2009年08月01日
私の足跡 39 伊勢街道 和歌山県
伊勢街道(紀州街道)を歩く。
今までは、紀伊半島を南北に縦断して歩いていたが、今度は紀伊半島を東西に横断することにした。即ち、和歌山市から奈良を経由して三重県の伊勢市への道である。
上の地図では 黒い線です。
伊勢街道といえば、大阪市より奈良を通り伊勢に行く「伊勢本街道」の方が有名であるが、和歌山県在住の者として、この「和歌山街道」(この道はいろんな呼び方があるが1876年に統一した)を通ることにした。
この道は ほぼ一直線で 東西に走る地溝帯(平地)を利用した自然発生的な通路といえる。 紀州の殿様の参勤交代の道であった。 (江戸中期より、大阪・京都経由に変わっている) また、本居宣長の通った道でもある。また、紀州の人々が伊勢詣に使った道でもある。また、生活の道でもあった。
地理的には 「中央構造線(フォッサ・マグナ)」と呼ばれる「大断層線」の通っている所でもある興味深い道でもある。
総距離は 約 180kmを7日間を費やし 伊勢神宮に到着。
Ⅰ 和歌山市から橋本市の隅田まで (和歌山県) 約50Km
一日目
和歌山市からかつらぎ町の笠田まで 約30Km
和歌山城の北方にある京橋門跡よりスタートする。今は時代も変わって昔の面影もないが標識のある所を出発する。
地名にも 江戸時代の城下町の大工町などが残っているが古い屋敷の面影を残す建物も残っている。
約一時間程歩くと一里塚跡がある。
現在は この前に女子刑務所があり、多くの受刑者が収容されている。
8Kmほど歩くと対岸に渡る「渡し場跡」が現在の船戸にある。
昔は たくさんあったと思われる旅籠が少しだが今も残っている。
いろんな道標を見ながら、東へ東へと歩を進める。
今、四国歩き遍路をしているが、道標は旅人にとって大切で有難いものかが痛感している。
昔の旅人も、この道標を見て、どんなにホットし 喜びながら旅を続けたことでしょう。
伊勢街道で本陣として昔の面影を残し、見学もさせてもらえる貴重な建物です。 この「妹背家」は 有吉佐和子の有名な小説「華岡青洲の妻」で有名な「かえ」さんの実家です。華岡青洲は1808年世界で初めて麻酔して手術をした人です。何とか人体実験をと思っていた時、母と妻が申し出てその役を果たしたが母は病に、妻は盲目になってしまったが成功したという壮烈な話がある。
今も 華岡青洲が住んでいた建物を復元しているので見学できます。
かつらぎ町に入ると 江戸時代の土木技術の最先端をいく大畑才蔵のすばらしい遺構が残っている。 八代将軍「徳川吉宗」がまだ紀州藩主の時代 藩の財政を立て直すため田畑を拡張するため、大畑に命じて用水路を造った。その技術は、当時としては最先端の技術で見事成功し目的を達して吉宗も喜んだ。
でも、吉宗は八代将軍になり、紀州を離れ、江戸に行くことになった。吉宗は彼をつれていこうとしたが彼は地元にいたいということで残ったらしい。彼が残した遺構が各地に残っている。
今回の終点付近(橋本)にも 江戸時代の遺構が たくさんある。
推定樹齢400年とも600年ともいわれる「十五社の楠」は近畿で一番といわれる大楠木(幹の周りが13m)で笠田小学校を見下ろしている。この小学校を巣立った一万人以上の子ども達を見守っていたことでしょう。そして、これからも・・・・・。
二日目
笠田から橋本市の隅田まで 約20Km
橋本は 縄文土器が残り、古くから人が住み、歴史のある所です。
また、伊勢街道の家並みもあちこちに残つている。
大正時代に JR和歌山線が開通し、高野口は 名の通り高野山への表玄関となり、賑わった時もあったが 南海高野線が開通し、表玄関を譲ってから人が遠のき久しい。
当時、このような旅館が二軒もあり、賑わっていた。
応其には、10里塚跡の近くに白鳳時代の名古曽廃寺跡があったり、奈良三彩の壷が出土したりしている。
橋本では、豊臣秀吉の頃、応其上人が町を開いてから発達した。特に伊勢街道と高野街道が交わり、賑やかな町になった。今も当時の家並みが残り、本陣も残っている。
隅田には 日本最古の金石文として有名な「人物画像鏡」(国宝)を社宝としていた隅田八幡宮がある。
真言宗 西大寺の末寺「利生国寺」がある。本堂は国の重要文化財である。 「大茶盛」もある。
奈良時代は都の人達が和歌山へ行く道(大和街道)となり、万葉集にもうたわれている。特に、橋本 笠田付近に多く残っている。
隅田駅の近くに「あさもよし紀人羨しも亦土山 行き来と見らむ紀人羨しも」の歌が犬養孝の筆になる万葉仮名で刻まれている。
今までは、紀伊半島を南北に縦断して歩いていたが、今度は紀伊半島を東西に横断することにした。即ち、和歌山市から奈良を経由して三重県の伊勢市への道である。
上の地図では 黒い線です。
伊勢街道といえば、大阪市より奈良を通り伊勢に行く「伊勢本街道」の方が有名であるが、和歌山県在住の者として、この「和歌山街道」(この道はいろんな呼び方があるが1876年に統一した)を通ることにした。
この道は ほぼ一直線で 東西に走る地溝帯(平地)を利用した自然発生的な通路といえる。 紀州の殿様の参勤交代の道であった。 (江戸中期より、大阪・京都経由に変わっている) また、本居宣長の通った道でもある。また、紀州の人々が伊勢詣に使った道でもある。また、生活の道でもあった。
地理的には 「中央構造線(フォッサ・マグナ)」と呼ばれる「大断層線」の通っている所でもある興味深い道でもある。
総距離は 約 180kmを7日間を費やし 伊勢神宮に到着。
Ⅰ 和歌山市から橋本市の隅田まで (和歌山県) 約50Km
一日目
和歌山市からかつらぎ町の笠田まで 約30Km
和歌山城の北方にある京橋門跡よりスタートする。今は時代も変わって昔の面影もないが標識のある所を出発する。
地名にも 江戸時代の城下町の大工町などが残っているが古い屋敷の面影を残す建物も残っている。
約一時間程歩くと一里塚跡がある。
現在は この前に女子刑務所があり、多くの受刑者が収容されている。
8Kmほど歩くと対岸に渡る「渡し場跡」が現在の船戸にある。
昔は たくさんあったと思われる旅籠が少しだが今も残っている。
いろんな道標を見ながら、東へ東へと歩を進める。
今、四国歩き遍路をしているが、道標は旅人にとって大切で有難いものかが痛感している。
昔の旅人も、この道標を見て、どんなにホットし 喜びながら旅を続けたことでしょう。
伊勢街道で本陣として昔の面影を残し、見学もさせてもらえる貴重な建物です。 この「妹背家」は 有吉佐和子の有名な小説「華岡青洲の妻」で有名な「かえ」さんの実家です。華岡青洲は1808年世界で初めて麻酔して手術をした人です。何とか人体実験をと思っていた時、母と妻が申し出てその役を果たしたが母は病に、妻は盲目になってしまったが成功したという壮烈な話がある。
今も 華岡青洲が住んでいた建物を復元しているので見学できます。
かつらぎ町に入ると 江戸時代の土木技術の最先端をいく大畑才蔵のすばらしい遺構が残っている。 八代将軍「徳川吉宗」がまだ紀州藩主の時代 藩の財政を立て直すため田畑を拡張するため、大畑に命じて用水路を造った。その技術は、当時としては最先端の技術で見事成功し目的を達して吉宗も喜んだ。
でも、吉宗は八代将軍になり、紀州を離れ、江戸に行くことになった。吉宗は彼をつれていこうとしたが彼は地元にいたいということで残ったらしい。彼が残した遺構が各地に残っている。
今回の終点付近(橋本)にも 江戸時代の遺構が たくさんある。
推定樹齢400年とも600年ともいわれる「十五社の楠」は近畿で一番といわれる大楠木(幹の周りが13m)で笠田小学校を見下ろしている。この小学校を巣立った一万人以上の子ども達を見守っていたことでしょう。そして、これからも・・・・・。
二日目
笠田から橋本市の隅田まで 約20Km
橋本は 縄文土器が残り、古くから人が住み、歴史のある所です。
また、伊勢街道の家並みもあちこちに残つている。
大正時代に JR和歌山線が開通し、高野口は 名の通り高野山への表玄関となり、賑わった時もあったが 南海高野線が開通し、表玄関を譲ってから人が遠のき久しい。
当時、このような旅館が二軒もあり、賑わっていた。
応其には、10里塚跡の近くに白鳳時代の名古曽廃寺跡があったり、奈良三彩の壷が出土したりしている。
橋本では、豊臣秀吉の頃、応其上人が町を開いてから発達した。特に伊勢街道と高野街道が交わり、賑やかな町になった。今も当時の家並みが残り、本陣も残っている。
隅田には 日本最古の金石文として有名な「人物画像鏡」(国宝)を社宝としていた隅田八幡宮がある。
真言宗 西大寺の末寺「利生国寺」がある。本堂は国の重要文化財である。 「大茶盛」もある。
奈良時代は都の人達が和歌山へ行く道(大和街道)となり、万葉集にもうたわれている。特に、橋本 笠田付近に多く残っている。
隅田駅の近くに「あさもよし紀人羨しも亦土山 行き来と見らむ紀人羨しも」の歌が犬養孝の筆になる万葉仮名で刻まれている。
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この記事へのコメント
1. Posted by rocky 2009年08月02日 22:32
「山歩き日記」をご覧いただき、ありがとうございます。先日の立山縦走は20m以上と思われる強風のもと、歩き通しました。花をたくさん見ることができました。雷鳥荘では温泉もあり、感動した次第です。お薦めの小屋ですよ。明日から北アルプスの常念岳から蝶ヶ岳の登山に出かけます。今回はいい天気ではないかと思います。