2016年07月10日

私の足跡 191 真田父子の足跡を追う 2


 
  私の足跡 191    


      真田父子の足跡を追う 2

 西軍(石田方)と組んだ昌幸と次男の信繁は 高野山へ蟄居されたが、徳川方に組んだ長男の信之は 上田城を与えられたが 建物等は壊されていたので 近くに館をたて,仕事を始めたが
、沼田城に移封され、後に少し離れた松代に移封された。

 
  私達は 向かったのは 信之が 1622年に 海津城の跡に新しく城を築いた松代城の見学に出かける。

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 松代への途中 ・真田氏の時代より 少し前の戦いの場所・川中島の戦い跡もあった。
  (この地は 戦国時代は武田信玄や上杉謙信の領地争いの中心地で 山本勘助が作った城/? で海津城と言われていた。信之から松代城と言われる)                    

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 建物は 最近建て替えられた

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 石垣は当時の物

 信之が 信濃の国・上田より 13万石で入封して以来 (途中 沼田領が独立し3万石を分領 以後10万石となる)  幕末まで 真田家の所領として続いた。

 父・昌幸と次男の幸村は 反徳川で被害を加えたことから当初は 外様大名とされていたが 幕末に於ける席次は譜代大名待遇であった。(
信之夫妻の堅実さと人づくりが 子孫にも繋がってのでしょう)

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 松代の町並みを散歩する。
 真田家が250年に亘り藩主であったことと戦災を免れたため 町内にまだ数多くの武家屋敷が昔の姿を留めています。

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 あちこちに6文銭の家紋も見える。

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 松代の博物館にも入り、見学。
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真田博物館
  真田家に伝承されていた宝物を市に寄贈されて展示されている博物館。


 時間の都合で 寄れなかったが真田家の菩提寺・長国寺には 初代藩主の霊屋をはじめ、歴代藩主の墓は勿論 祖父の幸隆 父の昌幸 弟の信繁とその子大助の供養塔もあるそうです。


 松代藩文武学校  国指定史跡
   1852年 佐久間象山(松代出身 科学・芸術等に秀で 門弟に吉田松陰・勝海舟等数千を数える)等の意見を聞き、藩士の子弟に文武の道を奨励すべく建設をした。
   全国的にも希に見る貴重な文化財です。   

 町中は 史跡・文化財でいっぱい。全てを見学するには、終日かかるでしょう。

 ここで  簡単に信之の生涯を辿ってみる。

 1566年 昌幸の長男として生まれる。

 家康に仕えた頃 家康は信之を評価して本多忠勝の娘・小松姫を自分の養女として 信之に嫁がせた。

 その後 関ヶ原の戦いが 起こり、犬伏で親子三人の話し合いで 有名な「
犬伏の別れ」をして、
親子三人が 敵味方となる。
 
 関ヶ原戦の時は 信行は秀忠の軍に加わり、父と弟が守る上田城を攻め、砥石城を奪い守り、戦いは続けられた。

 この頃、関ヶ原戦の決着がつき、
父と弟は 徳川方に被害を与えたため 敗軍の将となる。
 徳川家康は 父と弟に切腹を命じたが 信之・小松姫及び本多忠勝らの必死の助命嘆願により、切腹は免れ、高野山へ蟄居。その後、信之・小松姫は幽閉先の昌幸・信繁に生活支援をする。
 この頃 名前を信幸から信之に変える

 1611年 父昌幸の死の後、墓参を願うが叶わず。

 二度の大阪の陣は 病床にいたので、長男・信吉と次男・信政が参加。

 1620年 最愛の小松殿が死去。 「我が家の灯火は 消えてしまった」と嘆く。

 1622年 松代藩に移封。

 1634年 長男 死去
 
 1658年 2月 次男 死去  10月27日 信之 死去  93歳

   家族の世話と徳川幕府に気を遣いながら長寿を保ったが苦労の一生でした。

 
   信之の軍旗は黒地に金色の六文銭だったとされている。


   温厚な人物であったといわれるが、戦の際は総大将にも関わらず常に先陣を切って進んだ          
  と伝わっている。

  
   着用していたとされる着物、
胴丸等から身長は6尺1寸(約185cm)と推測されている






 
次は 上田城を追われ 和歌山へ移った昌幸・信繁親子のその後の足跡をおって見る。
 一族は 高野山の蓮華定院へ移ったが、女人禁制の高野山へは 連れてきた女性達は入れない。それに冬は寒いので しばらくして九度山におりてきて生活をした。

 生活は 紀州藩から支給されるお金で生活していたが、家族とお供で人数も多いので充分な生活ができないので 長兄の信之からの仕送りで過ごしていたらしい。焼酎が無くなったから早急に送ってほしいとの文書も残っている。


 上田を離れて、11年目に父・昌幸は65歳で亡くなる。(1611年6月4日)、

 蟄居されて14年目に豊臣の石田方から黄金200枚銀30貫(現在の金額に直すと 約8億5千
万円)を出すから応援してほしいとの使いがあり、九度山を出て 大阪城に入る。(根来衆等も加わえた数 約400名)。  この時 (1614年10月10日)。48歳


1614年
 11月19日 冬の陣始まる。

 
 12月14日  真田丸 攻撃され、被害を受ける
 12月16~19日迄 砲撃を受ける。
 12月22日 講和成立 冬の陣 終わる

 12月23日 大阪城の壊平工事始まる。


1615年
  1月19日 壊平工事 本丸を残し、完了
。(本丸ばかりにて 浅間しく身苦しい体)とある。

 
 4月29日 和泉の樫井の戦いで大阪方 敗退。   
  
  5月 6日 河内道明寺の戦いで
大阪方 敗退。(関東軍 百万も候へ、男は一人もなく候と言い放って大阪城へ引き上げたという)
 

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 信繁が大阪城まで 掘らせたと言われる「真田の抜け穴跡」 三光神社

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勝鬨を上げる信繁    三光神社

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大阪冬の陣で奮闘した真田幸村と「真田丸の戦い」等が書かれている。真田丸顕彰碑
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 戦いで疲れて 休んでいる所。この時 敵に狙われ死亡。  安居神社 

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5月 7日 天王寺の戦い。二度家康軍を攻めたが三度目の攻撃で押し戻され、現在の安居神社で 討死 49歳

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 信繁公のお墓。 大阪冬の陣から400年後の2014年10月建立とある。 心眼寺

 この大阪市の見学地で 円珠庵に行ったが 見学は良いが写真撮影はダメという所もあった。
 ここは 幸村が境内の 「えのきの木」に鎌を打ち付けて大阪の陣で必勝を祈願し、戦勝上げたと言われる所                                         


 今回は 真田家の足跡を辿る旅をしたが、余った時間を使ったりして、関係のない所も巡っているので公開します。 


 先ず 一日目 大阪の陣の激戦地の見学の後、ハルカスに上り 夕景の近づいた大阪市内の見学をする。
        
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 北方を見れば、大阪城が見える。

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 東の空には、二上山が浮かんでいる。
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南には 長居競技場が見える。        

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 西方には 夕日を映える大阪湾が見えた。

 その後、銭湯に入り、本日の汗を流す。

 そして、近くの食べ物屋に入り、水分補給と食事をする。

 次は 夜行バス出発地・梅田に向かう。

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 夜行バスは 予定通り、
予定通り21:50分 出発。3列のリクライニングシートでグッスリ。
 

 そして、夜行バスは 6:40分無事 到着。

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 朝食後 レンターカ ー店に行き 車を借りる。

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 先ず 善光寺にお参りをした。

 そして、松代に行き、第二次世界大戦の遺跡も見学した。
 
 松代象山地下壕内部の写真です。松代大本営地下壕は、舞鶴山(まいづるやま)(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山(みなかみやま)、象山(ぞうざん)に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約10キロメートル余りに及んでいます。
 ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠く、川中島合戦の古戦場として知られている要害の地です。
 第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和19年11月11日から翌20年8月15日の終戦の日まで、およそ9箇月の間に建設されたもので、突貫工事をもって、全工程の約8割が完成しました。
 この建設には、当時の金額で1億円とも2億円ともいわれる巨費が投じられ、また、労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています。
 なお、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、様々な見解があります。
 松代象山地下壕は、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として、多くの方々にこの存在を知っていただくため、平成元年から一部を公開しています。
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 松代から、宿泊地の別所温泉に行く。

 別所温泉は 歴史のある名湯で 一度は行きたいと思っていた所です。

 宿舎は 由緒のある和風の旅館で 庭はも広大で建物も廊下で結ばれ独立した部屋が多かった。

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  宿舎は 由緒のある和風の旅館で 庭も広大で 建物も廊下で結ばれ独立した部屋が多かった。

 少し、早く起き、早朝散歩で 朝食前に 信州の鎌倉と言われるぐらい、価値ある神社・仏閣が並び 凛とした空気を感じながら、参拝をしてきた。

 先ず、訪ねたのは 常楽寺の北向観音です。

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 厄除観音として知られる「北向観音堂」は、平安時代初期の天長2年(825年)比叡山延暦寺主慈覚大師円仁により開創された霊場です。
安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられます。
寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲(=源 義仲、1154~1184年)の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまいますが源頼朝(1147~1199年)の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興されました。

本堂が北を向いているのは、わが国でもほとんど例がないようです。その由来は、観世音菩薩出現の際、「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」というお告げによるものといわれています

 北向観音の近くにも 石造多宝塔がある

 

観音「石造多宝塔(せきぞうたほうとう)」は、北向観世音様が出現した所で、高さ2m85cmの安山岩で出来ており、国の重要文化財に指定されています。
鎌倉時代の弘長二年(1262年)賴真〔らいしん〕という和尚さんが、木造の多宝塔が消失してしまったので今度は石で多宝塔をつくり、お経を奉納した。」ということが、石造塔の四面に刻まれています。
石造多宝塔のすぐれたものは全国的にも少なく、わが国で重要文化財に指定されているものは、この常楽寺塔と滋賀県の「少菩提寺塔〔しょうぼだいじとう〕」の二つだけです。



次に 訪れたのは 安楽寺です。

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国宝八角三重塔

 

 木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、昭和27年3月29日、文化財保護法の規定により長野県では一番早く国宝に指定されました。
立年代は鎌倉時代末期から室町時代初期までのあいだと言われてきましたが、平成16年、安楽寺の依頼を受けた奈良文化財研究所埋蔵文化センター古環境研究室の光谷・大河内両先生の調査の結果、三重塔用材の伐採年代は正應二年(1289年)ということが判明しました。

これにより少なくとも1290年代(鎌倉時代末期)には建立されたことが明らかとなり、わが国最古の禅宗様建築であることが証明されました。

初重に裳階(もこし=ひさし又は霧よけの類)をつけた珍しい形式であるうえに細部も禅宗様の形式からなり、類例が少ないです。


  

 旅館で朝食を済ませ、一路 八島湿原へ

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 八島湿原は 日本を代表する高層湿原。1939年に国の天然記念物の指定を受け、国の文化財としても登録された約1万年もの歴史を持つ湿原です。一周するのに 約一時間半を要して 回って来た。

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 ニッコウキスゲや種々の花々に癒されながら 木道を通ったりして 一周した。


  松本へ帰る途中、 美ヶ原高原を通り、途中富士山・南アルプスや槍ヶ岳等を見ながら松本へへ。

  松本で  レンターカー店に 車を返し、飲み物を買い込み、特急「しなの」と新幹線で帰路についた。


 梅雨の間であつたが、快晴に恵まれ、ラッキーな旅でした。 


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2016年07月09日

私の足跡 190 真田父子の足跡を追う 


 「橋本から古道を通り平城京へ」 の掲載中ですが 

 7月初旬の旅行分を掲載します。



 私の足跡 190 


    真田家二代の生涯を追う 


 今 TVの話題は 今年の大河ドラマの「真田丸」である。
 
 幸い 私の住まいは 昌幸・幸村親子が 関ヶ原の敗戦後 14年間蟄居生活を強いられていた九度山慈尊院の近くにあるため、子供の頃から 関心の高いものです。

 そのドラマも中盤にさしかかり、盛り上がってきているので、九度山以外の真田家の住んだ実際の地域が見たくなり、旅の計画をたてた。

 旅の順序で書くのではなく、年を追って書いてみます。短い時間の旅だったので ほんの一部分です。
  (実際は 大阪の真田山エリア⇒天王寺エリア⇒善光寺⇒上田エリア
松代エリア⇒別所温泉⇒八島湿原)
     夜行バスを入れ 2泊3日の旅行

真田家の家系図
                                                                                                                            
   
「真田家の家系図」の画像検索結果


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  先ず 真田一族の過ごし、信幸・信繁も生まれたと思われる所・「真田の里」に行く。

 この地は 幸隆氏があの武田信玄でさえ難攻不落と言わせた砥石城を智慧をしぼり、攻め落とし信玄よりこの周辺の土地をいただき、この地に住み着いたと言われている。いろんな真田氏の遺跡が多く残っている。 
  真田兄弟も一時期ここで過ごしたと思われます。


 先ず、最初に 幸隆氏御夫妻と昌幸氏が眠っている長谷寺にお参りする。


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長い石段の向こうにおおきな石門が見える。その石門の先端に六文銭の家紋があった。

 
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 そこには 信幸・幸村の父・昌幸と祖父・幸隆御夫妻のお墓があり、お参りして ご冥福を祈り、長谷寺を後にした。       

 
 次は 真田氏の上田城を守る大事な戦いの場となる山城(米山城・砥石城・本城・枡形城)の見学に出かける。

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 上の山は米山城です。頂上まで20分足らず。気温 約30度。汗だくで登る。

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 登山口を少し登ると雰囲気を出すためか「模擬門」があった。

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 初めは ゆったりとした道だったが、途中から険しくなり、よく滑る道となり ロープを頼りに登る。

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 やっと、頂上に到着。上田市も良く見える。以前 この城の持ち主だった「村上義清」の碑が立っていた。

 この
「真田の里」には 他に新しく上田城をつくるまでの城跡・「真田本城跡」 や 真田一族の「真田氏館跡」    もある。

 その後 昌幸の上田進出に伴い新しく築いた上田城の見学に出かける。

 昌幸が 父幸隆からの教えと自身の知恵と研究により完成させた歴史に残る名城と言われる「上田城」に到着。

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 「真田丸」のパンフレットにもよく出る楼門。写真でよく見る所だ。
 

 第一次・第二次上田合戦
 徳川・北条の和睦により、真田昌幸が徳川家康にそむくかたちで起った第一次上田合戦。
 関ヶ原の合戦の前哨戦となり、真田父子が分かれて戦った第二次上田合戦。
二度もの実戦経験をもち、上田城のような戦歴を持つ城は全国でも他に例がありません。

 昌幸氏のつくつた当時の城は 徳川軍により建物や濠も完全に破壊されている。
 (現存している建物は 江戸時代の建物)

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  その門の入口に 大きな石(真田石)がある。長男 信幸が関ヶ原戦後 家康より隣の松代にお城替えを命じられた時、尊敬する父が使った巨大石を自分の松代城(海津城)に持っていきたいと思ったが大きすぎて叶なかったという石。長男 信幸の人柄が滲んでいる話です。(真実ではないともいわれているが。)

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 次は 真田井戸がある。この井戸は城外に繋がっている抜け穴の伝がある。

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これは 西楼.(現上田城では 最古の建物  県宝)

 上田城築城の工事を1583年 4月に始めています。 
 天正13年(1585)8月に徳川軍が7,000人余の大軍で、上田城を攻撃します。しかし昌幸は巧みな戦略を用いて、わずか2,000人足らずでこれを撃退します。この第一次上田合戦に際しては、上田城の普請が上杉方の多くの武将を動員して行われています。そして、天正13年の9月に、上田城は一応の完成をみます。


 この後は、豊臣秀吉が天下を統一し、しばらく動乱は治まりますが、慶長5年(1600)に関ケ原の戦いが起こります。秀吉没後の覇権を、徳川家康と石田三成が争ったこの戦いで、昌幸と次男の幸村は石田方に、長男の信之は徳川方に別れて戦うことになります。
 石田方についた昌幸と幸村は、上田城に立てこもり、東山道を西上する徳川秀忠軍3万8000人に対して、わずか2500人で籠城(ろうじょう)戦を行います。
 この第二次上田合戦では、徳川秀忠軍は、7日間上田に釘(くぎ)づけとなり、関ケ原での石田三成との決戦に間に合わず、家康の激怒をかっています。しかし関ケ原の戦いは、石田方の敗北に終わり、昌幸と幸村は、九度山(和歌山県)に幽閉されます。

  慶長5年(1600)12月13日 昌幸と信繁の妻子と16名の家臣を連れ、上田城を後にして高野山に向かいます。上田城での生活は 僅か15年でした。この時以来、二度と帰れなかった。 


 次は 現在 TVで放映されている「真田丸」の画面がたくさん見れる「大河ドラマ館」に入る。
 涼しいのと楽しいのとで 予定の時間がすぐに過ぎてしまった。

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 市民会館を改装し、ドラマ館としている。素晴らしいアイデアである。
 
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 ドラマで使われた真田家6人の衣装(一部レプリカ)。中央には信繁と兄・信幸、左右に父・昌幸とその妻・薫、信繁の姉・松と幼馴染のきりが並んでいる。

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 赤甲冑姿の像前では 数少ないカメラOKの場所なので 人が多かった。

 また、「真田丸」の立体的の模型等 素晴らしい展示が並んでいたが撮影禁止のため、皆さんに伝えられないのは残念です。

                      この続きは 次号で



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2016年05月27日

私の足跡 188 橋本から古道を通り平城京へ 2 


私の足跡 188 

    橋本から古道を通り平城京へ 2

 3日目(2月16日)

  今回は 北宇智駅を出発し、葛城古道を通り、御所駅まで今回最長の約15kmを歩く。


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  高鴨神社(たかかもじんじゃ)は、奈良県御所市金剛山東山麓にある神社式内社名神大社)。社格は県社。京都の賀茂神社上賀茂神社下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社と称する。
 4月中旬から5月初旬にかけて500種2,200鉢以上の
日本サクラソウ
が咲く。


 次の見学地は 高天彦神社

高天彦神社(たかまひこじんじゃ)

 高天原を訪れた方が真っ先に向かうのがこの高天彦神社(たかまひこじんじゃ)。社務所もなく、それほど大きくない神社ですが、境内に立つと何とも言えぬ威厳を感じずにはおれません。それ程、参拝客を見かけることはありませんが、全国からこの神社をたずねてこられる方が後を絶ちません。

高天彦神社の参道

樹齢数百年の杉並木の参道を抜けると、高天彦神社の境内に辿り着きます。

神話のムード漂う高天彦神です。

高天彦神社のご祭神

高天彦神社案内板

 ご祭神は高皇産霊神(タカミムスヒノカミ・タカミムスビノカミ)で市杵島姫命と菅原道真も祀られています。 高天彦とはタカミムスヒノカミの別名だろうと言われています。

延喜式には高天彦神社。月次・相嘗・新嘗。とあり4度の官幣に預かっています。 社殿は三間社神明造り・明治十年の建築だそうですが、築年数以上の風格を漂わせています。


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 鶯宿梅は高天彦神社の参道前にある梅の古木です。その昔、高天寺で修行をしていた小僧が若くして亡くなり その師が嘆き悲しんでいたところ、梅の木に鶯がきてホーホケキョではなく、 「初春のあした毎にはくれども あはでぞかえるもとのすみかに」 と鳴いたそうです。 それ以来、この梅を鶯宿梅(おうしゅくばい)と呼ぶようになったと伝えが残ります。

                                                                       
(     )
     くほんじ)
次は 九品寺に参拝 

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 九品寺は葛城山の懐に抱かれて静かにたたずんでいる。奈良時代、聖武天皇の詔に奉じて行基 (ぎょうき)が開基したお寺である。室町時代の兵火をまぬがれて、今に残っているという。本尊の阿弥陀如来坐像は藤原時代の作で国の重要文化財に指定されている。 優しい円満な姿で気品が高く稀にみる優秀作であるとの評判が高い。


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 この寺は境内や本堂の裏山に数多くの石仏があることで有名である。これらの石仏を総
称して千体石仏と呼んでいる。実数は1600体とも1700体といわれているが、 現在も出土しており、その数は定かではない。南北朝時代にこの地を支配していた豪族、楢原氏が南朝方について北朝側と戦ったとき、地元の人たちが味方の身代わりとして奉納したもで、そのことから身代わり石仏とも呼ばれている。 


 次は 葛城古道の北端にある六地蔵石仏に到着。()

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 人々は度重なる災害や疫病から逃れるために、さらには来世の極楽浄土を願う強い信仰心から、この巨石に六体の地蔵を彫ったという。 

  



 4日目 (3月1日)

 JR御所駅を東方に進んだ所に 「御所まち」がある。
 御所町は、江戸時代に構成された陣屋町です。その後も奈良中南部の中心地として繁栄を誇ってきた。川を挟んで商業都市の西御所、寺内町の東御所からなっている。
 江戸時代の地図が今でも使えるほど、よく残っている。「背割り下水」までも残ったている。

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 東西南北の四隅には 町の入口があり 入口には高札場と悪い病気などが入って来ないようにとお地蔵がある。どの入口も 街道から直接町の中を見れないように遠見遮断があり、今でも1ヶ所残っている。

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 以前使用していた郵便局と商店蹟。

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 おおきな白壁の建物が続き、道路が碁盤の目のように整然と建てられている。
 瓦には 鬼瓦や鐘馗さん、うだつ,虫籠窓等楽しかった。

 見学には 時間が足らなかったが、次の見学地「吉祥草寺」にお参りする。

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 吉祥草寺は 役行者の開基(白鳳時代)と言われ寺院。また、誕生の地とも言われる。

 毎年の正月の「吉祥草寺の大とんど法要」は有名で国の無形民俗文化財に指定されている。


  ここから 約一時間歩いて 薬の町「高取町」を目指す。


 薬の歴史は古く 万葉時代からと言われる。

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  江戸時代には 薬を庶民にも広まり、元禄期には 家庭配置薬業( 先に薬を使い、代金後払い) が始まったと言われる。

  今回は 参加者に「高取の人形祭り」を見てもらうため、人形祭りの初日に催行した。
  11時に到着。40分昼食。その後 集合場所と時刻を決め、自由見学とした。



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 普通は 各家庭の縁側や玄関に並べているが 公民館等に集めているのもある

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 ここは 高取藩の領地で 各侍の下屋敷がたくさん残っています。
 このような武家屋敷がほかにもあり、楽しく見学できる。

 江戸時代より高取藩の御殿医をされていた医院に高取藩主屋敷表門が移築され重厚な門構えの医院・石川医院。

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子孫が 現在も居宅医院としい開業されている。
皮膚科が専門で アトピーの診察治療で全国に有名らしい。

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石畳の町筋とともに城下町の雰囲気を醸し出している。

約束の集合じこくには 時間が短かった人もいたが 全員集合。

すぐ近くの小嶋寺に参拝。

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 この小嶋寺は 往時は 近郊の壺阪寺と双璧の寺と言われていたが、今は、その面影がない。
752年の創建で 21坊の伽藍を誇った時代もあった。(言い伝えによると 京都の清水寺はここの住職さんが京都に行ったとき 霊感を感じ建てたのが清水寺のはじめとある。)

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 これは 高取城の二の門を移築したもので、現存する高取城の唯一の建造物の一部。

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本堂には 重文の十三重の塔もある。
このお寺の自慢は 国宝の「紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図」があることです。
この紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図は、別名小嶋曼荼羅とも呼ばれ日本三大曼荼羅の一つで平安前期の作です。言い伝えでは 嵯峨天皇が空海からもらって朝廷で祀っていたのを後の天皇が願いが叶えたので この寺に贈ったとある。 実物は 奈良国立博物館に所蔵されている。

 現在 堂内には左右に天井に届くほどのレリーフを見ることが出来るそうです。ただし、この寺は 現在無住でなのでいろいろ手をつくしたが見学することは出来なかった。(だれか 教えてください) 




drecom_yama_ya617 at 09:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ウォーク 橋本から古道を通り 平城京へ