2009年01月

2009年01月20日

私の足跡 26 高野山から熊野へ 野迫川~十津川

 第一部   高野山から熊野へ

総延長  約 100Km      総延べ日数 6 日

NO 1  野迫川(大股)から十津川まで   距離 40km 日数 3日

 
 「高野山から熊野へ」を最初に選んだのは やはり世界遺産の「紀伊山地の霊場と参詣道」を歩きたかったからです。
 その為には 小辺路をどのように歩いて熊野まで行くか考えた。高野山から熊野までは普通3泊4日が必要です。ところが2泊目の三浦地区には現在は宿泊所がない。そこをどうするかが悩みの種だ。(勿論、三浦から約8kmを徒歩で宿泊所まで歩けばよいが)
 但し、2008年に宿泊所ができた
 いろいろ考え、友人に相談していると一度電話してみたらという所を教えてもらった。そこは、以前 民宿をしていたか゛今は営業者は年をとり、営業していない所。
 電話をすると食事の世話はできないが泊まるだけならという返事。早速お願いする。
 本来なら、3泊4日を連続して行きたかったが都合により、高野・野迫川を後にして、先ず 野迫川から本宮までの2泊3日を行くことにした.

 2005年10月 8日~9日    53Km
一日目

 K氏M氏と家を6時半に出、3人で高野山上へ。車で野迫川の大股に向け 出発。
 出発前より降っていた雨が一段と激しくなり出発地の北俣ではひどい雨。雨具をつける所もない。ふと見ると公衆便所。その中に飛び込み雨具をつける。
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 出発(9:00)をするとすぐに急登が始まる。幸いなことに雨が小降りとなり始める。 
、高度を約200m上げ菅小屋跡へ1時間足らずで。そこから1時間足らずで桧峠へ。雨はどんどんあがってきた。そこから約1時間で伯母子峠。img20090122_2.jpgそして約10分少々で本日の最高地点「伯母子岳頂上」(1344m)へ。昼食をする。
 雨はやっとあがり、コ-トを脱ぐ。頂上には、四方に見える山々の説明した物があったが、もやって何も見えず残念だった。img20090121_4.jpg







 頂上直下に 山小屋があった。(三浦峠を利用できなければ この小屋を利用して2泊3日の行程と一時は考えたこともある。)トイレも新しく綺麗だった。


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 雨がやや小雨になったり、止んだりだ。落ち葉の道で気持ちの良い所もあったがあちこちに崖下何mという所もあり、緊張する。 この小辺路は どの携帯電話も通じないので緊急の場合心配だ。
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 上西家から約1時間足らずで、上西家跡に着く。建物はないが石垣の大きさからみると相当でかい屋敷であったことが判る。トリカブトの花が群生していた
 そこから約1時間足らずで「弘法大師坐像」に着く。今回の旅も無事で終れるようお祈りした。頂上から、標高も約400m下がってきた。img20090120_2.jpg
 そこから約1時間少々で「伯母子岳登山口」へ。約4kmで高度を約500m下る道で雨の後で石畳の石が滑りやすくて マイッタ。

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 そこから、少しで五百瀬の宿泊所へ。宿の人は相当な年恰好だ。(幸いなことに、嫁いでいる娘さんが偶然 帰ってこられていたので助かった)    
 風呂も入れてもらった。そして、交渉しておいたようにその家が使用しているガスコンロとなべを借り、持参したレトルトの食品をお湯の中に入れ、豪華?な食事をして、熟睡した。(宿泊料 4000円)

二日目

 朝早く起き、朝食の用意をし、食後 出発。ありがたい事に、雨があがっていた。                                
 本日の予定は、三浦峠を越え、十津川温泉までだ。img20090122.jpg
 早速、標高 約300mの五百瀬から約1000mの三浦峠(距離は 約4.5km)への登りが始まる。この急登を2時間少々で登る予定。頑張ろうと自分自身に気合を入れる。img20090122_1.jpg






  出発後、急登だったが民家の間を通り人々と声を交わしながら約30分で大杉の防風林に囲まれた「吉村家跡」に予定通り到着。家の跡もないが庭木だけが残っていた
 丁石が所々に残っているので目標となり、歩きやすい。dscf3240.jpg
 そこから更に約30分少々のキツイ急登をすると「三十丁の水」に到着。美味しい水をしっかり頂く。dscf3255.jpg









お水で元気が出たのでがんばり、予定より速く30分で三浦峠へ。標識が多くあり、休憩をしたが、ただ林道と合流しただけという感じがした。木が多く、見晴らしもよくない。 
 すぐに、下山し始める。防護柵の間の細い道等の約30分で「古矢倉跡」に着く。dscf3278.jpg地蔵菩薩坐像もある。
 そこから約30分足らずで「出店跡」に到着。ここで、新道と旧道に分かれていたので旧道をとる。途中より、今西の集落が見えた。五輪の塔もある。dscf3298.jpg












 この小辺路は 丁石・石仏とかの標識やいもせ小学校の児童のかわわいい標識があった。 それに同じ規格で、距離もいれた標識等でどんなに元気づけられたことでょう

「出店跡」から約1時間足らずで「矢倉観音堂」到着。ここから、約30分は急な下りの連続だったが、昨日に比べ、食料などの荷物がへったのと、天気も良かったので標準時間より速く歩け、予定より早く12時すぎに「西中」に到着。車道を約30分で川合神社へ。そして、福田寺跡。そして、販売店の横の石段と道を登ると「大津越大師堂」へ寄る。旅の安全を祈る。
 「昴の郷」を過ぎて、三叉路を左へ。宿舎は宿泊費が格安ということでここから1時間近く歩く。dscf3383.jpg
 ここを歩いたため、観光用の「野猿」に乗り、楽しむことができた。川幅約200mほどを「野猿」に乗り川を往復できる。(但し 有料)
 この「野猿」は車の普及していない時代は これを利用して対岸との行き来に利用した物で当時は欠かせないものだった。
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 宿舎着、16:00。今夜は、ホテルの風呂・ホテルの料理で何かホットする。
 今夜は昨日のレトルトの豪華な料理?とは違い、まさに豪華な夕食と水分補給で疲れを癒す。そして、ゆっくり熟睡。





2009年01月15日

私の足跡 25 橋本~高野山~熊野本宮~那智 

  <>新年を迎え、よいお正月をお過ごしのことと思いす。
 今年も 私のブログを愛読していただくことをお願い申し上げます



   昨年1年間は、「私の足跡」のうち、登山の部を記しましたが、今年は街道
 歩き 等の「ウオーキングの部」を記します。

   私のウーキングの主なものは下記の通りです。

    1  日本海から鯖街道・京 大阪道・熊野街道を通り太平洋へ。
    2  中山道の全宿場に足跡を残す。
    3   東海道492km完全走破。
    4   伊勢街道を歩く。
    5   葛城修験道を歩く。
    6  四国遍路を歩く。
    7   その他


上記のウオ-キングの全ては 、一度に歩き終えたのではなく、何度も出かけ
到達したものばかしです。  



    日本海から鯖街道・京 大阪道・熊野街道を通り太平洋へ 


 17年7月に 日本で12番目に世界遺産に登録された「紀伊山地の霊場と
参詣道」の近くに住んでいる。この「紀伊山地の霊場と参詣道」を最初に記し
ていきます。
 近くに住んでいたというのが第一だが,登山などにも興味があったので、
上記の世界遺産の一部・「高野山の町石道」の語り部の講習会を受け、そ
この語り部を現在も続けている。
 このスバラシイ「高野山の町石道」を、後々の世代の人達にも愛し続けて
欲しいという願いから世界遺産マスタ-になり、美化に勤めたり、簡単な補
修を自分達の手で行い、手におえない事は連絡をして修理してもらい保全に
勤めています。
 また、「町石道」の周辺の杉林の間伐をするときは手伝いにも行きます。
 
 ここで、町石道について簡単に記してきます。機会があれば是非歩いてく
ださい。

 弘法大師は、816年に嵯峨天皇の許しを得て、高野山を真言密教の道場
として開いた寺です。御年42才の時です。
 生活の拠点・京都から高野山へは、和歌山の慈尊院をへて、高野山へ登る
道を作った。これが町石道です。
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「高野山の町石道」は九度山から高野山の壇上伽藍までの距離約20km     標高差約800mをお客さんの脚力にもよるが約7時間かけて登る道です。
 当初、弘法大師が開いたといわれる道で、初めは 木の卒塔婆だったが、
鎌倉時代に一町(約109m)ごとに花崗岩の町石卒塔婆を180基を揃えた参
詣道です。(参詣道では、世界遺産の二例目)

 出発地の慈尊院は、当初 高野山の政所であった。
 弘法大師の母親が息子の修行している様子を知りたく、晩年ここで過ごし、
終焉している。(国宝 弥勒菩薩がある。) 世界遺産になっている。
 この町石道を長い間 上皇・貴族・武士・庶民が極楽浄土に導かれますよ
うにと祈りながら登った道です。苔むした180基の町石道のそれぞれに歴
史の重みが感じられ、約700年以上もの間に、幾多の人々を見送ったこと
と思うといろんな思いがします。町石ばかりでなく、道端の木々・草木にも
同じ思いがします。
 この道は 本来、祈りの道だと思いますが、登る人によって思索の道かも
知れないし、ただ単に語らいの道などいろいろあると思います。
 そして、江戸時代までも続き、南海電車が高野山まで通じるまでおおいに
賑わった道です。その道が現在も残り、当時の町石卒塔婆も殆んど残り(な
くなっていた石は大正時代に殆んど補充)、世界遺産にされている。
 途中の天野に、高野山と深い関わりのある丹生都比姫神社(建物の一部
重文)があり、ここも世界遺産になっている。
 ここ天野の里は、西行の奥さん・娘が尼さんになりここに住み、墓もある。
また、横笛が恋人の滝口入道に会いたくて京から天野にきて待ち続け、18
才であの世へいった等話題も豊富な所です。
 60町石より上には「鞍架け石」「押し上げ石」等弘法大師に関わった石が
残っている。

  今までに、北は北海道の夫婦が四国遍路を終え、高野山に参る時に案内を
した。

 また、南は、沖縄の教員が休みを利用して、近畿地方の世界遺産をめぐる時
に案内した。
 新潟や大分県の「山好きの会」の団体も案内した。

 このように、日本各地のいろんなお客さんを弘法大師の霊場へ案内している。
 その中には、小学生の団体がいたり、大学生のグル-プもいました。

img20090116.jpg  img20090116_1.jpg
  









img20090116_2.jpg  img20090116_3.jpg


 







  町石道には四季の顔がある。
    
    初夏には、花々に囲まれ 新緑の木々に覆われた町石道。 
    
    秋には、紅葉の葉に覆われ紅葉の葉を踏みしめて登る町石道。

    冬には真っ白な雪の道を踏みしめて登る町石道。

    どの季節もスバラシイです。
img20090116_4.jpg    img20090116_6.jpg








     
             ささ百合                                                                               

                                    白糸草の群落

img20090116_5.jpgimg20090116_7.jpg










       カラスウリの花                                                                               
                        
                                    はないかだ


   特に 初夏には花々が満面に笑みをたたえ、私たちを迎えてくれる。



 上記のように、「高野山の町石道」に関わったことから、白河上皇や鳥羽上
皇等の皇族や藤原道長等の貴族たち それにたくさんの庶民が 何度もお参り
に使った道を歩いてみたくなった。
 先ず、高野山から熊野神宮を経て 那智大社へ。  
 次は、京都から日本海の小浜までの鯖街道
 最後に京都から大阪を経由して高野山への道。 を記していきます。
img20090116_9.jpg
 
   地図は不鮮明なので補足します。   
  日本海の小浜から京都までの鯖街道。京都から大阪までの京・大阪道。
  その途中の八幡から河内長野までの東高野街道。
  大阪から堺・和歌山・田辺を通り、本宮までの熊野街道。
  この途中の堺から河内長野までの西高野街道を通り、橋本から学文路を
 経由して、して不動坂を通り、高野の女人堂へ。
  この道の学文路から九度山経由で高野山町石道を通り高野山の大門へ。
  高野山から小辺路を通り、本宮へ。
  そして、小雲取越・大雲取越を通り、太平洋の那智に至る。
  また、田辺から串本を経由しての大辺路と伊勢と那智とを結ぶ伊勢街道
 がある。