2011年10月

2011年10月15日

私の足跡 94  熊野古道の伊勢路を歩く 7 始神峠越え

 

 大辺路・伊勢路を歩く  


  伊勢路 7  始神峠越え


 
     
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ふなつ駅」から約2km程の集落の中を通り抜けると「始神峠」への古道に入る。

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    江戸道を30分足らずでベンチや看板のある小さな広場の頂上・始神峠に着く。


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   標高147mの頂上からは眼下に紀伊長島の町とその前に広がる洋々たる海(紀伊の松島とも言われる)は素晴らしい。ここから遠く富士山が見えたこともあるという。    
  「大洋に潮の花や 朝日の出」と詠われている。いまでも地元の人は 元日の日の出をこの峠で拝むという。


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  標識の整った道で安心して通れる。

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   所々に苔むした石畳の道があった。


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   後半は淡々とした整備された道であった。この江戸時代の道もボランティアによって、整備されたとある。

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     すぐに宮川第2発電所の所の「始神さくら広場」に着く。


      ここから、約2km弱で「みのせ駅」に到着。


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   「みのせ駅」の橋上から今越えて来た「始神峠」を望む。

  今回の始神峠の歩行は 標高の低い山だったし、半分以上は平地の道だったので楽であった。



    


2011年10月01日

私の足跡 93  熊野古道の伊勢路を歩く 6 馬越峠越え


   大辺路・伊勢路を歩く  


  伊勢路 6    馬越峠越え

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伊勢路最大の難所・八鬼山越えを終え、次の難所 「馬越峠越え」が始まる。
 
     
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今回は 尾鷲駅からではなく、少し遠いが八鬼山越えを終えた所からスタート。 
     
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町の路上には、いくつか上記の印があった。さすが世界遺産の古道を持っている街らしい。

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昔の街道の面影の残っている矢浜(やのはま)の道を歩いていると上の建物があった。
 この建物は、「在蔵」と言い1753年からの制度で紀州藩への納め米や囲米(かこい米・飢饉に備えた備蓄米)などを収納していた。
 江戸時代約300年の歴史で 凶作は130回 飢饉は21回にのぼったとある。多くの飢饉を救ってきた建物です。
 高い石垣のうえにあるのは 津波からの被害を守るためとある。
    
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 尾鷲神社大クス 樹齢 推定 約1000年 
 三重県指定 特別天然記念物

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ひなまつりの時期だったので、豪華な雛が社殿に並べられていた。  

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いよいよ 山道に入って来た。

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しばらく山道を登ると役の行者堂があり、左の脇道を約100m入ると不動滝があり、「不動明王石像」が祀られていた。
   
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視界が開け、振り返ると尾鷲の町が見えた。(今回は左の鉄塔付近より出発)
 はるか前方に見えるのが伊勢路最大の難所・八鬼山

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  レンガ造りの御堂は「桜地蔵」 当初は旅人の安全を願って奉納されたと思うが、安平衛さんが造ったので安平衛地蔵とも また子どもの夜泣きに霊験がおるので「夜泣き地蔵」とも言われている
   
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道も急坂となり、石畳の坂道を喘ぎながら登るようになる。

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 馬越峠(325m)に到着。江戸末期の俳人・可涼園桃乙の句碑が建っている。
     
    夜は花の上に音あり山の水    弟子たちによって峠に建立されたという。

 西国三十三ヵ所名所図会には 句碑の隣に岩船地蔵堂が向かいには茶屋が描かれている。
 江戸時代の旅の記録にも 茶屋があり、餅を売る。左の峰に天狗石という大石ありとある。

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 峠よりしばらくは傾斜の少ない道だったが急に険しい下り坂となる。

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 林道を横切ると勾配がきつくなり 石畳道も階段状になった所でツア-客が上がって来た。「峠はもうすぐですか」という質問をする人が何人かいたが その人の気持ちが良くわかる傾斜のきつい坂道だった。

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  見事な尾瀬美林が続いていて、心地よい日陰を歩けてうれしい。

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 心地よい瀬音を聞きながら歩いていると道の傍に「夜泣き地蔵」の小さな祠がここにもあった。   
 山の反対側と同じように明治時代までは道中安全を見守る地蔵だったが、いつしか地区の人々が子どもの夜泣き封じを祈るようになり、今も時おり新しい哺乳瓶が供えられいいるらしい。

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 大きな石橋と延々と続く石畳道
 江戸時代に造られたと言われるこの峠道は昭和の初めごろまで県道であった。植林により狭められた所もあるが、道幅は紀州藩の駕籠に合わせて一間半(約2.7m)とられている。敷き石は大きく滑らかで、東紀州の各地に残る石畳道の中でも端正な美しさは際立っており、敷設した地元(便の山)の石工の技術の高さを推し測ることができる。
 石は麓から運び上げたものでなく、現場調達を基本としている。雨上がりに歩くと、きっちり敷設された石畳は水路の役目を果たしているいることがよくわかり、先人達の道づくりの知恵がよくわかる。

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  馬越峠も無事通り終えると、有名な話の残る便の山の集落に入る。
  
     ここには、「種まき権兵衛」の話がある。「種まき権兵衛の里」の看板があちこちで見かける里である。
  私のお気の入りの民話の一つですので皆さんにも是非知ってほしいと思い、書くことにします。
  
  (江戸時代の初め)この「便の山」の地に「上村」と名乗る立派なそして優しい武士がいましたが、互いに殺し合うという無慈悲なことが嫌になり、刀を捨てこの地で「権兵衛」と名乗り百姓になった。
 ところが、気の優しい「権兵衛さん」は 作物が実をつけても、食べにくる動物たちを追い払うことも出来ず、あげくの果てには何度種をまいてもカラスにほじくらげる始末です。村人たちからも百姓は無理でも優しい人だと思い差し入れをしたり面倒をよくみてあげていました。
 農作業に関しては、ズブの素人だったが、もともと武士だったので鉄砲の腕は素晴らしく、常日頃から農作物を荒らし農民を困らせる猪などを退治していたので鉄砲の腕はますます上がっていました。
 そんなある日、紀州の殿様がこの地にとどまったおり、村人たちが殿様の前で鉄砲の腕前を披露することになりました。権兵衛さんも出場したが、お殿様の前でも、臆することなく日頃の腕前どおり腕前を発揮することが出来ました。「褒美として賞金を与える」とお殿様に言われましたがその申し出を幾度となくお断りいたしました。「どうしても」とのお殿様の御言葉で権兵衛さんは「私は御褒美はいりません。どうしてもとおっしゃるなら今まで私を助けてくれた便の山の人達の年貢の免除をお願いします」と言いました。お殿様は権兵衛さんの人徳と村人の優しさに感激して申し出を認めました。
 その後は権兵衛さんと村人たちはより以上に助け合うことになり、権兵衛さんは農作業を荒らす猪狩り等に精を出していました。

 それから数年後、近くの馬越峠に大蛇が出没し旅人に被害を与えているとの話を聞いたお殿様は鉄砲の名手の権兵衛さんに大蛇退治を命じました。   権兵衛さんがいつも退治している猪なんかとは相手が大きすぎて話が違います。今度は命がけです。権兵衛さんは迷ったが、村人の為、旅人の為に大蛇退治を決意しました。 鉄鍋で大蛇退治の鉄砲玉をつくり、鉄砲を片手に一人で馬越峠に出かけました。
 馬越峠でしばらく待っていると世にも恐ろしい大蛇が山頂から峠に降りてきました。権兵衛さんは怖くて逃げたくなったが、村人の為、旅人の為と思い、持っていた鉄砲で何発か大蛇に撃ちこみました。しかし、大蛇は少しもひるまずそれどころか、権兵衛さんめがけて襲いかかってきました。
権兵衛さん危うし」 そこで彼は無意識のうちに懐の中にある肌身離さず持っている「ずんべら石」 (一説には 母親からもらったお守り石といわれている) を鉄砲にこめて大蛇の急所である喉に狙いをさだめ、一発・二発と撃ちこみました.すると、大蛇は毒気をまきちらし のたうち回っていたが とうとう死に絶えてしまいました。

 権兵衛さんは、大蛇を退治しました。しかし、大蛇の毒気を大量に浴びたことにより、その場で倒れてしまいました。  それを聞きつけた村人たちは、戸板に乗せて麓の便の山へ運びました。何日かを頑張った権兵衛さんでしたがとうとう毒気がもとで死んでしまいました。村人たちはたいそう悲しみました。そのあと、権兵衛さんの碑がこの村に建てられ、今でも、花が供えられています。