2009年07月

2009年07月15日

私の足跡 38 熊野街道 滝尻王子~本宮大社

Ⅳ 滝尻王子から本宮大社まで

今回は 中辺路の最終で、ゴ-ルは熊野本宮大社だ。メンバ-はU氏F氏の3人で一泊二日にした。(今までは、日帰りの計画だったが熊野は自宅から歩き初めの所まで 遠く離れて往復に時間を費やす.)
 田辺から3人でタクシ-に乗る。(バスの待ち時間が不要で 3人だと値段も安い)
 滝尻王子からスタ-ト。いきなり、急登が始まる。
 しばらくすると、胎内めぐりの大岩や奥州藤原秀衡にまつわる伝説が残る乳岩がある。
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 不寝王子跡を過ぎ、剣ノ山を越えると急登も終わり緩やかな登りとなり、
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 しばらく歩くと楠の大木に囲まれた「高原熊野神社」に到着。春日造りで室町前期の建物で中辺路最古の建築と言われている。





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 その先の休憩所からの眺めはスバラシイ。前方は 水車のある棚田の向こうに果無山脈の山並みが続き、見晴らしは抜群。以前、小辺路を歩いてあの山を越えて来た時の様子を思い出す。
 アムネスティで有名な女史の家も見える。
(名前は 意図的に書かない)
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 出発をし、集落を抜けると欝蒼とした杉林の中に見事な石畳が続く

 小判をくわえて死んでいた巡礼者を供養した「小判地蔵」があり、この中辺路の中での最高地点(悪四郎山山頂近く)を過ぎ、下っていくといったん国道に出るがすぐに山中に入る。
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すると、中辺路のシンボルにもなっている「牛馬童子像」等のある箸折峠に到着。ここは、バス停から近いのと中辺路のシンボルだから観光客も多い。
 だが、2008年 6月何者かに破壊された。別の場所だが そのレプリカが2009年 6月何者かに破壊された。世界遺産のマスターになっている私たちにも こんな問題をどう解決すべきかが課題だ。 少し下れば 近露王子跡があり、熊野詣での宿場として栄えた近露の集落に入り、国道にも出る。

 集落のはずれには、南北朝時代に後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王を助けた野長瀬一族の墓地がある。ここから、一時間少しの登りで継桜王子社に着く。
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ここには、枝が一斉に南を向いた「野中の一方杉」がある。また、藤原秀衡の伝説による「秀衡桜」や「野中の清水」が近くにある。
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 もう一つこの近くに「とがのぎ茶屋」が昔の面影を残して現役を続けている。
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 小広王子に着いてから国道に出て、バスで湯の峰温泉に行き、小栗判官で有名な「つぼ湯」を見学し 温泉卵を食べ宿舎へ。


 翌日、バスで小広王子へ行き、そこから歩き始める。
 
 しばらくすると、中辺路で最も険しい地域に入る。
 下りの女坂・登りの男坂があり対で夫婦坂 そして谷間にあった茶屋は仲人茶屋といわれたそうで昔の人のユ-モアが伝わる。

 その後、悲話のおぎん地蔵とか蛇形地蔵が祀られていた。









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この付近は 山中で昔の面影をよく残しており、湯川王子跡を過ぎる


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   やっと、五体王子の発心門王子に着く。本宮聖域の入り口とされ、かつては人々はお祓いをしてから大鳥居を潜ったといわれる。


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 ここから、今回のゴ-ル・熊野本宮大社に一時間半ほどで到着。バスに乗り、田辺へ。

今回の街道歩きは ト-タル約250Kmである

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今回は ピンク の色の線です。

今まで、熊野を中心にしたウォ-クを書いてきたが、ここでしばらく熊野から離れたウォ-クを書くので「熊野信仰について」書いておくことにする。

 熊野三山(本宮・新宮・那智の大社)が歴史上に名を高めてくるのは、平安の中期から鎌倉時代の後半にかけて頻繁に行われた熊野御幸による。
 当時、俗化した既成宗教に飽き足らなくなった皇族や貴族たちは、厳しい山岳宗教に現世の救いを求めた。
 熊野三山への信仰は、古代人が祖霊が棲むと見た山や水や滝や石に抱いた素朴な畏怖心から発している。その原始信仰に、渡来してきた仏教が加わり、さらに、神道でも仏教でもない野生を帯びた熊野修験道と混沌とした重なりをみせて一つの浄土思想を形作っていく。そんな熊野をこの世の浄土の地と感じた皇族ゆ貴族達が聖地への憧れを掻き立てたてながら極楽浄土にいたる険しい山谷を踏み登ってきたのである。 
 古い記録によれば、延喜七年(907年)宇多法皇からはじまった熊野御幸は、弘安四年(1281年)の亀山上皇まで百回を越えたらというからスゴイ。それに、これらの御幸は千近くの人馬を従え一日の食料16石だったらしい。
 熊野信仰とは、難行苦行の同義語にはほかならない。熊野は、地の涯 隈野
(熊野)であり、那智は、難地(なち)の謂でもあろう。

 熊野信仰の旅は、時代につれて武士階級、庶民へと広がっていき、すさまじい信仰ぶりだった。江戸中期の享保元年(1716年)田辺の宿泊所に泊まった参詣人は6日間に4776人、一日約800人というおびただしい人である。まさに「蟻の熊野詣」である。
 そんな地の涯の熊野三山が、今日では想像もつかない狂熱的な信仰を集めたのは、熊野権現が[浄・不浄を問わず、貴賎にかかわらず、男女を問わず]に受け入れてくれる神であったからだ。その信仰は、当時の人々の心を激しくゆさぶり、蟻の熊野詣といわれるほどの庶民男女の群れが、はるか山河を越えて聖地・熊野に向かった。
 
 


 次回からは 先日やっと歩き終えた伊勢街道(和歌山街道)を書きます。



2009年07月01日

私の足跡 37 熊野街道 田辺~滝尻王子

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Ⅲ 今回は 熊野三山への入り口なので「口熊野」ともいわれる田辺から滝尻王子までの約24Kmを2日間かけて歩いた記録を記します

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 田辺では 前回 ナショナルトラスト運動のきっかけとなった天神崎を書きましたがもう一人忘れてはいけない人がいます。その人は わが国で最高の粘菌学者で世界でも知られ、自然保護にも尽力された南方熊楠である。南方熊楠が眠る墓は高山寺にある。日本の大学では物足りず、海外でも研究した。十八ヶ国語に精通し、知人も多く、中国の孫文や昭和天皇もその中に含まれる。神坂次郎著「縛られた巨人」参照
 
 「南方熊楠」「天神崎の自然を大切にする会」の拠点となった田辺は、地球規模で自然環境の危機が叫ばれている今日、再び自然回復運動の推進役となり、先頭を切っている団体がある。その一つは、「いちいがしの会」である。2002年 自然環境功労者環境大臣賞受賞。
 杉・ひのきの人工林による森林破壊がもたらす危険性を長年にわたり、訴え続けている地元の生物研究家後藤伸さんを中心に、100年先を見据えた壮大な計画で、熊野の森の再生に乗り出している会です。
 「今日の森林破壊は、過去50年の結果であるとすれば、元の自然をとりもどすには、その5倍も10倍もの年月がかかるかもしれません。しかし、今取り組まなければ、自然の回復は、もはや夢に終わるでしょう。私たちと手を取り合って、多種多様な多くの樹々を育て、西南日本の原点といわれる[熊野の森]を復権させる人の輪を、少しずつでも広げていきませんか。21世紀以降に続く私たち子々孫へのメッセ-ジとして・・・・・・。いちいがしの会(原文のまま)
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   いくつかの王子社跡を通り過ぎながら 一路ゴ-ルを めざす。

 田辺を出発する時、出立王子の近くで潮垢離をして、出発したらしい。
 古道は下三栖へ向かうと白鳳時代に建てられたらしい三栖廃寺塔跡(国指定史跡)があり、礎石が残っている。 
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 「安珍・清姫」の清姫の墓がある。安らかに眠っていることを祈る。

 八上神社が八上王子跡だ。西行の句碑がある。
 西行は 鳥羽院に仕える文武両道に秀でた北面の武士だったが出家して歌人として生涯を終えている。白州正子著「西行」に詳しい。

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 稲葉根王子宮の近くの富田川に水垢離場跡の石段が残っている。御幸の時代
水垢離・潮垢離をして罪や穢れを流し、心身共に清新な身体でお参りをした様子がわかる。
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 そして、今回の終わりの滝尻王子社に到着。 今回距離は短かったが歩き初めの地点まで時間がかかり、2日間かかる。
 

 この滝尻王子は 五体王子の一社で上皇らは歌会や神楽を奉納した。
 近くに熊野古道館があったが開館時間に合わず残念だった。

 この間、約25Kmです。五体王子の1社・王子社の数7社です。