2010年04月

2010年04月20日

私の足跡 56 中山道をゆく 3 醒井宿 ~ 太田宿

中山道をゆく 3  61次「醒井宿」 ~ 51次「太田宿」   68km 
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  青線は前回まで  赤線は今回のです

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 醒井宿の三湧水の一つ十王水を見て、この清涼な湧水が絶えないことを祈って、4km先の「柏原宿」に向かう。そこには本陣は残っていないが、数軒の古い家屋が残っている。その一つは今も「伊吹もぐさ」を商う「伊吹堂亀屋」で広重もここを描いている。
 店内を覗くと、薄暗くて写真では鮮明ではないが、座った姿でも天井につかえるほどの巨大な福助人形にびっくり。聞くと広重の時の人形とはちがい、二代目らしい。
 福助とは、もともとこの亀屋にいた番頭で、その働きぶりによって商売が繁盛したので、その人形が全国に広まったらしい。
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醒井宿から「柏原宿」までは4kmでその宿の長さは1.4kmもある大きな宿場である。ここを出ると、珍しい楓並木があった。
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途中、近江と美濃との国境がある「寝物語の里」である。国境である細い溝を挟んで、美濃側に「両国屋」、近江側に「かめや」という二つの旅館があり、寝ながらにして他国の人と話ができてことから、「寝物語の里」と呼ばれている。(昔は今の県境と違って、自由に行き来がむつかしかった。)義経を追った静御前が美濃側から聞こえてくる声に気づいて源氏の家来と再会できたと話も残る。
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柏原宿から「今須宿」までは4kmで小学校の前庭に本陣跡があり、昔の面影が少なかった。
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今須宿から「関が原宿」までは4kmで途中に不破関跡がある。越前の愛発、伊勢の鈴鹿と並ぶ古代の三関所の一つで不破関資料館があった。
 関が原宿では、初めは資料館で学習した後、地図をたよりに小早川の陣地はどこかとか現地見学をした。
 上の図は、当初の家康の陣と言われている所。今は松並木も残っている。
 下の図は、西軍の武士の首を洗い、埋めたといわれる「東の首塚」である。
 時間をとり、見学したが楽しい一時を過ごせた。 
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関が原宿から「垂井宿」までは6kmで、旅籠屋の亀丸屋が有名だ。一部に当時の姿を残しながら、今も営業をつづけている。
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垂井宿から「赤坂宿」までは5kmで 本陣跡等随所に昔の面影を残している。
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 赤坂港跡には、当時の常夜灯が残っていた。
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赤坂宿から5kmの所に 皇女和の宮記念公園の「小廉紅園」がある。
 落ちてゆく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ
和の宮が川を渡る時、この土地の紅葉の美しさを詠んだ歌が残っている。豪華な大行列の降嫁の一行は1861年10月20日に京都を出て、6日後の26日に加納に泊まっている。私の旅に比べてすごい速さである。
 和の宮が「身は武蔵野の露と消ゆとも・・・」と悲壮な決意で向かった幕府は、その六年後に倒れた。
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赤坂宿より9kmで「美江寺宿」に到着。もともと大きな宿ではなかったので見るべきものが少なかった。
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美江寺宿より5kmで「河渡宿」に到着。ここは、小さな宿場で今も見るべきものが少ない。馬頭観音堂として親しまれている愛染堂がある。この堂は天保期に建てられて以来、四度の移転・再建を重ねているが、地元の人々の厚い信仰に寄って守られている。
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この近くに長良川が流れており、大水のの時の川止めで旅人を苦しめていた。
 今は、小紅の渡しが現在も運行されている。運休日をさけ、街道を離れ、鏡島弘法の裏手から川岸に出て、対岸の小屋に向かって手を触れとあったのでそのようにすると、向こうから船頭さんが迎えに来てくれた。
 小船に揺られてのんびりと清流、長良川を渡る。私一人のためで気の毒だった。それも観光でなく、昔の「中山道をゆく」の一部である。なんと素晴らしい旅であると思った。
 船頭さんの話では、日に10人程度だが、鏡島弘法の縁日には数百人の利用があるそうだ。公営の渡し場なので船賃は不要とのこと。街道歩きで初めて船を利用させてもらい、すごい体験をさせてもらいお礼を言い、別れる。
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河渡宿より6kmで「加納宿」に到着。枡形がそのまま残っており、曲がりくねった町である。本陣の碑のみが残っている。
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加納宿を、少し過ぎると天保期の道標と鏡岩濱之助という関取の碑がある。
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加納宿より17kmで「鵜沼宿」に到着。本陣跡・坂井脇本陣跡付近に上の看板があり、芭蕉は鵜沼を訪れるたびに坂井家に滞在し、いくつもの句を残しているらしい。
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大安寺橋は、欄干や常夜灯が江戸時代風に作られ、宿場町の雰囲気を出すのに一役買っている。
 濃尾平野一帯の宿場町は、明治二十四年の大地震で壊滅的な打撃を受けており、江戸時代の建物がのこっていないのもいたしかたのないところである。
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鵜沼宿より8kmで「うとう峠」を通り、今回の最終地「太田宿」に到着。この宿の本陣跡は門が残るのみだが

2010年04月10日

私の足跡 55  中山道をゆく 2 守山宿 ~ 醒井宿

 中山道をゆく2 67次「守山宿」 ~ 61次「醒井宿」  約68km IMG_1920
地図の青色の線は前回歩いた所 赤色の線は今回歩いた所 nakasendo3 164
守山宿から武佐宿までの約7kmの所に「平宗盛終焉の地」がある。平清盛の子であり、平家最後の総大将であった平宗盛は、息子・清宗とともに壇ノ浦で敗れて、義経に捕らえられ、京都に近いこの地で首をはねられ、首だけが京都に運ばれ、胴体はここに埋められた。平家が滅亡した地は壇ノ浦ではなくここ野洲町であるという説明板が立っている。  少し行くと、義経が鞍馬山を出て、奥州に向かう途中、ここで前髪を落として元服した所とある。 nakasendo3 160
守山宿から約14kmで「武佐宿」に到着。ここは400年以上前の商家である大橋家。唯一今も営業を続けている旅籠(料理旅館)の中村屋等の建物があり、当時の雰囲気は充分ある。 nakasendo3 150
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武佐宿から約7kmの所に近江商人発祥の地といわれる五個荘の町並みがある。 近江商人博物館などいくつかの施設や旧邸があり商人文化を知ることができた。 nakasendo3 146
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武佐宿から約10kmで「愛知川宿」に到着。この宿の街道筋は現在商店街になっているが昔を偲ぶ建物もある。ポストは現役である。 nakasendo3 128
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愛知川から約2kmの所に丸紅・伊藤忠商事の創設者である伊藤忠兵衛の生家がある。伊藤家は代々呉服の行商をしていたが、伊藤忠兵衛が大阪で近江麻を扱ったことから成功し、発展をとげたらしい。 nakasendo3 117
昔ながら提灯屋など古い町並みが続き、左手に当時の表門を残す本陣跡が見える。 nakasendo3 112
愛知川から約8kmで「高宮宿」に着く。ここは、多賀神社の入り口で、1633年に建立された高さ8mの大鳥居がある。 nakasendo3 110
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小野小町と言えば全国的だが、ここに小野小町の出生地だと言われるところがある。 IMG_5517
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高宮宿から約6kmで「鳥居本宿」である。ここは、静かで落ち着いた雰囲気の中に情緒の残る町です。 この建物は200年前の物で格子窓のついた二階部分は当時の姿を残している。300年前の十辺舎一九も記した健胃薬を今も販売している。 IMG_5527
 鳥居本宿から約2kmで中山道第一と言われる琵琶湖の見える展望の良い所でその名前は「摺針峠」という。「針になるまで」と言って石で斧を研いでいた老人を見て、青年僧が自らの意志の弱さを恥じ、以後修行に励んだという故事に由来しており、この僧が弘法大師であるという。 IMG_5589
 摺針峠から約4kmで「番場宿」に着く。ここに蓮華寺があるので寄ってみた。1333年京都合戦に敗れた六波羅探題・北条仲時一行がここでの戦闘にも敗れ、430余名がことごとく自刃するに至った。境内の大小の五輪塔の群は、当時の住職が彼等を弔ったとある。冥福を祈って立ち去った。 IMG_5597 久禮の一里塚
久禮の一里塚である。 IMG_1905
今回最後の宿「醒井宿」までは、約6kmです。

2010年04月06日

私の足跡 54  中山道を歩く 1  

 4月1より、私のブログがライブドアに変更したので、しばらくブログを公開することが出来ず、迷惑をかけましたことを深謝申し上げます。今後は、皆さんに喜んでもらえるようなブログになるよう努力します。

中山道 001

 2008年3月よりその年の年末までに延べ約30日をかけて京都の三条大橋から江戸の日本橋までの534km・69宿を歩いた。皇女・「和の宮」と同じように「東くだり」で行ったが季節や行事により順には行かなかった。3年前の記事なので、記憶も薄れて資料も乏しいので内容が希薄にならないように努めます。
 
中山道全体 005

 中山道を歩く 1 三条大橋 ~ 67宿「守山宿」       約31km 
 
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 鯖街道と同じように「高山彦九郎」氏に見送りをしてもらい長い旅の出発をする。

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 しばらく歩くと、亀水不動があり、亀の口から井戸水が落ちていた。
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 峠上には「逢坂の関跡」の碑があり、これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関 と蝉丸が詠んだ逢坂の関である。古来より多くの旅人がここで出会い、すれ違い、そして別れていったのだろう。
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 蝉丸神社上社と下社があった。祭神の蝉丸は謎の多い人物だが、盲目の琵琶の名手であったと言われ、百人一首にも歌を残す歌人としても知られている。
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 京都から10km少しで大津に着く。大津には 大津事件の碑がある。1891年来日中のロシアの皇太子に警備の巡査が切りつけた事件。
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 少し行くと木曾義仲と松尾芭蕉が眠る義仲寺がある。平氏を破って入京しながら義経らに討たれた悲運の武将・義仲。彼の葬られたこの地に側室・巴御前が庵を結んだことから寺は巴寺ともよばれていたが、後に義仲寺となった。
 芭蕉は、義仲を偲んで何度もここに宿泊し、大阪で没する時も「骨は木曾塚(義仲寺)に」との遺言を残し、この地に葬られたと言う。

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 大津から約15kmで草津宿です。東海道と中山道の分岐の追分である。二つの街道の合流する草津宿は、規模も大きく、本陣2 脇本陣2 旅籠70軒余を擁した。追分の近くには、その本陣の一つが当時の姿をほぼとどめたまま公開している。立派な構えの門もある。
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 現存する本陣としては、最大級といわれるだけあって内部も広く、上段の間や湯殿、広間など一通り見るだけでもかなりの時間を要した。でも、価値ある時間であった。
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 「守山宿」が近づくと、均整のとれた近江富士と呼ばれる三上山が見えてきた。宿場内には古い家並みが比較的残っている。ここは 健脚の人は「京発ち 守山泊まり」で宿泊地として賑わったらしい。