2010年09月

2010年09月20日

私の足跡 65  スイス四大名峰へ 2

 前回のつづき

第四日

 ホテルを8:00頃に出発。いよいよ四大名峰の二つ目のアイガー・メンヒ・ユングフラウの三山を見るため、インターラーケン経由でラウターブルンネンへ。この三山とアルプス最大のアレッチ氷河(全長23km)が2001年世界遺産の自然遺産として認定されている。

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 登山電車に乗り換え、ミューレンへ (1634m)。

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 その後、アルメントフーベル(1907m)までケーブルカーに乗る。

 前回はグリンデルワルド経由で鉄道を何度も乗り換え、3454mのユングフラウヨッホの地下通路から超高速エレベーターでスフィンクス展望台(3571m)まで行って真っ青な空の下にあるアレッチ氷河やまじかにメンヒ・ユングフラウを見た。
 そして、帰りのクライネ・シャイデックでの
昼食後、私の大好きな作家・新田次郎がアイガー・メンヒ・ユングフラウの三山を眺めながら眠るお墓へ行ったのを思いだす。

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 今回の展望台は ユングフラウを少しはなれた所から見る場所である
 以前は、アイガーの北壁の急峻な岩壁もまじかに見え、列車もその中を通って走った。
 左からアイガー、真ん中はメンヒ、右手前はユングフラウの三山である。  
 
その後、アルメントフーベルからミューレンまでの約一時間の「花の谷ハイキング」に出発。

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 時期が過ぎていて自然のエーデルワイスは見れないので鉢植えのを見る。

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 お花畑は整備してくれていて、随所に花の名前を書いてくれていた。

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 広々とした所をゆったり楽しく歩けた。古ぼけた牧舎や牧畜があちこちに見える。

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 そして約一時間後、標高差約400m下のミューレンの町へ到着。

 
また、バスに乗り、インターラーケン(湖と湖の間にある町の意)を経由して憧れの町ツェルマットへ向かう。

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 この間約100kmあるが、標高約2000mのグリム峠やフッカー峠を越えた。
                                                            
 


 ツェルマットはガソリンを使った車は乗り入れ禁止だから、途中のテーシュで列車に乗り換える。(村内は電気自動車のバスやタクシーに馬車)

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 ここで、話題の氷河特急列車とすれ違う。私たちの列車は氷河普通列車です。

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 さすが、ツェルマットは世界の山岳リゾート都市で、日本の上高地とはケタが違う感じだ。これは、「魔の山・マッターホルン」が身近に見えるのも一つの原因でしょう。
 観光客の多さにもビックリ。それに、多彩な国の人達である。日本人もかなりいて、数では上位を占めている。(町や駅には英語・フランス語等と共に「歓迎」「ようこそ」の言葉が見られる。
 そして、この
ツェルマットには日本人が経営しているみやげ店や食べ物屋などもある。
経営者は日本人とは違っても従業員として働いている店もある。
 ホテル(ゴルナーグラード)は昔から営業しているらしく、部屋のキーも奥ゆかしく金属で重く、また建物も主人もこの地に合う感じがした部屋は三階だった。

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 この日の夕食は、OPで「2種のフォンデュとワイン飲み放題の夕べ」だったが、私たちは日本食を食べに「妙高」に行く。
 この店の他の店員は地元の人のようだが、実際寿司をにぎっている人は日本人なので、いろいろ教えてもらう。

 店名の「妙高」は、日本の妙高と姉妹都市だから。
 日本で修行し、スイスに来て、3年。独身。年に一度店から日本への旅費をもらい、帰るのが楽しい。
 ここ
ツェルマットのシーズンは夏と冬だ。冬のスキー客は長期滞在者が多いので夏より忙しいとのこと。
 寿司のネタは日本からかと聞くと大半はイタリアからとのこと。等 

 いろんな和食があったが、私は「寿司」と決めていた。メニューを見ると、「にぎり盛りあおせ」の下に、何と「マッターホルン」とある。私は迷いもなくそれとビールに決めた。

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 ノリを使わない巻きずしにいろんなネタを入れたものを積み上げたもので上にスイスの旗が立てていた。久方の日本食でもあってか、最高の夕食だった。

 その帰りに、日本人が経営している土産物屋に寄った。途中、主人が出てきたのでいろいろと話を聞く。  大阪を出て、5年前やっと開店した。景気はと聞くと、今は「ボチボチです」と言っていた。
 ホテルは駅前にあり、駅にはKioskがあり、駅前にはスーパー(C00P)があり、食料であれば何でも揃っている。 


第五日

 早朝、希望者のみ、6時15分にロピーに集合し、朝焼けのマッターホルンの見学に出かけた

 前夜の空から期待はしてなかったが、やはりマッターホルンに
ガスがかかり、一部しか見えなかった。
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 あきらめて、部屋にもどり、窓をあけるとマッターホルンの全容ではないが、見えるではないか。
 知り合いを呼び、共に見て朝焼けを待ったが駄目だった。

 
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 でも、頂上から少し下の所にある山が朝焼けをし始めた

 本日の本番は マッターホルンを最も美しい角度から眺める事ができると言われるスネガ展望台に行くことだ、そして、日本人のガイド付きでの2時間強のハイキングだ。2293mのスネガから1631mのツェルマットまで標高差683mで約4.7kmを下る。

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 8時出発.地下ケーブルで約10分でスネガ展望台に到着マッターホルンはどうかと見ると、やはり全容は見せてくれない
。 

 早速、日本人の観光ガイドで、ハイキングに出発。
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 15分程下るとライゼー湖に到着。湖面に逆さマッターホルンが映るかどうか心配したが絵ハガキのようでないが映っていて満足。

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   フィンデルの村に入ると道沿いに何軒かの家があり、そして、少し離れた所にも数軒の家が散在している。そのほぼ真ん中に、白いチャペルがある。

  ここは、ハイキングコースなので 休憩所を兼ねたレストランもあった。

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 付近には、羊や牛が放牧されていて、道に出て我々を歓迎してくれているのか または邪魔者が来たと思っていのかわからないが 近づくまでじっと見ていた。

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 そして、この地方によく見かけるねずみ返しのある家です。この付近でよく産出される「鉄平石」で屋根を葺き、地面からネズミが上がらないように各柱に鉄平石をつけている。

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 このハイキング道ではマッターホルンを見るのが最後という所だったが相変わらず頭の上の部分は見せてくれなかった。多くの命を奪った有名な北の壁の眺めはは今までで一番良かったか? 

 高度を下げ、しばらくするとカラマツの林に入り、緑に囲まれた快適な道を下っていくとずっと下方に見えていた線路を横切る。ツェルマットの町に入り、2時間強のハイキングも終了。
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  町の人々は、各自の家を花で飾っている。
 昼食を含め、約2時間の自由時間があったので、女性は買い物、私は一人で山岳博物館へ。この地方の歴史や生活も分かったが、それよりも登山記録を展示するスペースもあった。その一部に、8度目の挑戦で初登頂したウィンパーのコーナーがあった。帰路陥落事故があり4人の命を奪った際の切れたザイルも展示されていた。
 その他、各山へ登攀したたくさんの登山家の写真が展示されていたが、日本人も初登攀の記録があったと思うが展示されていなかった。

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 その後、帰りがけに 教会の中に、登攀中での事故で亡くなったであろう人の墓があり、冥福を祈った。多分、マッターホルンの見えるここに愛用のピッケルとともに葬られているのであろう墓前の花は 新しく綺麗だった

 その後、駅前のCOOPというスーパーで買った昼食を駅前広場で食す。他のツアーの日本人とも仲良くなる。
 そして、14時発の列車で昨日のテーシュへ。そこで 専用のバスに乗り、約150km先の国際都市・シユネーブへ。近年 開業したというエキスプレスハイ ホリディインというホテル着、18時。今回はこのホテルで連泊。 荷物を置き、食事へ。

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 ホテルの部屋に入るとテレビがついていて上の画面を映していた

 第六日


 6時15分、朝食。7時出発。四大名峰の四峰目・今回の最後で ヨーロッパ最高峰のモンブランをはじめ、氷河の絶景見学。

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 バスで約80km先までバスで行き、ロープウェイを乗り継ぎ、プレヴァン展望台(2525m)へ(左側)。正面に見えるのはプランブラへ展望台。
 (この展望台ではハンググライダーが
飛び 下まで降りてくる。そして、また、ゴンドラに乗り 上から下へと楽しんでいる。)

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最初の展望台・プランブラへは6人乗りのゴンドラで。途中シャモニーの村が眼下に一望できる。

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 私たちは プランブラへ展望台から左の山頂・標高2525mのプレヴァン山頂展望台へ大型ゴンドラで。
、(かすかに ゴンドラのロープが見える)

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 そこから、更に5分ほど登ると展望台がある。前方には、ヨーロッパ最高峰のまるい頭のモンブラン(4807m)(正面一番奥の山)とスケールの大きい氷河(正面下に垂れ下がっている感じのもの)がスゴイ

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 それの左手には針峰の山々も見える。

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 そして、エギー・デュ・ミディ展望台(3842m)も見える。
  

 
下山後、シャモニーで一時間の自由時間を。私たちは町中と山の見えるポイントへ。

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 シャモニーでの町中散策の途中 モンブラン方面を見る。
 
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  氷河が町の近くまで流れて来ているのが良く見える。

  
そして、約80km先のジユネーブの町へ移動し、そこで二手に別れる。 

 一つはジユネーブの見学。もう一つのグループは 「世界遺産ラヴォー地区の散策とワインテイスティング」とに別れる。

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 私は9人で世界遺産ラヴォー地区へ。バスで行くが途中昼食をとり、ラヴォー地区へ。

 私がラヴォー地区を 選んだ理由としては 今世界遺産マスターをしているが ラヴォー地区のブドウ畑が世界遺産に選ばれたとは知っていたが一般的にいう世界遺産とは少し違うのでどうしてかという疑問を持っていた。今回の旅行の目的もそれを知るためだった。

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 今回は添乗員さんに ある一軒のワイン工場を案内してもらった。レマン湖を見下ろす素敵な場所で有名なシヨン城が見え、遠くにはモンブランも見える絶好の場所である。
 
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 ご主人にワインの貯蔵している所に案内してもらう。年中気温と湿度を一定にしているとの事。大きな樽が並べている。樽には絵が描いている。おじいさんが絵が好きで描いたとの事。
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 そのうちの一つを開けてもらい試飲する

 その後、美味しい飲み方等と共に私の疑問を説明してもらう。
 彼は 私はワインづくりで世界遺産の専門家ではないがと前置きして、風光明媚な所だけでなく、昔からこの村は採れたブドウを各家ごとにワインにし、ブドウの種類はもちろん造り方も各家ごとに独特の味を作り出している。出荷も各家で違う。日本へは、今日のように買いに来てくれた人には販売しているとの事。ブドウ畑も段々畑で主におじいさんが開いたとの事。ブドウも昔からのワイン用のものだけを作っている。
 添乗員さんの通訳で聞いたことを断片的だが書きました。

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         ワイン用のブドウ畑

 帰りはジュネーブを通って帰った。メイン通りのモンブラン橋を通った。国際連合欧州本部などのある国際機構の中心部分なので、各国の要人の乗った車は、ナンバープレートに「ある記号」がついている。そのため他の車はよけて通るらしい。(事故を起こすと大変なことになるから)  

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 バスの車窓から見えた建物も威風堂々の建物が多い。

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 この大噴水は 約100年前に観光客集めの話題作りに始められ、高さは140mに達するらしい。
 当初は事故等もあったらしいが、今は噴水守が天候等に合わせて噴出力を調整しているらしい。
 その後、ホテルに帰る。


第七日
 
 7時30分朝食。8時30分にホテルを出て、ジュネーブ空港へ。
 ジュネーブ空港を11時に出発。

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  ジュネーブ空港を11時に出発。眼下にジュネーブの町。

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 機中よりいろんな感動を与えてもらったアルプスの山々に見送られて、スイスと別れる。

 そして、アムステルダム空港を経由して、現地時間14時に出発。
 そして、約11時間後の日本時間 9時に関空に到着。

 





2010年09月10日

私の足跡 64  スイス四大名峰へ 1

 スイスアルプス4大名峰

 ヨーロッパアルプスのアイガー・メンヒ・ユングフラフ地方には他のツアー旅行の時に行ったことがある(1999年)が、他の山群は知らなかったから念願の旅だった。

 今回は正式な登山ではなく、普通の旅行の範疇に入れようと思った(三日間のハイキングで歩いた総時間等は、約4時間かけて約11kmを歩くだけであり、標高差は合わせて約 1000m位である)が、2ヶ所では標高1500~2500m以上の高地の歩行だから、カテゴリを「登山」にして、ブログに書くことにした。

 

第一日

 2010年8月20日の10時15分発のKLMで関西国際空港を出発だったが、飛行機の整備の都合で二時間半遅れて出発。今回の旅行は、27名の団体である。2010-08-29 001
 途中、アムステルダムで乗り換え、ドイツのミュンヘンへ。
 そして、バスでアジミュートホテルには夜遅くに到着。

第二日
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8:00 アジミュートホテル発。

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 そして、約90km離れた南ドイツのババリアアルプス地方に専用バスで向かう

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 ヨーロッパで最も美しいロココ様式の教会の一つで、のどかな草原に建つヴィース教会。
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 ユネスコの世界遺産に登録されたヴィース教会の見学

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  外からは小さくあまり目立たないが一歩内部に足を踏み入れると華麗な装飾や鮮やかな色彩に目を奪われた。
フラッシュ付きで写真を撮った人のカメラの記録を取り上げられたと聞いたので慎重に撮影をした。 

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 1732年 ある修道院に放置されていた「むち打たれる姿のキリスト像」が涙を流したという奇跡が起きた。
 この像のため、この教会が建てられ、今も祭壇に奇跡のキリスト像が安置されている。 

 その後、一度見学をしている(1999年)ノイシュバンシュタイン城の見学のため、約25km離れたホーエンシュバンガウへ、専用バスで。
  
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 ノイシュバンシュタイン城 
 当時バイエルン国王・ルートゥ゛ィヒ2世(1848~1886)が17年の歳月と巨額の費用を自己実現のため造ったという。
 この美しい城の裏には ルートゥ゛ィヒ2世は妃をめとらず孤独で数奇な運命は謎の死に至るまで多くの人の関心を集めている。
 作曲家・ワグナーのパトロンとして異常なまでにオペラに取りつかれた王はオペラの名場面を場内の壁画に描かれていた。
 ノイシュバンシュタイン城撮影のビューポイントはマイエン橋で 前回来た時は撮影したが今回は時間の都合で駄目だった。  
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 ホーエンシュヴァンガウ城
 12世紀の荒れ果てた城をルートゥ゛ィヒ2世の父・マクシミリアン2世が5年の歳月をかけて再建し、夏の狩りの城とした。
 ルートゥ゛ィヒ2世は この父の城からノイシュバンシュタイン城の建築状況を眺めていたという。  
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 ノイシュバンシュタイン城の室内は見事な装飾の部屋がたくさんあったが、撮影は禁じられていたが、
 窓から見える景色はガラス越しに撮影ができる。
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 同じく、ホーエンシュヴァンガウ城とアルプ湖が綺麗に見えた。

 昼食は、ドイツ名物のソーセージとドイツ特産のビールで。
 今回は、アルプ湖に沿って、ノイシュバンシュタイン城とホーエンシュヴァンガウ城を眺めながらのハイキングに出かける。
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 お陰で、ノイシュバンシュタイン城とホーエンシュヴァンガウ城を同時にカメラに収めることの場所まで行け、ラッキーだった。

  アルプ湖では、小鳥や魚が泳いでいた。人目のつかない所では暑かったので人間も泳いでいた。

 その後、バスで282km走り、ドイツとの国境を越えて、スイスに入る。
 国境だから、それぞれの国の係の人が車を止めて、各人のパスポートの検閲があると思ったが、ユーロ圏では今は事件がなければフリーパスだった。(但し、それぞれの国の検問所が残っている。スイスはユーロ圏ではないが例外)  時間の浪費もなく、助かる。

 グラッドブルグのホテル ノボテルエアーポート メッセに到着し宿泊。


第三日

 ホテルを7時30分し出発し、約200km離れたサンモリッツへ(1775m)。

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 このバス道路は 先日事故を起こして死者を出した氷河特急と平行して走っているようだ

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 先ほど通った集落が下方に見えてきて、だいぶ高度も上げてきた。いつの間にか氷河特急もトンネルに入ったのが視界から消えてしまった。

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 大きな峠・ユリア峠(2284m)に到着。若者が自転車で峠越えをしている。交通事故に気をつけてガンバレと応援する。
 周辺には、高山植物が咲き乱れていた。
 バスは、峠を下り、サンモリッツへ。

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 昼食の魚料理を済ませた建物からSt Moritz(サンモリッツ)の駅が見えたが、時間の都合で事故を起こした氷河特急の同型の姿は見られなかった。
 高級リゾートとして名高いSt Moritzの町は森と湖の町であった。 

 長い時間のバスの旅だったが、いよいよ四大名峰の一つ・ベルリナアルプスの観光へ。
 
 バスを降り、ロープウェイに乗り換え約2984mのディアボレッツア展望台へ。

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眼前には、ビッツ・バリュ、ビッツ・ベルリナ等の雄大な4000m級の名峰が見えて素晴らしかった

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 そして、眼下に目をやればモルテラッチ氷河が壮大であった。


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 頂上では 男性の楽器演奏で 女性が笠を持ち踊り 我々観光客を歓迎してくれていた。




 以前 燕岳の燕山荘でホルンを拭いて聞かせてくれた人は高山では酸素が少ないから長時間吹くのが辛いと言っていたのを思いだす。






 見学後、約300km離れたインターラーケンへ出発。
 夜遅く、クリスタルインターラーケン・ホテルへ到着。

     この続きは 10日後の 私の足跡65 で見てください。


2010年09月01日

私の足跡 63  中山道をゆく 10  深谷宿~日本橋


私の足跡 63  
  中山道をゆく 10  深谷宿~日本橋  約45km

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  青色の線は前回までの部分  赤色の線は今回の部分

 いよいよ埼玉県に入る。この付近より、都心が近付き開発が進み、中山道の昔の面影を残している所がめっきり減り、遺跡を町の人に聞いても知らないと答える人が多くなった。


 前回の最後の宿「深谷宿」を出て、「熊谷宿」へ。
 熊谷宿は、熊谷次郎直実の出生地で、ここにある高城神社が熊谷氏の氏神。熊谷寺には直実の墓と伝えられる宝筺印塔がある。熊谷次郎直実と言えば、源平合戦の時の平敦盛との悲話を思い出す。直実のような優しい心を全ての人々が持てたらといつも思っている。
 二人(直実と敦盛)の霊は 真言宗の聖地・弘法大師が入定されている高野山の奥の院で二人が並んで供養塔として祀られている。今までに、二人はどんな話をしているのかとお参りするたびに思っている。
 
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  熊谷はかつて忍藩(現行田市)領で、忍陣屋があった。今でも陣屋通りがあり、陣屋跡がある

  次は、鴻巣宿へ。ここは、江戸時代に京都の伏見人形師が移り住み、作ったのが始まりで、その後 豪華な衣装をつけた人形が作られるようになり、今でも人形店が軒を並べている。

  次は、桶川宿である。「桶川臙脂」の産地で、その紅花の大半は中山道を通って京都に運ばれた。

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 街道沿いには、古い家もかなりある。紅花を大規模に扱っていた商家。

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 この上の写真は 桶川本陣跡で大きな門がある。何度か火災に遭ったそうだが、当時の本陣遺構の一部が現存している。下の写真を参照。
 この本陣は、代々府川家が勤め、加賀・前田家をはじめとする参勤交代の大名たちを迎え、1861年の皇女和宮の江戸下向の時にもここに宿泊されたとある。

 次の「上尾宿」は都市化が進み、昔の面影を残す建物が少なかった。 
 

  次の宿は「大宮宿」。江戸時代は、脇本陣の数が9で数では中山道では一番多い

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 今は、人と車でごった返す街道沿いには、ビルの谷間に、瓦屋根の履物屋や八百屋等も見える。
 
 今の浦和は大都市だが、浦和宿の江戸期の人口は現在の埼玉県下9宿中の7番目であった。       

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 浦和宿では、二と七の日に市が立ち賑わっていた。市場通りに野菜を売る女性のブロンズ像があり、当時の風情を味わうのに役立った。

 次の「蕨宿」は 近代化された町の中にも風情のある家もチラホラとある。
 
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 蕨市立歴史民俗資料館と蕨本陣がある。この本陣跡は、一の本陣とよばれた岡田加兵衛の本陣で、昭和48年に建てられた。内部には宿泊した諸大名の一覧表があるらしい。


  そして、県境の荒川を越えると東京に入る。昔は、江戸を護るために橋をかけずに、戸田の渡しを渡った。
  そして、しばらく歩くと有名な「縁切り榎」がある

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  小さな祠も見られ、奉納された幟がたくさん風にはためいている。江戸時代、この辺りには樹齢数百年の立派な榎が生い茂り、枝が道を覆うように張っていた。いつの頃からか嫁入りや婿入りの行列がこの下を通ると、不縁になると恐れられ、この木を誰言うことなく「縁切り榎」と呼んだ。
 幕末に和宮が徳川家茂に降嫁の時は榎にコモを捲かれたという。
  
 板橋にある橋は江戸時代のは、長さ9間・幅3間の緩やかな太鼓橋だった。その後、何度か建て替えたが広重の浮世絵のような形の橋であったが、昭和47年にはコンクリート橋になった。でも、欄干に木目模様を施し、宿場の雰囲気に合わせている。
 中山道に旅立つ人は、わざわざ日本橋に行く人もなく、板橋から出発し、見送る人も迎える人もここまでが普通であった。したがって、酒楼や茶店も多くあり、遊女もいて賑わいは中山道第一であったらしい。
 
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  板橋宿は中山道最初の宿である。江戸四宿の一つで、東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、奥州街道の千住とともに有名である。でも、都市化が進むにつれて、当時の面影がなく、この本陣跡もマップにあるのて゛地元の人らしい人達に尋ねたがわからず、5人目位でやっとわかった。無理もなく、入り組んだ玄関脇にあった

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  平尾の一里塚跡の近くに幕末に活躍し有名な新撰組の隊長「近藤 勇」の墓所があり、お花が供えてあった。

江戸六地蔵は昔から有名だが、最近賑やかになった巣鴨地蔵通りの商店街を歩いていると「おばあちゃんの原宿」と言われる商店街を歩いて日本橋へ。
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、高岳寺の「とげ抜き地蔵」があった。
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  この寺は、1891年に下谷から移って来たので古くはないが線香の煙が絶えないほど信者が多い。巣鴨地蔵通りの名も、この地蔵さんからきているらしい。本尊の御影の護符を身体の痛む部分に貼るか、水に溶かして飲むと、痛みがトゲを抜くように引くと言われている。丁度熱心な信者さんが痛みを直していただいたお礼にお参りし、地蔵さんの身を清めていた。

 暑い日差しの中を歩いて日本橋へ向かう。 

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 さらに進むと、加賀前田家の上屋敷の跡に建てた東京大学の敷地にきた。有名な東大の赤門は、前田家の御守殿門である。

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 休憩を兼ねて、見学に入る。この時期は夏休みで学生はまばらである。

 しばらく歩くと間もなく、神田明神と湯島聖堂がある。

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 神田明神の境内は広くて立派だった。ここまでの無事にこられたことのお礼をいう。 


  秋葉原の電気街を抜けると日本橋が目の前である。
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 江戸時代は この辺りには伊勢・近江・京都に本店を置く上方商人の「江戸店(えどだな)」が並んでいたらしい。その代表的な呉服屋の大店が「三井越後屋」、現在の「三越」である。
 これ以外にも、幕府は この付近に京都方面から商人を呼んで商いの中心地として賑わしたとある。

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 やっと日本橋に到着。この橋(上の高架橋ではない)は、今日でも国道の基点となっている。
 木造だった日本橋は 1657年の大火から1858年の約200年の間に数十回も炎上している。橋は何度も架け替えられ、現在の橋は1911年に完成した。 
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 そして、この橋の中央部の道路に埋め込まれている「日本道路元標」を見るために、車の通行の隙間を通って行き、写真撮影。

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 日本道路元標を基準にした日本各地への里程標である。(大阪市までの距離は中山道ではない)

この中山道は 温暖な太平洋側を行く東海道に対して、中央山岳地帯を進むのでそれだけ難所も多く、冬は雪に見舞われる過酷な道だったが、川止めがないのが利点とされ、特に女性は中山道を利用する事が多かったと言います。

 
山城の国の三条大橋から近江・美濃・木曽・信濃・上野(こうずけ)を経て武蔵の国の日本橋まで、百三十五里三十二丁(約533.9km)、中山道69宿。東海道よりも約40km長い道程を夜行列車・バスで行った日等も入れ、約30日の日数をかけてやっと辿り着いた。

 その間、仲間の励ましや 地元の人達の暖かい励ましを頂き、無事歩き終える事ができました。感謝・感謝。
 仲間とは、来年は東海道の踏破をするんだと約束して、2007年を終えた。