2012年11月

2012年11月15日

私の足跡122 高野山への七つの登山口(高野七口 京・大坂道))

私の足跡  122



  
高野山への
     七つの登り口 (高野七口) Ⅲ-2

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   前回の続き    京 大阪道の極楽橋から大門までを書きます。


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      朱塗りの極楽橋を渡る


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      そして 従来の不動坂を登る
      
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      今回は 江戸時代によく使われていたが 大正4年頃から 約100年間埋もれていた登山道を登ることにする。この道は 今年整備された。
       

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       1915年 高野山開創1100年記念大法要が行われるので大勢の参詣客のため、急勾配でなく広くて歩きやすい道をつくった。そのため 旧道は使われなくなった。

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        この難所を登る人を助ける「腰押し」や「荷物持ち」などの仕事をする人も多くいたそうです。また 牛にロープをつけそれを持ち引っ張ってもらう人もいたそうです。

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       整備前の道路
       
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       整備後の道路
 
                 

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       上記の場所とか「稚児の滝」とかの名所もあります。               

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       右 加みや(神谷) まきのを(槇尾) いせ 京 大阪

       「寛政四子年七月立」「南無大師遍照金剛」の石柱あり。100年の間 倒れていたそうです。       

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       現在の清不動 新しい道を造ったため、旧不動坂より大正時代につくったこの道に新しく造ったもの。
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                   旧不動坂に建てられていた。山内の不動堂と区別するため 「外不動」と言われていた。これを移築して現在は「清不動」と言われている。 

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       また 旧不動坂を登っていくと花折坂の石の花立てがある。これも100年の間 倒れていたそうです。       
 
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        仏像が祀られている。

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        京 大阪道の終点 女人堂に到着。以前は高野七口の全てに女人堂が建てられていたが、現在残っているのはここだけ。この近くに 小杉明神やお竹地蔵が祀られています。        

        高野の町を囲むように 女人禁制の時代に女人のための女人道があるが 今回その一部を上の女人堂から大門迄を歩くことにする。


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         ここにも 女人堂があった。「谷上女人堂跡」

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         もくもくと弁天岳の頂上をめざす。

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         高野山には 七つの弁天様が祀られているが ここのは弁天岳の弁天様で通称「岳弁」と言われている。

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        頂上(985m)からの遠景の素晴らしさにウットリ。

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        もう一つの絶景ポイント。大塔が見える。昔の女人は この女人道からしか拝めなかったからどんな気持ちで眺めたことだろう。首をロクロのように伸ばして眺めたというロクロ峠があるが こんなに遠い所からでも何日もかけて登って来てお大師さんの修行地を眺めて涙を流した人も多くいたことでょう。

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                   今回のゴール大門。   創建は 江戸時代                   

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drecom_yama_ya617 at 10:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 高野山への七つの登山口 

2012年11月03日

私の足跡121 高野山への七つの登山口(高野七口 京・大坂道)

私の足跡 121 

 
    高野山への
     七つの登り口 (高野七口) Ⅲ-1


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  今回は 江戸時代になって 特に参詣道として賑わった「京 大坂道」を書くことにする。

  中世より 表参詣道として栄えた町石道に変わり 庶民の旅が盛んになった江戸時代より多く利用されるようになった。理由は 道は険しいが距離が2里短い。(約8Km短い)
     それに 旅人の心も 信仰 修行の道として栄えた町石道より 楽しく通れるこの道を使ったらしい。

  この道の出発点は 京都から八幡市を通を経て東高野街道を通り河内長野市を通り 橋本市を経て学文路に至る道です。
  cf  私の足跡 34    2009.5  

  もう一つは大阪から堺市を経て西高野街道を通り河内長野市 橋本市を経て学文路に至る道です。 
     cf  私の足跡 31   2009.4 

  したがって 今回は学文路から出発することにします。

 (東高野街道 西高野街道の詳細は 「私の足跡 31」 ・ 「私の足跡 32」をご覧ください)

    
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   出発点には 1758年建立の上の石柱がある。右 慈尊院みち是より 一里  左 高野みち女人堂迄三里 とある。

   紀伊名所図絵にもある玉屋旅館の跡がある。「この村 旅舎多し 玉屋与次兵衛といふ臥房繁昌す 刈萱道心の因縁ある家なりとぞ・・・・」と記してある。



   
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   杖の梅天神を過ぎると 刈萱堂がある。ここは 有名な「石童丸物語」と関わった寺です。
 また、有形民俗文化財の人魚のミイラもある。


   
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   この付近 柿の産地で全国的に有名です。秋に通るとたわわに実った柿で食欲をそそります。


   
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   高度があがって息が途切れる頃に 六地蔵の一つ三番目の地蔵が祀っている。ここ繁野集落は歴史が古く 平家全盛の時代よりあるという。   

   
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   弘法大師が村人のために掘ると清水が湧きでたという所。硯の水がほしいと言うとここは峠で水がありませんと言い 遠い谷まで汲みに行ってくれたので村人のために清水が湧き出るようにしたという。硯り水ともいう。 

   
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   河根峠にある第四の地蔵さん。子安地蔵さん。地蔵さんの優しい心のお話も残っています。
   この付近から しばらく激しい下り坂にかかり 今まで稼いだ高度(約250m)を一気に丹生川(約120m)下ることになる。

     
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  坂の途中に丹生神社がある。和歌山県下で一番歴史のある室町時代の石造の狛犬さんがある。また、次の面もあり、創建は不明だが由緒ある神社である。2012年上遷宮で賑わって祝った。

   
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   ここは 本陣跡でなかや旅館です。瓦・門等に見るべきものが残っている。和歌山県の史跡。

    
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  河根宿の外れの丹生川にかかる千石橋。  昔からの橋が大水で流されていて渡れず困った明石城主 松平孫四郎はその後幕府に願い出て 1635年に 長さ18間 巾2間半 欄干有り 柱無しの橋を造った。当時としては 貴重な橋で有名であった。この橋を7年に一度建て替えるための費用として千石を給した。ここから「千石橋」の由来である。右端の石柱は「女人堂迄二里」と書いた石柱です。

  この橋を越えると高野町である。先ほど河根峠付近より100m強下ったので今度は激しい登り坂の「作水坂」にとりかかる。
  あまりにもきつい登り坂なので、お客の荷物を持って坂をのぼったり、「腰押し」といいお客の腰を押すという商売をする人たちもいたという。 また、子どもたちは青竹を切っただけの杖を作ってお客に売っていたらしい。良寛さんは「黄金もて いざ買わん さみつ坂(作水坂のこと)」という歌をつくっている。


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   やっと きつい坂の作水坂を登り 河根峠付近の高さにある第五の地蔵に到着。ここより車の往来が激しくなる。


   


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     振り返ると 河根の集落を随分下方に見るようになった。 

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     そして 桜茶屋 六地蔵の最後 六番目の地蔵に到着。標高444m>
              ここは 桜茶屋とも言い、昔は桜の大木が多かったとある。

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     日本最後の仇討場所に到着。明治4年(1871年)2月30日(旧暦) 赤穂藩の後継者問題から事件が起こり、悲しい結末となった。 政府は明治6年に復讐禁止令を出したので これが 最後の復讐となった。
     手前の大岩(当時はもっと大きかったが道路拡張のため 小さくなった)に隠れ待ち 相手をうちころした。
     当時の敗者の人達の墓が少し離れた所にある。     

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    ここは 神谷宿。今は家屋も少なくなり 人影も滅多に見ない。上の家は脇本陣をしていた。
    
    昭和4年に南海高野線が極楽橋迄延び 翌年ケーブルも出来 お客はそちらへ行ってしまい 客は激減してしまった。

    わずか80年前の当時は 宿泊施設は16件で750人の人が泊まれ、ほかに芝居小屋 茶店 食堂 土産店等もあり、昼から三味線の音が聞こえたという。そして「日が昇れば 銭が湧く」といわれたが 今はその当時の面影は全然ない。学校も休校になって年月もたっている。

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    しばらく歩くと 電車が見えだした。

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    そして 極楽橋の駅も見える。

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    朱塗りの極楽橋を渡り、不動坂へと入っていく。


        今回は ここまでにします  次回をお楽しみに

  


drecom_yama_ya617 at 09:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 高野山への七つの登山口