駅を過ぎると上の石碑が屋敷跡に残っていた。

その家の庭に植えられていたであろう柿が 家の主がいないのにたわわに実っていたのが私には心に残る風景だった。

次の四差路の右にある 浄土宗のお寺・報恩寺。

狭山北條氏の上屋敷や下屋敷のあった場所。

菅生神社の鳥居が 神社から離れた所にある。おおきな道標がある。

式内社 菅生神社に参拝。


舟渡池の近くを通ると鷺が羽根を休めていた。

警戒心が強いのか コンパクトカメラで近づくとすぐに飛び去ってしまう。
面白い風景なので 半月後 望遠レンズをつけて撮影に行った時には 鳥はいなかった。

丹比神社に参拝

由緒ありそうな井戸がある。 由緒は下の石標に書かれていた。


道標がある。 右 ひらの 大坂 道 左 さやま 三日市 かうや 道

松原の町に入ると 中高野街道の説明の標識がある。

中高野街道の道標

今日の出発は 遅くて(9時半) 松原着15時。これから目的地の杭全神社への到着は遅くなるので松原駅で終えることにする。
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