私の足跡 30 高野山~日本海へ。高野~橋本私の足跡 32 京・大阪道 天満橋~京都三条

2009年04月01日

私の足跡 31 西高野街道 河内長野~大阪天満橋~

 
  2  橋本→河内長野→堺→大阪(京橋)   距離 45km  日数 3日 

 

 橋本は縄文時代から人が住み、遺跡が残っている。
 奈良時代は都人が和歌山の海や温泉等に行くときに使った南海道があり、橋本を詠んだ万葉集が10首残っている。
 平安時代は空海が高野山に真言密教を開くのに通った町です。
 江戸時代の初めからは応其上人が新しく造った町が栄え、この地域の中心都市として栄えた。高野街道だけでなく、大和街道にも遺跡は随所に残っている。

 大和街道は和歌山から奈良を通り伊勢までの道で、ある時期紀州の殿様が行列をつくり通った道でもある。橋本には十一里塚・十二里塚それに本陣等の遺跡もある。
 大和街道は 後ほど紹介するにして、高野街道を歩きます。
 高野街道には十一里塚等の塚はないがそれに変わるものとして堺から高野山まで一里ごとに十五の里石がある。この里石は現大阪狭山市の姓もない百姓二人が旅人の旅を考え発起人となり造ったものです。(十一里塚等の塚は幕府・藩が造った) 
 御幸辻(旧高野街道と新しくできた橋本の町を通る新高野街道の追分)にも街道を思わせる建物がある。dscf9914.jpg
 そこを出てしばらくすると六里の里石がある。dscf9924.jpg



















 橋本から二里で大阪との県境・紀見峠に着く。ここは大阪から来ると紀州が見える峠ということで紀見峠という。ここにも街道の面影が残っている。
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ここからは 車のよく通る道を通ることとなるので七里石を見ると電車の廃線や里道を通って三日市町へ。ここも、昔の面影を残している所だ。八里石も見て、河内長野へ。古い酒造りの家の前を通る。大きな樟ノ木があった。

 河内長野は東高野街道と西高野街道との追分で当時は大いに賑わったことでしょう。東高野街道については後日に記すことにして今回は堺を通り天満橋へ行くことにする。

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途中、中高野街道との分岐もあった。
道中に里石や地蔵尊等があるが説明のないものもあるので時間がかかる。

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  途中、上の写真のように道標が多くあったのでスム-スに進めることができ有難かった。

dscf0088.jpg しばらく道標を頼りに進み仁徳陵の古墳を過ぎて、堺市の市役所横に到着。

 それから大小路橋をめざして進んだが見つからない。何人かに尋ねてやっと見つかる。今は高架橋の下の植樹帯の中に欄干の一部が頭を出していた。

 昔は賑わったであろう大小路橋も今ではこの姿なので時代の流れを感じるねと仲間と話し合う。

 今回の最終地点の高麗橋から出発している紀州街道(熊野街道)が南の熊野方面に通っている。この街道も熊野詣で賑わった道なので後日に記す事にする。今、記している西高野街道はこの熊野街道から分岐して高野山に至る街道です。


 これから天満橋の淀川まであと少しだ。

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 途中、住吉大社や四天王寺にお参りしながら目的地の高麗橋の里程元標に到着。日本の里程元標は東京の日本橋にあるが西日本の道路の起点だ。
 


 














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この記事へのコメント

1. Posted by さいたまのおじん   2009年08月29日 11:10
やっとブログが開けました。
とにかくすばらしいの一言です。

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