2008年03月10日

私の足跡 4 大杉谷 御嶽山 富士山 乗鞍岳 雪の立山 木曽駒ヶ岳 

198?年8月?日

  大台ケ原・大杉谷

 一日目

 職場の同僚F氏等6人と夏休みを利用して、大台ケ原から大杉谷へ。
 一番の列車に乗り、日出ケ岳に登り、昼前に出発。taki_r.jpg最初は石楠花の多い道だった。最初の滝、堂倉の滝で休憩。その後の道は、下りが殆んどで、つり橋が多くなった。  殆んどのつり橋は人数制限をしていた。
 私たちは、少人数だったし、平日だったので、自分達のグル-プ意外の待ち時間はなく、時間の浪費が少なかった。
しかし、その年の秋の祝日に多数の人が登山をし、つり橋で待ちきれずに人数制限を守らず橋を渡った。そのため、ロ-プが切れ、川に墜落という悲しturibasi2_r.jpgい事故があった。 (規則通りに渡れば、時間を要し、後の人は明るい時間に目的地に到着できない。)

turibasi1_r.jpg









 当時、マスコミは、管理している所が悪い、いや、規則を守らなかった者が悪いとの意見があった。わたしはどちらかと言えば登山者の方が悪いと思う。
 ただし、規則を守らず、事故にあった登山者だけではありませんと付け加えておきます。


 事故の事は、これくらいで、私達のその後は、長時間の下りで膝がガクガク。それに、谷間ばかりなので湿度が高く、疲労も多かった。
 やっと、宿泊地の「桃の木小屋」に到着。




miti_r.jpg

 二日目

 翌日、疲労もとれ、元気に出発。しかし、またもや下りの連続
 みんなの疲労度もたかまる。特に仲間の一人の悲痛な叫び声が今も思い出されます。
 予定の時刻に歩き終え、乗り物に乗った時の仲間の表情もおだやかになっていた。





 198?年8月?日

   御嶽山
 
一日目

 旅行の帰り、他の仲間に無理を言い、別行動をとり、F氏等4人で御嶽山に登った。木曽福島からバスに乗り、宿泊地に到着。

 二日目

 翌日、一番のバスで登山基地「田の原」へ。そして登山開始。途中、御嶽講の人たちの「・・・六根清浄、懺悔 懺悔・・・」の声に励まされ、快調にとばす。途中 雪渓もあり、楽しませてくれた。やっと頂上と思いきやそこは王滝頂上。それから、30分後、目的の御嶽頂上・剣ケ峰 3067m。
 天気もよく、周辺のアルプスの山々もスッキリ。特に乗鞍岳の大きさに感激。さすが、3000mの山に酔いしれる。頂上直下の池へも行った。
 帰りに、思い出に4人のケルンを作った。そして、近々結婚する二人の女性の幸せを祈った。
 そして、素晴らしい景色に未練を残して、山を後にした。

 翌年、御嶽山が火山爆発を起こした。私たちの作った思い出のケルンはどうなっているのか心配だ。

 さて、ここで、あくまで偶然と思うが、不思議な話をしておきます。
 それは、私がF氏と出かけた後に何かが起こるということです。上記の御嶽山の爆発の件、大杉谷のつり橋の件、それに登山ではなかったので、記していないが197?,年に二人で北海道旅行をした時、有珠山・昭和新山に登ったが、翌年爆発を起こした。
 この時期に 同じような事が三度も起こったのは、偶然とはいえ、不思議だ。



 198?年8月?日

 富士山
 
 一日目

 神奈川での研修会の帰り、S氏等4人で富士山に登った。新5合目に車を置き、登山開始。翌日、楽に頂上にいけるよう8合目まで登り、宿泊。夜、沼津の町の灯がとても綺麗だった。一人が高山病にかかり、体調をくずした。

 二日目

 昨日、高山病で体調をくずしたのは、急に高度を上げたからだと反省。出発を遅らせ、ゆっくり登ったので、頂上でのご来光には、間に合わなかったが4人揃って頂上に立てた。その後、めでたいことに、登山した仲間で一組のカップルができた。私も仲人の第一号をさせてもらった。

 私は富士山に二度登ることになったので、世間では馬鹿だといっているが・・・。
(富士山は二度も登る山ではない。富士山は眺める山だと言っている一部の人たちがいる。)


199?年8月?日

  乗鞍岳

 職員旅行の二日目。予定では、頂上直下 畳平で一時間半の予定をとっていた。以前、来たときは天気が悪く視界がきかなかった。今回は快晴。ガイドさんの話ではこんなに良い天気は一年に何回もないとの話。それで、幹事さんから時間を延長するとの事。それではということで一部の人と頂上へ。
 頂上では、視界をさえぎるものは無く、アルプスの山々はくっきり。特に御嶽山が綺麗だった。



1993年5月3~5日 

  雪の立山・上高地

 二日目

 5月の連休を利用して、F氏と前日の夜行列車に乗り、早朝富山着。
 美女平で時間を費やし、一番のバスで室堂へ。途中よりガスが出たり、消えたりしていた。途中、大谷で雪のトンネルを通って、室堂に着く。img20080313.jpg      
tateyama2_r.jpg          













 
 空も晴れ、全身に雪を被った真っ白な立山(雄山)は素晴らしかった。

 アイゼンを持って行かなかったので滑りながらも、みくりが池ま行ってきた。
 後はバス・ロ-プウェイを乗り継ぎ、列車で安曇野へ。レンタサイクルで、わさび園・道祖神を見て回った。松本の宿舎に着いたら7時を過ぎていた。
 



 
tateyama1_r.jpg



三日目

 翌早朝、一番の電車・バスで上高地へ。道路には雪がなかったが、河童橋からの山全体が真っ白になった穂高の山々に感動した。
 明神池までの木道を歩いていると、猿の群れが餌を探しに出てきていた。
 焼岳も頂上付近は雪に覆われていたが、噴煙ははっきり見えた。

 
 春の立山・上高地は素晴らしかった。帰りに、松本駅で平成5年5月5日の5・5・5を記した入場券を買って記念にしている。




 1994年7月31~8月1日

  木曽駒ケ岳

 一日目

F氏と木曽駒ケ岳へ 以前、バス・ロ-プウェイを乗り継ぎ、千畳敷まで来たことがあるが、今回は、千畳敷カ-ルを歩き、浄土乗り越えの小屋・宝剣山荘へ。img20080318.jpg
 荷物を置いて、宝剣岳の頂上へ。               私は ○○ だから高い所が好きなので、後ろの岩の上に立とうとしたが、そこに祠があるのでやめた。








hoken_r_1.jpg登りも下りも瓦礫の多い岩場を慎重に進む。
足場は確保されているが、ふと足元を見ると宝剣沢がスット落ちており注意が必要。

スリルのある岩場の多い男性的な山だった。



                                                                         
    二日目

 翌早朝、30分ほどの小高いピ-クに登り、ご来光。少し雲があったが、富士山を初め、乗鞍岳・北・中央・南アルプスが見え、最高だった。
 朝食後、荷物を背負い中岳を越え、駒ケ岳の頂上へ。二つの社があった。
宝剣岳とは違い、女性的な山だった。
 馬の背を通って,将棋頭山へ。
sonnan_r.jpg
 途中、新田次郎の作品「聖職の碑」で有名な遭難碑があった。
 以前、彼のこの作品を読んでいたので、当時遭難した教師・生徒の苦しさ、また、それに関わった人達の悲しみが大変であっただろうと思い、遭難者のご冥福を祈った。しばらくすると、先生に引率された中学生の団体が登ってきた。

 過ぎ去った列の後方より、全員無事に下山できるよう祈って見送った。

 新田次郎の作品は 山を舞台にしたものが多いので、殆んどの作品を読んでいる。繰り返し読んだ本もたくさんある。今印象に残っている作品は、「強力伝」「富士山頂」「チンネの裁き」「芙蓉の人」「縦走路」「槍ヶ岳開山」「風雪の北鎌尾根」等々たくさんあるが、何といっても「孤高の人」は私にとっては、最高の作品である。ヒマラヤ征服の夢を秘め、日本アルプスの山々を疾風のごとく踏破した[単独行の加藤文太郎]の生涯を記した傑作小説。また、「聖職の碑」も同じ立場の者として、印象深い作品であり、事件であった。

 彼の意思で作っているお墓がスイスアルプスのアイガー・メンヒ・ユングフラフの三山が真正面に見える所にあると聞いていたので、スイスに行った時、それを捜し求めて、食事時間を短縮して 走って行って 私も同じ位置に立ち、三山を眺めてきた。さすがに、絶景の所にあった。






 

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2008年02月28日

私の足跡 3 白馬・唐松 立山・剣 鷲羽・双六・槍・穂高

1960年7月27~28日

 Ma氏と白馬岳・唐松岳へ           
 
一日目
  
   職員旅行の帰路、松本で別行動をとらせてもらい、Ma氏と白馬岳をめざした。
 猿倉までバス、70円. 猿倉を11時13分に出発. 白馬尻小屋着、12時。
 昼食、カレ-ライス110円(休憩料込み)。出発、12時半。 10分ほどで雪渓、
 アイゼンをつける。槍・穂高より客が多い。近くの山も見えない。大雪渓も
 アイゼンをきかせば問題ない。抜け出たのは 14時。
 clip_image0011.jpg


  葱平の避難小屋で小休止。                 お花畑には、たくさんの高山植物が咲き乱れ、庭園のようである。
 ガスも消え、村営小屋に1時間以上も早く到着。
 夕食、17時半。 その後、グリセ-ド(ピッケルを使って雪の斜面を下る技術)の練習。

小屋は近代的だ。
 宿泊料 750円






 二日目

 4時起床。外を見れば雨。残念。ついていない。4時半、アノラックをつけ、頂上へ。5時前に到着したが、雨のため、すぐ小屋へ。朝食(ご飯はうまく炊けている。味噌汁も美味い。)をとり、6時半出発。雨がふっている。
杓子岳近くで7時半.鑓ヶ岳8時過ぎ、鑓温泉分岐で8時半。
 
天狗小屋あたりに雪渓があり、それを横切りのに苦労する。小屋着9時。

  clip_image003.jpg

   小屋近くに池があり、その周辺でキャンプが多い。
 付近の山が見え隠れする。
 休憩時,きゅうりをかじる。美味い。

 10時半ごろより天狗の大下りとなる。 
 さすが、名前の通り、道は悪くはないか゛、傾斜がきついので、相当 疲れる。
 11時過ぎ、最低鞍部に着く。これより、10分ほどで、最大の難所・不帰嶮に入る。針金の場所、鎖場、はしご場などがあり、槍・穂高の縦走を思い出す
 雨が降っているので、今回の方が疲れる。
 第二峰で昼食。第三峰 12時15分。 この頃より難所は少なくなる。第五峰までは、越後側を巻いた道でたいしたことはない。
 これより 大下りをした後、急登で相当疲れる。
 唐松岳頂上に13時45分。小屋は足元に見えたので、元気を出して頑張る。
14時着。



 来年は、鹿島槍まで縦走する予定なので今回は、黒部川に下りることにしている。
 でも、天気は悪いので、ここに泊まることにした。


 唐松岳小屋は近代的で、畳が敷いている。(今では、当たり前)
 水1リットルが50円もするので、15分ほど下った所の雪渓の所まで、水を
 汲みに行って来た。
 17時 夕食。カレーライス。宿泊費、750円


三日目

  5時に起床。5時半 朝食。味噌汁はあまり美味しくない。しかし、一つ一つの食器に名をいれ、綺麗だった。朝食は今回は白馬の方が美味かった。
 6時半、出発。雨は相変わらず降っている。半時間ほどで、アノラックから雨水が入ってきた。7時半、銅山跡らしい平らな所に出て小休止。

 宿泊用の米もなくなり、荷物も軽くなり、6時間ばかりの下りは、楽と思ったが、とんでもない急坂の道で膝がガクガク。山を巻いた道で、急な道になると膝の痛みがひどくなる。9時半、小休止。ジュースの粉末を水に溶かしてのジュースを飲む。美味い。
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 膝の痛みがますますひどくなる。11時半の小休止で、雨も上がりそうなので水分で重くなったアノラック・オーバーズボン・セーター等を脱ぐと身体がすっきりした。 ズボン・セーターは汗と雨でびっしより。         
半時間後、祖母谷温泉にやっと到着。

 おにぎり2個、梅干2個の弁当。それに持参した「ふりかけ」をかけて、食べる。美味い。


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 13時発。道も平坦になり、身体もすっきりしてきたので、当時、よく歌われた「北上夜曲」を口ずさみ始めると、名剣温泉。そこで、汗を流した後、
大きな雪渓を通ったり、見たりしながら、欅平へ。14時着。
 観光客も大勢いたので、山の感じが半減した。
 よく揺れるつり橋(現在は鉄筋の
橋になってい.)を渡ると駅だった。14時半

 トロッコ列車は、うわさの通り愉快な電車だ。屋根はあるが、窓はないので、風通しがよかつた。駅の停留所で写真を撮っていると発車をおくらせてくれたところもおもしろい。富山の人と同席。黒部の谷はすごく、ダム・発電所もあった。
 宇奈月着、15時40分。料金、210円。  富山着、17時。180円。
 夕食に定食を2人分を。140円。美味かった。
 その夜、19時57分発の青森発 大阪行きのドンコ列車で帰る。
 座席がなかったので、通路に新聞をしき寝て、朝まで熟睡。
 目が覚めたのは 京都駅だった。




   1960年8月10~13日
   
   Mo氏と立山・剣岳・大日岳へ。

   二日目
 夜行列車を富山でおり、電車・ケーブル・バス等を乗り継ぎ、弥陀ヶ原へ。
 (当時、ケーブルに乗るとき、荷物は重さにより異なる別料金。バスの終点も
midagahara_r.jpg今は室堂までだが、当時は弥陀ケ原まで。)
9時にバスを降り、重いリュックを背負い,今は賑やかだが、当時はさびしい室堂を通り,一の越で休憩し、雄山へ。
(室堂が 賑やかになったのは アルペンルートができてから)
 12時に頂上着。昼食後、神社でお神酒を頂き、大汝山 そして真砂岳へ。


  
 
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    弥陀ケ原のバス停 



                                                       頭上は雄山神社                                          

この頃より、天気は悪化。視界が利かなくなり、二人で標識(矢印等)を目を皿のようにして探し始めて歩くこと約1時間。ガスの中にぼんやり小屋の青い屋根。そして、やっと人の話し声。助かった。ホットして、剣御前小屋の中へ。17時到着。
turugi_r_r.jpg



  三日目

 翌早朝 6時 剣御前小屋を出発。お陰で、太陽も姿を見せている。荷物を持って、剣御前の頂上(7時) 一服剣・前剣(8時) そして、剣の頂上に9時半到着。難所の岩場は槍ヶ岳の穂先よりスゴイため、順番まちで予定より、時間がかかる。昨日、曇っていて見えなかった立山連峰・剣沢の雪渓もくっきり見えた。
 剣岳の標高は、2998mと言っていたので、何とか3000mの高さにと友達と肩車をして戯れた。途中、「カニの横ばい」・「カニの縦ばい」とかがあったが、難なく通過した。ただ、当時リュックと言えば、横長のキスリング型が主流でリュックの角が岩に当たりやすく、身体のバランスを崩し、ヒャットする人もいた。

先日、剣岳登山のテレビを見ていると、殆んどの人は荷物を小屋に預けてか
軽ザックで、又は水筒だけの人もいた。縦走中の荷物を全部を持って歩いている人はこのテレビの中にはいなかった。

 最近、登山用具も進歩し、雨具もゴアテックス等の軽くて、通気性の良い物が主流だが、この当時の物は分厚く、重く、通気性がなかった。リュックも横長から縦長に変わった。その他、いろいろ改良されて助かる。

 帰路、地獄谷を見学し、地獄谷温泉の小屋に宿泊。
  


  四日目

 翌日、快晴に恵まれ、奥大日岳に登り帰宅。



  1965 年7月27~8月1日

  鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳・槍ヶ岳・奥穂高岳

    二日目

 夜行列車でMa氏と 当初は太郎平を経由して、薬師岳・黒部五郎・鷲羽岳・三俣蓮華岳・双六岳・槍ヶ岳と縦走し、上高地に下り帰る予定だった。しかし、前半、天気が悪かったので、薬師・黒部五郎を省き、雲の平を経由して鷲羽岳に行くことにした。
 太郎平までは、雨の中をもくもくと登り、薬師をあきらめ途中小屋へ。

    三日目

 ガスの中の雲の平を通り、三俣山荘へ。この頃より天気は回復し始める。
最後の急登を過ぎると三俣山荘。小屋に荷物を置いて,鷲羽岳の往復。

    
   四日目

 早朝、小屋を出て三俣蓮華岳に登り、双六岳を経由して槍ヶ岳へ。双六小屋からは二度目だが、今回は、天気もよく見晴らしも良いので疲れも少なく、槍の穂先を見ながら歩けて良かった。

 当時は、大学の山岳部の活動も活発で、双六岳付近で、ある大学の20人ほどの山岳部を追い越した。20~30Kgの荷物を持った後輩に、先輩が後輩に罵声を浴びせながら登る光景を見た。私も一度は憧れた山岳部。後輩に「がんばれ」と声援を送って追い越した。もう、彼らも古希に近い年齢になり、孫のいる好好爺になっていることでしょう。そして、中高年齢の登山者となって山を楽しんでいることでしょう。


   五日目

 早朝、天気も良いので、二度目の槍の穂先へ挑戦。四方の景色にうっとり。この頃、ダ-クダックスの「雪山賛歌」に人気が出、我々も口ずさむ。
下山後、天気がよいので、もう一度穂高岳に登りたくなる。横尾でMa氏と別れる。途中、石川県の人と行動を共にする。せせらぎで昼食を食べるが、疲れていたのか食欲が無く、半分ほど残す。雪渓を通り,涸沢に到着。 12時半。  予定より早く到着したので、穂高小屋までと思いザイテングラ-トを登った。これが悪かった。予想以上の急登で、途中よりへばりがきて、歩いては休み、歩いては休みの連続でだんだん休む時間の方が多い状態になった。昼の食事を食べなかったのがこたえる。粉末のジュ-スを水に溶かし飲む。美味い。予備食料がほしい。雪を食ってしまう。無理な行動であったことが今わかり、これが遭難につながると思った。 5時半やっと穂高小屋にたどりついた。この時の心境が山日記にも克明に書いている。反省.反省。


   六日目
hodaka_r.jpg
 奥穂高の頂上へ登った後、涸沢に下り上高地に下山し、帰る。                                         















                           
      

1966年8月7日

 福井での研修会の帰り、Mi氏と白山に登山.市ノ瀬で宿泊。早朝5時出発。
 別当出会を6時半出発した。



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 室堂付近では、黒百合の群生があり、当時はやりの歌を思い出した。     登りは砂防新道を、下りは観光新道を使った。
 帰りは、夜行列車を使い、あくる日の会合に出席した。









hakusan_r.jpg
                             
  室堂付近で
     高山植物が咲き乱れていた

  後方は 最高峰御前峰

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2008年01月30日

私の足跡 2 1948年から1959年

1948年

小学校6年生の時、地元にボーイスカウトが誕生し、私も 即入隊させてもらい野外活動の経験<をさせてもらった。zitensha_r.jpg                         
 登山活動はなかつたが、米軍の中古のテントだったが、それを使い キャンプに何度も連れて行ってもらった。
 
booi_r.jpg高学年だったので、班長になり、班だけでの野外活動にも行った。
 大学時代も地元にいたので、指導者の手伝いもし、度々後輩を野外活動に連れて行った。                                            



 このボ-イスカウトの経験が、私の目を山に向けさせてくれた一因と感謝している。




1950年7月
 
 中学1年生の時 先生に仲間6人と大峰山(山上ヶ岳)に連れて行ってもらった。今思うと、下市から懐かしいボンネット型の煙をたくさん出し、音も大きいバスだった。デコボコの地道で、窓を全開にして走ったと思われる。途中 休憩を入れ、3時間以上かけて,洞川に到着したと思われる。長距離バスに乗るのは初めてなので、車外の風景に酔いしれていたので、あっと言う間であった。
 若かったからか登・下山の苦しさ等は記憶に無いが、鐘掛け岩の所で、先達さんが、唱えた後を我々も唱え岩山をよじ登ったのを覚えている。
 また、西の覗きで、先達さんが「親の言うことをよく聞くか」と言った途端身体を崖の下に放り出されたので、恐ろしさのあまり「はい」と言ったのを覚えている。最後に先生も同じようにしてもらっていたので、私たちは最後に「生徒に優しくするか」と聞いてもらうよう先達さんに頼むと先達さんがその通り言った。すると 先生も「はい」と言ったので皆で大笑いした。
 それよりも、強烈に印象に残っているのは、山上の宿舎を早く出、頂上より見せてもらったご来光・さわやかな風・そして朝露に濡れている高山植物の花の美しさだった。                     
                                   この朝の体験が、山上の素晴らしさに惹きつかれて何度も山に登るようになった第一歩だと思っている。

1957年7月

 大学の同期生と二十歳の成人を祝し、富士登山を計画した.先ず、河口湖で宿泊したが、持っていったテントは米軍の中古のため、夜中の雨で雨漏りがあり、眠れなかった。
 翌日は 晴天に恵まれ、バスを乗り継ぎ登山開始。初めは若さにまかせて、他の登山者を追い越し、頂上を極めた。
 頂上は うす曇で視界はよくなかった。気温は低く、寒いのですぐに下山し始めた。若さにまかせ、砂走りを走り降りた。運動靴だったので、靴の中に砂が入り、痛くなるので何度も靴を脱ぎ砂を出しながら降りた記憶がある。
 この旅行は 若さと馬力に任せた登山だった。


1959年7月25~31日

 就職した年、よき先輩MAに遭遇した。早速笠ヶ岳から双六岳・槍ヶ岳を通り、穂高への縦走する計画を企画してくれた。

 二日目
 大阪駅を夜行列車に乗り、高山駅からは一番のバスに乗ったが、夜行列車での睡眠不足で頭を何度もバスの窓に打ちつけながら中尾温泉で降りる。
 笠ヶ岳への急な登り道を黙々と登る。初めての本格的な登山で緊張したが、何とかついていけた。曇っていて、景色はあまり見えなかった。ジュースとお菓子で疲れをとる。荷物の重さがだんだんこたえてくる。3時すぎ、やっと到着。本格的な山小屋で寝るのも初体験.夜行列車の睡眠不足と疲れていたためか、意外によく眠れた。


 三日目
 翌日 天気も回復し始めた。抜戸岳・弓折岳を通る頃より、槍ヶ岳もぼんやりだがよく見えるようになった。双六小屋に泊まる。近くに池もある。
また、周辺には黒百合が咲き乱れ,はい松の海が広がり、素晴らしい。

 四日目
 朝早く目が覚め、朝食まで散策する。朝食を済ますと7時に出発.樅沢岳を通り、千丈沢乗越を過ぎる頃より雨が降り出す。道も険しくなり,痩せた馬の背なので、疲れも多い。12時すぎ槍ヶ岳山荘へ。疲労と寒さでぐったりしていたが、ラジウスで暖かい物をつくり、充分な休養をとる。4時ごろ、雨があがり、眼前に槍の穂先が見えたとき、小屋一杯に歓声が沸き立つ。さすが「槍ヶ岳」、その険しさはスゴイ。これだけ、近くに、こんな大きなものがありながら、天候のため見えないとなれば、遭難の原因になるとつくづく思った。clip_image002.jpg
気の早い者は、早速「槍の穂先」へ登る者もいたが、我々は明朝のご来光を頂上でということで、付近を散策し雄大なアルプスの景観に酔いしれていた。
 さすが、3000mの雲上、セーターを着ていたが、寒くて1時間も外にいられず、小屋の中へ。山日記を書こうとしたが、寒くて手がかじかんで、自分でも読めないくらいの文字であった。
 明日の行動を考え、7時に床につく。





                                                  
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

              
五日目

4時起床、用意が終わると小屋を飛び出す。空には一点の雲も無い快晴。カメラだけを持ち、一番乗りにと思ったがもう20名ほど先にいる。当時、穂先へは登り20分 下り30分と言われ,上りも下りも道は殆んど同じ道だった。
(今は、混雑を避けるため、登りと下りの道を別にし、梯子や鎖を多くしたのでスム-スになった。)
yarikao_r.jpgyariyoake_r.jpg








  槍の穂先からのご来光                           槍の穂先にて     
 
頂上は満員であった。西を見れば我々が昨日歩いてきた西鎌尾根・双六岳が見え、北を見れば烏帽子岳、東を見れば常念岳・富士山が見え、南に目を転ずればこれから歩く穂高岳への山々というように四方八方の山々に酔いしれていると、富士山の方向よりご来光。槍の穂先で歓声が上がった。頂上に上がれず、待っている人に場所を譲るため、名残惜しいが穂先より降りる。
 小屋を7時に出発。緊張する槍・穂高の縦走です。でも大キレットは思ったよりスム-スに通過。
karamatu_r.jpgazusa_r.jpg

北穂高岳の滝谷側の絶壁はスゴカッタ。途中 常念岳を見ながらの昼食。にぎり2個,沢庵4切れだけだったが絶景を見ながらなので、美味だった。

 
                              

 後方に槍ヶ岳                                   下方の白い線が梓川
                                                     
       涸沢岳を超え,奥穂高小屋で宿泊。背中の米もすべてなくなり、荷が軽くなる。時間があったので、ゆっくり過ごす。夕食の味噌汁が美味しく、お変わりをする。koya_r_r.jpg



   六日目
  7時に小屋を出て、鎖・梯子を使い奥穂高へ。頂上から、視界に入る景色を脳裏に納めるため、時間をとった。上高地の梓川は白い糸のようだった。
 小屋の赤や青の屋根とあわせると、箱庭のようであつた。
 前穂高へ登る途中、雷鳥親子に励まされ元気をもらった。
 途中、紀美子平・岳沢ヒュッテを通る頃より、急坂のため、膝が痛くなり始める。
  時間がたつが、上高地がなかなか近づいてくれない。やっと、梓川につき、一時間足らずで「山のひだや」へ。
 そこでの一週間ぶりの風呂・そしてビ-ルの味は今でも忘れられない。
 夜、スライドで四季の上高地や山を見せてもらった。

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七日目          

 9時に宿舎を出る。上高地でゆっくりし、久方ぶりに町の雰囲気にひたる。
 5時ごろ松本に着いたが、夜行列車までの時間を映画[鍵]を見て、23時半の夜行列車に乗る。

 今から50年ほど前の話だが、小屋へ荷物を運ぶのは、ヘリコブタ-等でなく、すべて人の力だった。だから、米を持って行くと宿泊代が安くなった。
 田舎育ちの私は、米を持って登った。多い時には、米だけで5㎏近くもあった。最後の日,残った米を渡して、宿泊代を安くしてもらったことが 度々あった。

 この時期、小屋の食事・弁当などは、今の時代に比べると質素だったので、発売間もない『ふりかけ』をよく利用した。
 
 でも、よいこともあった。それは、今ほど登山ブ-ムでなかったので、小屋の宿泊もゆったりしていた。それで山小屋の人達や他の登山者との談笑が多くあったことだ。


at 09:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)登山  日本アルプス