2019年06月01日
私の足跡 215 空海の足跡を辿る 5
私の足跡 215
大同4年(809)の4月13日 嵯峨天皇 即位
大同4年(809) 7月16日
空海は 大きな夢を持って 唐に渡るために京を出発し
て以来、5年ぶりに、思い出の京に入った。
空海は京都に入ると ほどなくして、和気氏創建の高尾
山寺(現在の神護寺)に入ることになった。
![a8aadf029e5713ec5082e5ed057e8d4b[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/d/6defa2d0-s.jpg)
まだ続く石段。 長い石段
![3a768a147be5a622e7ac686eb5d9955c[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/d/dd457dc3-s.jpg)
空海が住んでいた大師堂
空海の住坊跡と言われ、内部の厨子に正安四年
(1302)に作られた板彫弘法大師像(国の重要文化財)
を安置している。
高尾山寺は空海の死後、弟子の実恵や真済が別当になる。
![17d8e6f57bd24108b72c285208a29940[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/0/6046b0d9-s.jpg)
最後に石段を喘ぎながら上る。
![5337075179dc387da66c01c7a81ff1a5[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/7/67680134-s.jpg)
やっと到着。金堂。堂内には 国宝の「薬師如来」
高尾山寺と言えば
力添えで、南都仏教ではない新しい仏教・天台宗を広
げるため最澄が天台宗についての講演を開き、好評を
得ていました。
そして、最澄は唐の国から、空海より約1年ばかり
前に帰国し、本来の天台宗ではなく、唐の国だけでな
く、我が国でも人気の密教について講演をしたり、
灌頂をしたりして活躍していた時もあった。
その最澄の活躍した高尾山寺に空海は正統な密教を
携えて入りました。
空海は 天台宗の最澄が活躍していた思い出の高尾山
寺を、空海の活動の場にしてもらったり、畿内にもど
るについても世話になった可能性もあり、好意をいだ
いたかも知れません。
それに 既に比叡山寺を開創し、内供奉十禅師とな
ったので尊敬していたのでしょう。
そして、落ち着く間もない8月24日 最澄より、空
海が唐より持ち帰った密教経典12部の借覧を願う手紙
が届いた。
この手紙を初めとして、数年の間に約40通の借覧書
とか質問の手紙が届いたということです。
ここで、平安時代の仏教界、日本の仏教史を代表す
る二大巨星(天台宗の最澄・真言宗の空海)の短期間だ
ったが親密な時が続いた。
![yjimage[5]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/4/b40d59c9.jpg)
![yjimage[4]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/0/a/0a1a0fbf.jpg)
空 海 最 澄
二人の親交と決別の様子を記事にします。
先ず、手紙の一部を紹介します。。
最澄から空海へ。
春もはじめ(1月)なお寒く、遍照(空海)阿闍梨にはお変わ
りないでしょうか。
近頃、弟子の最澄、お陰で、つつがなく過ごしております。
しかし、比叡山でのなすべきことが未だ終わらず、参上
して礼をつくすことも、なお果たさない儘であります。
ことさらに怠ってのことではないことを賢察させてお寛恕く
だされば、甚だ幸せです。私、未だ拝謁する機会を予測
できませんが、しかし、受法の望みは増々募るばかりで
す。
使者の大三が赴くのに託して、安否をお伺いいたします。
不宣。謹んでしるします。
正月十五日 求法弟子最澄
状上
帰唐遍照阿闍梨法前
以上は 最澄から空海への手紙
次は 空海から最澄への手紙
空海自筆の風信帖 (国宝) 東寺蔵
![Huushincho_1[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/8/c84b89c6-s.jpg)
先ほどの最澄の返事ではないが、
空海自筆の手紙「風信帖」です。
風信雲書、天自り翔臨す、之を披之を閲するに、雲霧を
掲げるが如し、兼ねて止観の妙門を恵まる 、頂戴供養
せん、攸(ところを)知不 巳に冷かなり伏して惟うに、
法體何如なるや、空海推ること常のごとし。・・・・・
・・・望むらくは煩労を憚からず暫く此の院に降赴せら
れよこれ 望む所望む所。 々不具釈空海状して上る。
九月十一日 東嶺金蘭
風の(ような)便り、(たなびく)雲の様な美しい筆跡が天より舞い降りた
その様な貴方からの手紙を開きこれを読むと雲霧が晴れる心地がします。
併せて摩訶止観(天台大師の著作)を送られ。授かり御仏に捧げており
ます。(此の事は)身の置き所も無いくらい恐縮しております。このところ
は気候も寒くなり貴方様の御身はお変わりございませんでしょうか。(私)
空海あいも変わらずです・・・・・・・・・・。
・・・…
私の望む所は労苦を厭わず貴方様が私の寺院に暫く逗留していただきたい
私はそれを望みます。僧侶の空海が伏して奉ります。
謹空
空海から最澄にあてた 尺牘(書状)。3通をおさめ
ている。
最初の尺牘が〈風信雲書〉と始まるので古来《風信
帖》と呼んでいる。
初めは 5通が収められていたが,1通は盗難にあ
い,1通は天正年間(1573‐92)に関白豊臣秀次に所望
され進上している。
現在は京都の東寺蔵。空海が806年(大同1)帰朝す
ると,最澄は空海が請来した経典の借用や,真言
の伝授を盛んに依頼しているが,これらの来信に
対する返書で,空海の真筆である。
![d0170835_11315675[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/4/741c54fd-s.jpg)
空海への手紙。最澄自筆で現存している唯一の手紙
上は伝教大師(最澄)から(体裁は弟子の泰範だが、内心空海の
目にも入ってほしい)宛てた尺牘手紙で時代は平安時代(9世紀)
の物(弘仁4年813)久隔帖と呼ばれる国宝 。
紙本墨書で縦29.3㎝全長55.1㎝で冒頭の久隔清音から
久隔帖と呼ばれます
久く清らか御身に会うえず、慕情は極りなくせめて。安かに和む
事を伝えるむねとし、しばらく(寂しい)人情を慰ております。
(ところで)大阿闍梨より贈られた詩の序文の示す所の58(5×8=40)の詩
(伝教大師が40歳を超えたのを祝うため贈られたこの詩)の序の中に120
礼仏ならびに方円の図ならびに注義等名が.有り.
今、(貴方の詩の返礼に)詩を(私が作詞し)あなたの詩と和して奉りたい
と思いますが、未だに其の知礼仏図者と言う意味をが解りません。
伏して阿闍梨聞にお尋ねしますが。其の貴方が選んだ所の図義並に
其大意等の言葉の意味を教えて下さい。其の和するための詩は直ぐに
は作りにくく、(一度)作詞してしまったからには後に改作はし難いの
です。
ただ(またはおもう)其の詳しい訳を示し、必す゜和するための詩を造
り、あなたの座席の近くに奉上(差し上げましょう。謹んで貞聡に託し
て書状を奉ります。和南(※和南とはサンスクリット語のvavdandの音
写で敬礼の意味です)
弘仁4年11月25日小法弟最澄状を上(たてまつる) 高尾範阿闍梨所法
前近頃、妙法蓮華経のサンスクリット本1巻を得たので。阿闍梨に御覧
頂きたく、来月9日か10日を以て参上をしたいのです。若し和上に暇が
有れば、必ず参上したいのです。若し暇が無ければ後で暇が出来るの
をお待まちします。(私が)思うにただ指南を示して下さい。詳しい訳を
尋ね申上げます。
上記の様に、二人の交友が進んで 一度最澄が空海を訪ね
た時 話が長びき 夜になったので、宿泊して話をしたらし
い。
その後、最澄やその弟子達は 空海から金剛界と胎蔵界の
結縁灌頂をうけた。
この時、結縁灌頂を受けた人達の名前が名簿である空海
自筆の「灌頂歴名」(国宝)が残されている。
だが 月日が経ってくるとお互いの密教に対する考え方等
の違いが出てきたり、最澄の弟子・泰範の件 それに「理趣
釈経」借覧の件等が重なり、二人の交友は七年間で終わった。
この頃 空海は南都仏教とも繋がりがあり、多忙であった。
先ず、弘仁二年(811)乙訓寺の別当就任は早良親王慰霊の
祈禱の効験を期待したためである。(政治的陰謀)
![pixta_10523665_M[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/d/e/de8d21b9.jpg)
次に、川原寺の別当就任は 大同二年(807)おじの阿刀大足
の教え子・仕伊予親王が謀反の罪により、川原寺に幽閉
され、その後 自ら命を絶つという事件があった。
(政治的陰謀)
![2285927492_8e0d0b3429_o[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/5/4/54cc2506.jpg)
空海の法力で親王慰霊の祈禱の効験を期待したためである。
(その後、この川原寺を京都と高野山との往復の宿とし
て嵯峨天皇より賜ったと伝えられています。)
空海の入京後の天皇・嵯峨天皇との関わりについて
は、橘逸勢や空海と共に当時の三筆と称された天皇は、
空海にしばしば書の揮毫を所望した。
空海はそれに応えるとともに、唐から持ち帰った漢詩集
や法帖,墨蹟などを献上した。
それで、両者の親密度は深まって行きました。
2019年05月01日
私の足跡 214 空海の足跡を辿る 4
私の足跡 214
空海の足跡を辿る 4
長安に残った空海達の生活する当時の唐の都・長安に
ついて詳しく記しておきます。
唐の長安城は南北が8651m、東西が9721m。
北辺の中央に大極殿を中心とした宮城があり、 碁盤目状の
道路で東西南北に区画されていた。
外側長安城壁で囲まれ、 一部を除き12の城門は日暮れか
ら夜明けまでは閉じられている規則であった。
城塀の高さ12メートルある巨大なものです。
盛唐の玄宗時代には人口100万と言われ、またイラン系の
人など、周辺の世界から渡来するものも多く、国際都市として
栄えた。
参考までに 平城京の規模等を記しておきます。
東西約4.3キロメートル、南北約4.8キロメートル。
その長方形の東側には東西約1.6キロメートル、南北
約2.1キロメートルの外京があり、総面積は約2,500
ヘクタールにも及ぶ。
南端に設けられた
まで伸びた幅約74メートルの
側の右京、東側の左京に別れ、碁盤の目のように
整然と区画された京域には10万人以上の人々が
暮らしたという。
朱雀門を中心に12の門を囲む築地の高さは約 6メートル。
次は 隋・唐時代の「長安城」です。
残念ながら10世紀頃の反乱などで唐が滅亡したとき、長安の
都は一部を除き 破壊されました。今は 西明寺や宣陽坊等
は残っていませんが最近になり、青龍寺は一部復活している。
私達もこの門をくぐり高い塀の上に登って見学した。
一部分当時の建物も残っているが、現在は近代的な建物に
復元されている。
城壁の上はこのように広くなっています。敵が攻めてき
た場合には、ここに幾重もの列をなした兵が待ち構え、
弓などで応戦できるようになっています。 高さ12メートル、底の幅18メートル、頂部の広さ15メート
ルある巨大なものです。特に、高さよりも厚みの方がある
ことに、当時の防衛の拠点としての城づくりの考え方が見
えます。
今では 城壁の上をレンタサイクルもはしっている。
唐の高僧玄將三蔵がインドから持ち帰った経典等を
保管していた建物(大雁塔)と玄奘三蔵の僧
大雁塔の中に入り、最上階まで狭い階段で上る。
7階建で高さは64mで、最上層まで登れば市街が
一望できる。
唐に残る空海や橘速成達は 大使達を見送った後、
の大雁塔等を眺めがら移動したと思う。
その他 秦の始皇帝陵等にも行ったり、いろんな所
を見学したのではないでしょうか。
西明寺(崩壊後再建されていない)では 前からの留
学生永忠・円照からいろいろ教えてもらい、また、紹
介してもらったインドの僧の二人からインドの文字や
思想を学びました。
そして、密教を学ぶなら 青龍寺の恵果阿闍梨が唐で
の密教の第一人者 であることを教えてもらい青龍寺に
行き、お会いしました。
![20170422110543[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/7/6/76605f04-s.jpg)
私達は 青龍寺の遺に見学に行きました。
1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺跡と伝承
されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の
遺物を発掘し、この地域に昔の青龍寺があったことを確か
めた。復元された青龍寺に立ち寄る。
![20170422112327[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/6/a/6ac4bdf0-s.jpg)
この館内には、空海に関わる写真や図が沢山展示
されています。
![20170422111654[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/c/5/c57d6dd8-s.jpg)
![P1010272[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/7/f7284ee9.jpg)
青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、
空海記念碑(上)や恵果・空海記念堂(下)が建っている。
![20170422111400[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/e/0/e0308111-s.jpg)
四国霊場会会長(善通寺法主)により、この青
龍寺が四国八十八箇所の零(0)番札所と名付けられた。
空海が青龍寺に入ると、初対面の師は 笑みをた
たえ、次のように言った。
「我、先より汝が来たらんことを知り、相待つこと
久し。
・・・・・・・・・灌頂壇に入るべし」と。

そして、その第七祖の恵果和尚から三度灌頂を受
け、インド直伝の正統な密教を受法して伝法阿闍梨
位を授けられ、第八祖師となった。
そして「一日も早く祖国に帰り、密教をもって国
家に仕え、国中に広めて人々の幸せを祈りなさい」
と言って示寂した。
空海は帰りたいと思っても、許可もなくどんな方法
で帰れるかを考えるととても無理であった。
その時 あたかも空海を迎えにきたかのごとく長安に
やってきたのが 判官・高階遠成であった。
この機会を逃すと、いつ帰国できるか定かでないと
考え、高成に願い出た。
高成も了承し、唐朝の了解も得て、空海は師の
遺誡にもとづき、20年の留学予定を切り上げて
長安を後にした。
空海の入唐求法がまさしく「虚往実帰」の旅であ
ったと自分でも記しています。
それは、日本では解決できない問題を抱いて入唐
し、正統な密教の相承であった恵果和尚と出会
い、和尚が所持していた教法を余すところもなく
受法し、満ち足りた気持ちで、我が国に帰ってきた
からです。
空海が 日本に最初に到着したのは 出発した「福江島」
との説もあり、行って来ました。

寺の名は「西高野山」で、立派な寺院でした。

そして、その境内に立派な石碑が建ち「虚往実帰」とある。

空海 四国で修行中 口の中に明星が入ったということか
ら「明星院」とある。梵鐘や絵天井が印象的でした。
そして、明州を8月に出航し、10月に九州(
どこか不明)に到着らしい。

帰りの船も激しい風雨に遭い、船中でも大変だった。
ある記録には、嵐に遭い、木の葉のように玩ばれる
船中で立てた小願である。
空海、大唐より還る時、しばしば漂蕩に遇いて、
聊か一の少願を発す。帰朝の日、必ず諸天の威光
を増益し、國界を擁護し、衆生を利済せんがために、
一の禅院を建立し、法によって修行せん。願わくは,
善神護念して、早く本岸に達せしめよ、と。神明眛
からずして、平らかに本朝に帰る。
(「定本」7―99~100 )
この時立てた小願は、10年後、高野山の開創として実
現することになる。
帰国後、すぐに、正式な帰国報告書である「御請来
目録」をしたため、上京する判官・高階遠成に託して
朝廷に届けた。
その中には、空海は唐から持ち帰った新訳の経24
7巻、梵字の真言等44巻、経の注釈は170巻にお
よび、その他に仏像、曼荼羅、法具類を目録にまとめ
て渡したとされています。
これらの全ては初めて請来されたものであると明記し
て最後に
「規定より早く帰国したことは、死をもってお詫びし
ても償いきれないけれども、生きて最高の教えである
密教を伝え得たことは、それにも勝ることであり、ひ
そかに喜んでいる。」と20年の留学期間を足かけ2
年で切り上げて帰国したことへの弁明もみられる。
大宰府は、大和朝廷が朝鮮半島および大陸との外交
窓口、辺境の防衛のための軍事の統括、貿易管理、
そして西海道・九国・・・三島の統治を目的として
筑紫に置いた出先機関である。
その後、空海は大宰府を離れ、中国で学んできた
密教を理論的にせいりしたり、今後 我が国にどの
ように密教を流布させるかを考えていた。
![big_1459972979479_file[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/4/4/448e9f06-s.jpg)
現在は特別史跡「大宰府政庁跡」が残っている。
京都からは2年半の間 何の音沙汰もなかった。

九州滞在中の殆どは 近くの観世音寺に逗留していた。

母・斎明天皇の冥福を祈るため天智天皇が発願
し、天平十八年(746)に落慶した。かつては三戒壇
院の一つが置かれ、九州寺院の中心であった。

本堂の裏手に客僧房とみられる建物跡があり、空
海が観世音寺で住していたとすればここで起居し
ていたと想像される場所です。。

もう一つ、空海に関わる寺があります。

帰国した空海が初めて創建した寺。密教が
ここ九州から日本の東方に広がってほしいとの
願いで「東長密寺」としたらしいです。
空海は こんなに長く入京を許されないのは
なぜか ? 留学期間を守らなかったためか?もう
京都に生涯帰れないのではないか等 考えてい
たかも知れません。毎日不安な日々であったこ
とでしょう。
但し異説アリ
2019年04月01日
私の足跡 213 空海の足跡を辿る 3
私の足跡 213
空海の足跡を辿る 3
空海の願っていた遣唐使が25?年ぶりに復活し
、遣唐使船が出発することになった。
とにかく、長い間夢に見ていた遣唐使での出発です。
降り大宰府に寄り、それから最後の九州の最西端の
島・五島列島の田ノ浦?で最後の食糧・水の補給を
し、風待ちをして出発。
![kentoushi[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/f/7/f799f4a3-s.jpg)
遣隋使船や遣唐使船が中国に渡った航路
今回は五島列島から中国の杭州を目指した。
七月六日。遣唐使船4隻。遭難に備え、四隻体制。
別名「四つの船」 一隻あたりに約150人位乗船。
船の大きさ、詳しい資料は残っていないから推測
だが全長約30m 全幅約10mとされる。
![pixta_6016099_L[1]](https://livedoor.blogimg.jp/drecom_yama_ya617/imgs/b/d/bd0a408b-s.jpg)
平城京跡に資料を参考にして造られた遣唐使船
1船には 遣唐大使・藤原葛野麻呂と共に空海・橘
逸勢ら留学生ら約150名程が乗り込む。
2船には 副使 石川道益 判官 菅原清公 請益
僧最澄ら 第3船 判官 三棟今輔 第4船 判官
高階遠成が乗り込み一路西に向かったが翌日の戌の
刻(午後7~9時)には 第3・4船が「火信するも応え
ずで」から両船は行方不明となる。また、しばらくす
ると、第1船と第2船も別れてしまう。
ここで第二船に乗った最澄のことを記事の中に挿入し
ながら書いていきます。
空海さんと言えば最澄さん。最澄さんといえば空海さ
んといわれる位 平安時代の二大宗教家として有名です。
同時代に生き、船は違うが共に遣唐使になり、空海は
真言宗を学びに第一船に乗り、最澄は天台宗を学びに第
二船に乗り、五島列島を出港した。
最澄は 空海より七才年上て この頃 比叡山に延暦
寺を建て、時の天皇・桓武天皇の庇護を受け、たくさん
の弟子もいる立派なお坊さんでした。今度の遣唐使も空
海のような20年間 自費で唐に滞在し 修行しなければ
ならない身分とちがい、最澄は還学生で僅か1年位の間
で 国の費用で個人の通訳(義真)と二人の留学生を連れ
て正式には「入唐請益天台法華宗還学生」の格式である。
同じ留学僧でも、空海とは雲泥の差があった。
この時は 乗った船も違うし、唐でも別行動だったので
また、帰りも別行動だったので二人の会話はなかったでし
ょう。
しかし、帰国後、二人は一時期、仲良しになり、話し込
んで一夜をあかしたり、手紙の交換も頻繁にやっておった
が、ある時期にバッタリ途絶えた。 詳細は この後 記
していきます。
元に戻り
船中では、卜部や陰陽師が船の進む方向を決めるの
だから大変だったでしょう。
空海の乗った1船も、暴風雨に襲われ、船の帆は痛み、
船の中に海水が流れ込み、船中では 泣き叫ぶ声や風
雨を鎮める僧の読経の声で大変だったでしょう。
「生死ノ間に出入シ、
波濤ノ上二□曳セラルルコト、
スべテ丗四個日』
葛野麻呂が上表した文章 [日本後紀]による
船は 正しい方向が分からない(方位磁針も無い)から
北へ行ったり、南へ行ったりで洋上をぐるぐる回っていたの
でしょう。
海が凪いでいる時も無事に陸地に着けるか心配だっ
たでしょう。
8月10日、やっと 出発から34日目に陸地が見えた。どこ
の国か判らず接岸すると目的地の揚子江の河口(普通であ
れば10日前後ぐらいで到着する)から相当南の福州赤岸鎮
の海口に流れついた。
司馬遼太郎氏の「空海の風景」の一部に[暦は8月10日になつて
いる。海岸に山がせまり、岬の地肌が赤かった。・・・」 とあるが、
に実際は赤色ではなかった。
古代中国の『陰陽五行説」から赤岸と名付けたらしい。
ここで、 同じ日に、日本を発った第二船の最澄達の船に
ついて記します。
第三船・第四船と別れてすぐに第一船とも別々になった。
第一船と同じく、暴風雨に襲われ、9月1日に明州に流れ
ついた。 漂流期間は54日です。距離が短いが日数が長
いということは、ぐるぐる回ったり、行ったり、来たりの時間
が多く、食糧・水分の面も不安だったでしょう。
但し 長安や天台山に行くには距離が短く、好都合だった。
第二船の最澄と随行者は 滞在期間は1年で 修行は
天台法華宗を学び、お経等を写経するのが目的だから
船をおりて、皆と別れ、長安ではなく、天台山に向かった。
空海ロードを目指す空海達の話に戻します。
2010年5月8日に 私は仲間と 飛行機・バス等の交
通機関を利用して赤岸鎮に到着した。
約一千ニ百年前の804年8月10日に空海達は長い
不安な漂流の船旅を終えての陸地だったのでどんな
気持ちであっただろうと思い、しばし 砂浜に立ち、
四方を眺めていたら込み上げてくる熱いものを感じた。
私たちは 海浜を離れ、山のほうへ歩いて行くと風変わ
りな門がある。空海坊と書いていた。平成五年(1995)建立。
赤岸は 今も半農半漁の田舎の感じがした。
空海記念堂の中の「弘法大師空海」
遣唐使の話に戻ります。
大使は早速 村の役人らしき人に話をした。
大使は自分たちの目的を言い、悪天候のためにここに到
着したことを説明しましたが ここは田舎の一地方だから
役所のある福州へ行って事情を説明するように言われた。
仕方がなく また、船に乗り約250km離れた福洲に向
かった。
⇧
台湾 霞浦から福州へ。 10月3日発
福州に到着後 新長官「閻済美」の就任を待って、
葛野麻呂が入国の交渉に取り掛かったが、取り合って
くれない。
仕方なく、空海に文書を書いてもらい渡す。すると
文書の文字・文章の素晴らしさに感心し閻済美の
態度が変わった。
その文章の題は「大使の為に福州の観察使に與る
書]で数多い空海の名文の中でも特に名文とせられて
いる。
実物は「性霊集」に収められている。
内容の概略は 中国を讃え、日本の位置を示し、信
物には印書を用いなくても信ぜらるべきこと等を
説いている。
こんな名文に新長官が感激して、話が進み、長安へ
の道が開かれた。
それで、福州を11月3日に出発し、2400㎞(四国遍路
二廻りか、大坂・東京を二往復半)離れた長安に向か
った。
この漂着の地・赤岸鎮から伝法の地・長安まで
の2400㎞の道のりを「空海ロード」と言って
いる。
高野山大学の静慈円教授を中心にしたグループが
30年以上も前から古い資料をもとにして空海ロー
ドを現在中国の地図の上に再現されている。
12月の中旬に長安到着をめざして急いだのは150
名位の乗組員だったが、選ばれたのは 23名だった。
星二立チ、 星二宿ス。
晨昏 兼行セリ
(日本後紀)
という表現で、その強行軍が想像できるであ
ろう。
私達は 福州に行かずに 静先生達も立ち寄っ
た時もあるという観光名所を見学した。
空海も寄ったかも知れませんが 一時空海ロード
から外れます。
それは、海外 国内ともの観光のメッカの一つで
ある武夷山である。
第一の魅力はたくさんの奇峰が点在していること
です。
川には 孟宗竹で作った筏に人を乗せて川下りを
するのです。
中国にはこのような河川が多くある。
この河川では、観光のため、船ではなく孟宗竹を組
んだ筏に客を乗せて楽しませています。
第二の魅力は、奇峰の一つに登ることです。
通路は梯子や手すりを整備して安全を確保している。
最後の頂上までは、何度も休憩を要したが、登り始めた
川を見下ろすと見事で、疲れが吹っ飛んだ。
空海ロードから少し離れたが、元の空海
ロードに戻ります。
仙霞嶺には、唐代官道が残り、仙霞関と
いう関所がある。
この仙霞関は 中国四大古関所の一つとして
大事に保存されている。
山の谷あいに ダムのような関所があり
「仙霞関」の標識が建っている。
八0四年十二月初旬,遣唐大使の藤原葛野麻呂一行
23名がこの道を急いでいる姿を 私は想像しながら
坂道を登った。
孟宗竹の茂みの中の像。
次は 空海ロードは二十八都鎮に入る。
二十八都鎮は古駅で有名な鎮です。
日本であれば、地方の小都市である。
東海道五十三次の宿場のような働きをしている。
古道の両側には 清代の民家等の建物が連なって
いる。
長い歴史と文化の残る建築群が雑居の中にある。
僅か4枚の写真ですが 二十八都鎮の生活の
様子・風景です。
高野山真言宗は、空海入唐1200年記念事業と
して、「二十八都鎮唐代官道の整備」をした。
そして、中国の江山市は 建造物を唐代様式
として、古鎮復興をすると、決議をしたとある。
うれしいことです。
私達の空海ロードで途中の立ち寄っての見学は
以上で終わり、次は 乗り物を使い目的地の長安
です。
空海達は、長安へは、長い長い道のりを辛苦の
末に12月23日長安に辿り着いた。そして,
宣陽坊の官舎に入る。
先に到着していた第二船の一行と合流した藤原
葛野麻呂大使は 徳宗皇帝に謁見し、遣唐大使の
使命を全うした。
ところが、翌年の1月23日 徳宗皇帝が崩御された。
そして新しく順宗皇帝が任命されたりで大変であった。
その為、大使の帰国が遅れ、長安を3月29日に出発し
明州にに到着した。
ここで、最澄一行と一緒になり、乗ってきた船
に乗り、5月18日に帰国の途につく。
帰りの航海は 順風満帆で6月5日に無事 対馬
に到着。