2016年11月15日

私の足跡 193「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加遺産

私の足跡 193                                                   

  「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加遺産が加わる。 2

世界遺産   高野山への
 七つの登り口 (高野七口)   Ⅳー2

             三谷坂

 今回は 前回の町石道と繋がりがある三谷坂を 公表します。
 この道は 正式には高野七口ではないが、古い石仏が見つかり、世界遺産への追加に向けて進んでいます。


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 この道を有名にしたのは「高野参籠日記」という詳しい記録である。これは 仁和寺の第4代門跡「覚法法親王」(白河上皇の第4皇子)と第5代門跡「覚性入道親王」(鳥羽上皇の第5皇子)の高野参籠日記の記録である。

 この日記から、覚法法親王は 1147年から4年間に5度の参籠日記がある。当時の高野参籠は町石道を使い、徒歩での参籠が普通だが、覚法法親王は1回目の往以外は、この三谷坂を利用している。そして、輿を使っての参籠である。
                                     日記の一部を抜粋
    1日目 仁和寺を暁に出発。船を乗り継ぎ、後 輿に乗り「住吉の浜」で宿泊。   
  2日目 午前6時出発 船で「日根の湊」へ。下船後、輿で「新家の庄」で宿泊。
  3日目 雨の中 雄ノ山峠を越え 紀の川をさかのぼり、「名手の庄」で宿泊。
  4日目   三谷津で下船 三谷坂を登り、天野の里を通り、途中町石道に合流し高野山へ。  

 覚法法親王は町石道でなく、三谷坂をどうして利用したかを「高野参籠日記」に「三谷坂は、木陰にして深き泥なし。道ほど近し。かたがた神妙の由、上下よろこびをなす。」と書いている。
 確かに道は近い。道は 険しいが水はけが良い。それに、「涙岩」といわれる水場等があって、人間だけでなく牛馬にも水飲場として都合が良い。
 それ以外に、慈尊院は東寺の支配下だが、三谷や天野は仁和寺の支配下で何かにつけ都合が良かったのではないかと考えられる。

 現在の三谷坂を実際に何度も登っていますが、5年前の記録を書きます。この記録は平成20年の高野山学体験講座の記録です。

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JRの妙寺駅に降りる。

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対岸の三谷へ橋を渡る。

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今回の講師 村上保壽先生より 当時「三谷津」の跡にある神社の説明。

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 丹生酒殿神社の一ノ鳥居をくぐる。

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丹生酒殿神社に到着。(丹生都比売神(天照大神の妹)が初めこの地に降臨された所。そして、ここで酒造りをしていた。今も、竃戸家があり、竃戸神社もある。) 降臨された後、巡行して各地で農耕や織物などを教え、最後に現在の天野に鎮座した。

鳥居の奥に見えるイチョウの大木はシーズンにはライトアップされて見事である。この大イチョウの幹周は5.26m 樹高25mの大木で 葉っぱが紅葉すると見事である。

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丹生酒殿神社の御由緒。主神は丹生都比売命で高野御子(丹生都比売命の御子)と建御名方命(大国主命の御子)と 誉田別大神(熊手八幡)が祀られている。

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神木であるいちいの木に鎌を打ちこみ願いを祈った鎌八幡宮が1942年より兄井より合祀されている。

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世界で初めて麻酔による手術に成功した華岡青洲が寄進した石灯篭がある。天保5年(1834年) 青洲 74歳の時である。

この後、ミカンや柿畑のある急坂を登って行く。

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 畑の傍に笠石がある。この笠石の伝説は上記にあるが 実は 本塔は笠塔婆の仲間である。
笠・塔身共に
緑泥片岩の自然岩で 笠の下に 連弁に座る阿弥陀如来坐像が半肉彫されている。
 銘文はないが 室町時代より以前の南北朝時代のものと推定されている。
 
 この笠石の北方で 道路新設のため 当分の間 迂回路を通行  

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更に進むと鉾立て岩 と 経文岩がある。

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畑が終わり森林の中に入ると、旅人の喉を潤していた湧水・「涙岩と拝水」。

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坂道も本格的な登り坂にかかる。今から60年ほど前・私の子どもの頃 一軒の農家があり、米作りをしていた。今 棚田の跡としての石垣が残っているだけである。
 この近くに、頬切地蔵がある。ごく最近まで江戸時代に造られたものでわと思われていたが、調べると鎌倉時代のものとわかり、世界遺産に追加申請をしている。

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 三谷地区の人達がこの石仏の世話をしている。私も小さい頃よくお祭りの日に参ったのを覚えている。

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この頬切地蔵は 地表に出ている巾60㎝ 長さ2m 高さ70㎝位の緑泥片岩の自然岩の3面に三体の仏が彫ってある。
 北面に(金剛界の)大日如来 東に釈迦如来 西に阿弥陀如来の坐像である。上には宝珠のついた屋根がのっているが宝珠を除いて一つの岩からなっている。(大日如来の右頬に岩の割れ目が走り いかにも頬がきれているかのようであるから頬切れ地蔵と言われ親しまれていた。)
 制作年代等の記銘はないので はっきりしないが 手法等より鎌倉時代の初期の作(12世紀末から13世紀初頭)と推定されている。
 このような「一重塔」では 本邦最古の遺物と判断されている。
 
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更に険しい山道を右手に「まといわ」を見ながら登る。

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 しばなくすると自動車道に合流。ここから、少し右に行くと笠松峠に到着。

 この笠松峠から左の小道に入り 137町近くの六本松で町石道に合流するか 右の小道に入り天野の里に行き111町近くの神田地蔵堂で町石道に合流するとかの方法がある。
 今回は右の小道に入り、標高450m天野盆地の史跡をめぐることにする。

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 丹生都比売神社に参拝し、丹生宮司に説明してもらう。
丹生都比売神(天照大神の妹)が応神天皇により1370年前に祀られた。

 三谷坂は 本来はここ
丹生都比売神社迄てすが、これ以後 追加のウォーキングをした。

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境内左横の石造卒塔婆群の見学・山蔭加春夫先生の説明を聞く。
修験道の高野先達の碑伝。

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 奥の院灯篭堂の貧女の一灯(祈親燈)で有名な「お照の墓」

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 西行の後を追ってきて天野に住んだ西行の妻と娘の墓碑。

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 西行堂

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有王丸の墓。 平清盛を倒そうとして捕えられた僧俊寛を有王丸が鬼界ヶ島を訪ねて遺骨を高野山に納め、天野に住んだ。(1179年頃)

外に 曽我兄弟の遺骨を高野山に納め、天野に住んだといわれる鬼王・団三郎の墓もある。

その他 院の墓・横笛の恋塚等 旧跡がたくさんある。
 



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2016年10月30日

私の足跡 192「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加遺産

私の足跡 192 
 
  「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加遺産が加わる。 1

 2004年 7月 7日にユネスコの28回世界遺産総会で 「紀伊山地の霊場と参詣道」が 世界遺産に登録された。

 それから 12年後の今年2016年10月24日 パリでの世界遺産総会で「紀伊山地の霊場と参詣道」に新しく次の地域が追加登録され、追加遺産として 登録された。

  高野地域

     黒河道

     三谷坂

     不動坂

     女人道

 私たちは この登録を進めるため 道普請や地域の人達へ広報などをボランティアで協力してきました。その念願がかない 24日の18時過ぎに振興局に集まり、パリでの会議の結果を報道関係の人達と待ちました。

 予定通り、朗報を得て 万歳や歓声で各自の喜びを表現しました。もちろん、この後の酒宴もにぎやかに。

 

  今回は 高野地域の追加遺産の「黒河道」を書きます。

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 黒河道  私の住んでいる橋本市の清水の「定福寺」を出発地となります。
       橋本市に世界遺産ができたのは 初めてで とても誇りに思います。周辺の高野
      町やかつらぎ町には 12年前に登録された遺産があるので とても嬉しいです。

       黒河道については、既に 私の足跡141 に記していますので、再掲します。           


    高野山への
       七つの登り口 (高野七口) Ⅴ

          黒  河  口 - Ⅱ

   今回の 黒河口-Ⅱの一部は 長い間使用されずに眠っていた道を一昨年ぐらい前から刈り開かれた道もある。そして、今までの地蔵等の石仏が歴史的に貴重な物とわかり、最近 脚光を浴び始めた道である。前回の「私の足跡140」よりも この黒河道が本当の高野参詣道ではないかと思われ 調査して報告された道です。       



 この記録は 世界遺産センターに勤務して 調査をしていた入谷氏に案内を依頼し、2012年11月に この道を案内してもらった記録です。

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 出発点は前回と同じく、賢堂の定福寺から 出発する。
 定福寺については、
「私の足跡140」で説明済み。
 
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小さなお堂や石仏が祀られている。近在の人々の信仰の深さがわかる。

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明神ヶ田和で小休止。今回は是より 最近まで廃道になっていた道を再開発された「わらん谷」を経由して市平に下る。(現在の地図では、わらん谷は消えている。)

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ここからしばらくは 埋もれていた道を切り開いたばかりの道を進む。

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造られて間もない丸太橋を進む。濡れていたので 滑らないように注意をした。

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平らな道もある。

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岩をえぐりとった道もあった。


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険しい道を下り切り やっと車道に到着。これから トイレ休憩のできる丹生川キャンプ場迄歩く。

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 トイレのある丹生川キャンプ場にやっと到着。各自昼食とする。


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 昼食後 車道を通って先ほどの市平への登山口へ。

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 しばらく前回と同じ道だか、途中で別れて左の道を通り、久保小学校の北側で合流。

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当時は倒木もあり、険しい道。

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また、細い道もあった。


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猪除けのトタン板で囲まれた田んぼの周囲を通る。


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やっと 人家が見えてきた。

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前回 お世話になった休校中の久保小学校。

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 久保小学校から今回は道標に従い、右の道を通る。(前回は左の道) しばらくすると、茶堂跡に到着。江戸時代に遡る茶堂が近年まであったが老朽化に伴い解体され、今は縮小された小堂が再建されている。この跡から鉄製の茶釜が発見されいる。ここの弘法大師像は花崗岩製で享和元年(1801年)・・・・の銘がある。また、木製の不動明王も残っている。

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昭和の初めごろまで営業していた高野豆腐をつくっていた建物の跡。(コンクリート製の水槽の一部) 他に直径約50cmの石臼も残っている。
この跡地から 室町時代の在銘の五輪塔や無銘の宝筺印塔の一部も残っている。

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 旧峻な坂道を登って行く。

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子継峠の地蔵石仏。

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この石仏は 昔から子授けの信仰のあった石仏で 子宝を願う人達の奉納したよだれかけが何枚もかけられていた。峠名の子継から来たのでしょう。

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 つい最近 詳細な調査の結果 単に子授けの地蔵ではないことがわかった。
 緑泥片岩製の一石彫成の地蔵菩薩立像の石仏です。高野周辺では最大級の石仏です。
 向かって右側に「十三年 検校重任」 左側には 「香舂峠 永正九 八月廿二日」と明記されている。 

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前回は三本杉に出たが、今回は一本杉の傍を通り、高野町役場前に出て、帰る。



注  今は子継峠(粉撞峠とも粉突峠とも)が普通だが、室町時代は「香舂峠」と標記されていたことがわかる。
           
  
  この記録は 少し古いですが 新しいマップもでき 標識も増え 登りやすくなっています。 







  
      



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2016年07月10日

私の足跡 191 真田父子の足跡を追う 2


 
  私の足跡 191    


      真田父子の足跡を追う 2

 西軍(石田方)と組んだ昌幸と次男の信繁は 高野山へ蟄居されたが、徳川方に組んだ長男の信之は 上田城を与えられたが 建物等は壊されていたので 近くに館をたて,仕事を始めたが
、沼田城に移封され、後に少し離れた松代に移封された。

 
  私達は 向かったのは 信之が 1622年に 海津城の跡に新しく城を築いた松代城の見学に出かける。

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 松代への途中 ・真田氏の時代より 少し前の戦いの場所・川中島の戦い跡もあった。
  (この地は 戦国時代は武田信玄や上杉謙信の領地争いの中心地で 山本勘助が作った城/? で海津城と言われていた。信之から松代城と言われる)                    

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 建物は 最近建て替えられた

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 石垣は当時の物

 信之が 信濃の国・上田より 13万石で入封して以来 (途中 沼田領が独立し3万石を分領 以後10万石となる)  幕末まで 真田家の所領として続いた。

 父・昌幸と次男の幸村は 反徳川で被害を加えたことから当初は 外様大名とされていたが 幕末に於ける席次は譜代大名待遇であった。(
信之夫妻の堅実さと人づくりが 子孫にも繋がってのでしょう)

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 松代の町並みを散歩する。
 真田家が250年に亘り藩主であったことと戦災を免れたため 町内にまだ数多くの武家屋敷が昔の姿を留めています。

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 あちこちに6文銭の家紋も見える。

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 松代の博物館にも入り、見学。
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真田博物館
  真田家に伝承されていた宝物を市に寄贈されて展示されている博物館。


 時間の都合で 寄れなかったが真田家の菩提寺・長国寺には 初代藩主の霊屋をはじめ、歴代藩主の墓は勿論 祖父の幸隆 父の昌幸 弟の信繁とその子大助の供養塔もあるそうです。


 松代藩文武学校  国指定史跡
   1852年 佐久間象山(松代出身 科学・芸術等に秀で 門弟に吉田松陰・勝海舟等数千を数える)等の意見を聞き、藩士の子弟に文武の道を奨励すべく建設をした。
   全国的にも希に見る貴重な文化財です。   

 町中は 史跡・文化財でいっぱい。全てを見学するには、終日かかるでしょう。

 ここで  簡単に信之の生涯を辿ってみる。

 1566年 昌幸の長男として生まれる。

 家康に仕えた頃 家康は信之を評価して本多忠勝の娘・小松姫を自分の養女として 信之に嫁がせた。

 その後 関ヶ原の戦いが 起こり、犬伏で親子三人の話し合いで 有名な「
犬伏の別れ」をして、
親子三人が 敵味方となる。
 
 関ヶ原戦の時は 信行は秀忠の軍に加わり、父と弟が守る上田城を攻め、砥石城を奪い守り、戦いは続けられた。

 この頃、関ヶ原戦の決着がつき、
父と弟は 徳川方に被害を与えたため 敗軍の将となる。
 徳川家康は 父と弟に切腹を命じたが 信之・小松姫及び本多忠勝らの必死の助命嘆願により、切腹は免れ、高野山へ蟄居。その後、信之・小松姫は幽閉先の昌幸・信繁に生活支援をする。
 この頃 名前を信幸から信之に変える

 1611年 父昌幸の死の後、墓参を願うが叶わず。

 二度の大阪の陣は 病床にいたので、長男・信吉と次男・信政が参加。

 1620年 最愛の小松殿が死去。 「我が家の灯火は 消えてしまった」と嘆く。

 1622年 松代藩に移封。

 1634年 長男 死去
 
 1658年 2月 次男 死去  10月27日 信之 死去  93歳

   家族の世話と徳川幕府に気を遣いながら長寿を保ったが苦労の一生でした。

 
   信之の軍旗は黒地に金色の六文銭だったとされている。


   温厚な人物であったといわれるが、戦の際は総大将にも関わらず常に先陣を切って進んだ          
  と伝わっている。

  
   着用していたとされる着物、
胴丸等から身長は6尺1寸(約185cm)と推測されている






 
次は 上田城を追われ 和歌山へ移った昌幸・信繁親子のその後の足跡をおって見る。
 一族は 高野山の蓮華定院へ移ったが、女人禁制の高野山へは 連れてきた女性達は入れない。それに冬は寒いので しばらくして九度山におりてきて生活をした。

 生活は 紀州藩から支給されるお金で生活していたが、家族とお供で人数も多いので充分な生活ができないので 長兄の信之からの仕送りで過ごしていたらしい。焼酎が無くなったから早急に送ってほしいとの文書も残っている。


 上田を離れて、11年目に父・昌幸は65歳で亡くなる。(1611年6月4日)、

 蟄居されて14年目に豊臣の石田方から黄金200枚銀30貫(現在の金額に直すと 約8億5千
万円)を出すから応援してほしいとの使いがあり、九度山を出て 大阪城に入る。(根来衆等も加わえた数 約400名)。  この時 (1614年10月10日)。48歳


1614年
 11月19日 冬の陣始まる。

 
 12月14日  真田丸 攻撃され、被害を受ける
 12月16~19日迄 砲撃を受ける。
 12月22日 講和成立 冬の陣 終わる

 12月23日 大阪城の壊平工事始まる。


1615年
  1月19日 壊平工事 本丸を残し、完了
。(本丸ばかりにて 浅間しく身苦しい体)とある。

 
 4月29日 和泉の樫井の戦いで大阪方 敗退。   
  
  5月 6日 河内道明寺の戦いで
大阪方 敗退。(関東軍 百万も候へ、男は一人もなく候と言い放って大阪城へ引き上げたという)
 

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 信繁が大阪城まで 掘らせたと言われる「真田の抜け穴跡」 三光神社

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勝鬨を上げる信繁    三光神社

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大阪冬の陣で奮闘した真田幸村と「真田丸の戦い」等が書かれている。真田丸顕彰碑
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 戦いで疲れて 休んでいる所。この時 敵に狙われ死亡。  安居神社 

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5月 7日 天王寺の戦い。二度家康軍を攻めたが三度目の攻撃で押し戻され、現在の安居神社で 討死 49歳

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 信繁公のお墓。 大阪冬の陣から400年後の2014年10月建立とある。 心眼寺

 この大阪市の見学地で 円珠庵に行ったが 見学は良いが写真撮影はダメという所もあった。
 ここは 幸村が境内の 「えのきの木」に鎌を打ち付けて大阪の陣で必勝を祈願し、戦勝上げたと言われる所                                         


 今回は 真田家の足跡を辿る旅をしたが、余った時間を使ったりして、関係のない所も巡っているので公開します。 


 先ず 一日目 大阪の陣の激戦地の見学の後、ハルカスに上り 夕景の近づいた大阪市内の見学をする。
        
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 北方を見れば、大阪城が見える。

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 東の空には、二上山が浮かんでいる。
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南には 長居競技場が見える。        

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 西方には 夕日を映える大阪湾が見えた。

 その後、銭湯に入り、本日の汗を流す。

 そして、近くの食べ物屋に入り、水分補給と食事をする。

 次は 夜行バス出発地・梅田に向かう。

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 夜行バスは 予定通り、
予定通り21:50分 出発。3列のリクライニングシートでグッスリ。
 

 そして、夜行バスは 6:40分無事 到着。

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 朝食後 レンターカ ー店に行き 車を借りる。

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 先ず 善光寺にお参りをした。

 そして、松代に行き、第二次世界大戦の遺跡も見学した。
 
 松代象山地下壕内部の写真です。松代大本営地下壕は、舞鶴山(まいづるやま)(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山(みなかみやま)、象山(ぞうざん)に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は約10キロメートル余りに及んでいます。
 ここは地質学的にも堅い岩盤地帯であるばかりでなく、海岸線からも遠く、川中島合戦の古戦場として知られている要害の地です。
 第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、大本営、政府各省等をこの地に移すという計画のもとに、昭和19年11月11日から翌20年8月15日の終戦の日まで、およそ9箇月の間に建設されたもので、突貫工事をもって、全工程の約8割が完成しました。
 この建設には、当時の金額で1億円とも2億円ともいわれる巨費が投じられ、また、労働者として多くの朝鮮や日本の人々が強制的に動員されたと言われています。
 なお、このことについては、当時の関係資料が残されていないこともあり、必ずしも全てが強制的ではなかったなど、様々な見解があります。
 松代象山地下壕は、平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡として、多くの方々にこの存在を知っていただくため、平成元年から一部を公開しています。
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 松代から、宿泊地の別所温泉に行く。

 別所温泉は 歴史のある名湯で 一度は行きたいと思っていた所です。

 宿舎は 由緒のある和風の旅館で 庭はも広大で建物も廊下で結ばれ独立した部屋が多かった。

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  宿舎は 由緒のある和風の旅館で 庭も広大で 建物も廊下で結ばれ独立した部屋が多かった。

 少し、早く起き、早朝散歩で 朝食前に 信州の鎌倉と言われるぐらい、価値ある神社・仏閣が並び 凛とした空気を感じながら、参拝をしてきた。

 先ず、訪ねたのは 常楽寺の北向観音です。

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 厄除観音として知られる「北向観音堂」は、平安時代初期の天長2年(825年)比叡山延暦寺主慈覚大師円仁により開創された霊場です。
安和2年(969年)、平維茂は一山を修理し、三楽寺、四院、六十坊を増築したと伝えられます。
寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曾義仲(=源 義仲、1154~1184年)の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失してしまいますが源頼朝(1147~1199年)の命のもと伽藍復興がおこなわれ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時により再興されました。

本堂が北を向いているのは、わが国でもほとんど例がないようです。その由来は、観世音菩薩出現の際、「北斗七星が世界の依怙(よりどころ)となるように我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」というお告げによるものといわれています

 北向観音の近くにも 石造多宝塔がある

 

観音「石造多宝塔(せきぞうたほうとう)」は、北向観世音様が出現した所で、高さ2m85cmの安山岩で出来ており、国の重要文化財に指定されています。
鎌倉時代の弘長二年(1262年)賴真〔らいしん〕という和尚さんが、木造の多宝塔が消失してしまったので今度は石で多宝塔をつくり、お経を奉納した。」ということが、石造塔の四面に刻まれています。
石造多宝塔のすぐれたものは全国的にも少なく、わが国で重要文化財に指定されているものは、この常楽寺塔と滋賀県の「少菩提寺塔〔しょうぼだいじとう〕」の二つだけです。



次に 訪れたのは 安楽寺です。

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国宝八角三重塔

 

 木造八角三重塔は、木造の八角塔としては全国で一つしかないという貴重な建築で、昭和27年3月29日、文化財保護法の規定により長野県では一番早く国宝に指定されました。
立年代は鎌倉時代末期から室町時代初期までのあいだと言われてきましたが、平成16年、安楽寺の依頼を受けた奈良文化財研究所埋蔵文化センター古環境研究室の光谷・大河内両先生の調査の結果、三重塔用材の伐採年代は正應二年(1289年)ということが判明しました。

これにより少なくとも1290年代(鎌倉時代末期)には建立されたことが明らかとなり、わが国最古の禅宗様建築であることが証明されました。

初重に裳階(もこし=ひさし又は霧よけの類)をつけた珍しい形式であるうえに細部も禅宗様の形式からなり、類例が少ないです。


  

 旅館で朝食を済ませ、一路 八島湿原へ

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 八島湿原は 日本を代表する高層湿原。1939年に国の天然記念物の指定を受け、国の文化財としても登録された約1万年もの歴史を持つ湿原です。一周するのに 約一時間半を要して 回って来た。

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 ニッコウキスゲや種々の花々に癒されながら 木道を通ったりして 一周した。


  松本へ帰る途中、 美ヶ原高原を通り、途中富士山・南アルプスや槍ヶ岳等を見ながら松本へへ。

  松本で  レンターカー店に 車を返し、飲み物を買い込み、特急「しなの」と新幹線で帰路についた。


 梅雨の間であつたが、快晴に恵まれ、ラッキーな旅でした。 


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