2016年11月30日

 私の足跡 194「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加遺産

    私の足跡    194

  今年 「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産に追加登録された道です。

       不動坂

   
私の足跡  122 の再掲です。  


  
高野山への
     七つの登り口 (高野七口) Ⅲ-2

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   前回の続き    京 大阪道の極楽橋から大門までを書きます。


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      朱塗りの極楽橋を渡る


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      そして 従来の不動坂を登る
      
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      今回は 江戸時代によく使われていたが 大正4年頃から 約100年間埋もれていた登山道を登ることにする。この道(赤い色の道)は 最近整備された。
       

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       1915年 高野山開創1100年記念大法要が行われるので大勢の参詣客のため、急勾配でなく広くて歩きやすい道をつくった。そのため 旧道は使われなくなった。

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        この難所を登る人を助ける「腰押し」や「荷物持ち」などの仕事をする人も多くいたそうです。また 牛にロープをつけそれを持ち引っ張ってもらう人もいたそうです。

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       整備前の道路
       
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       整備後の道路
 
                 

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       上記の場所とか「稚児の滝」とかの名所もあります。               

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       右 加みや(神谷) まきのを(槇尾) いせ 京 大阪

       「寛政四子年七月立」「南無大師遍照金剛」の石柱あり。100年の間 倒れていたそうです。       

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       現在の清不動 新しい道を造ったため、旧不動坂より大正時代につくったこの道に新しく造ったもの。
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                   旧不動坂に建てられていた。山内の不動堂と区別するため 「外不動」と言われていた。これを移築して現在は「清不動」と言われている。 

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       また 旧不動坂を登っていくと花折坂の石の花立てがある。これも100年の間 倒れていたそうです。       
 
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        仏像が祀られている。

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        京 大阪道の終点 女人堂に到着。以前は高野七口の全てに女人堂が建てられていたが、現在残っているのはここだけ。この近くに 小杉明神やお竹地蔵が祀られています。        

        高野の町を囲むように 女人禁制の時代に女人のための女人道があるが 今回その一部を上の女人堂から大門迄を歩くことにする。


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         ここにも 女人堂があった。「谷上女人堂跡」

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         もくもくと弁天岳の頂上をめざす。

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         高野山には 七つの弁天様が祀られているが ここのは弁天岳の弁天様で通称「岳弁」と言われている。

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        頂上(985m)からの遠景の素晴らしさにウットリ。

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        もう一つの絶景ポイント。大塔が見える。昔の女人は この女人道からしか拝めなかったからどんな気持ちで眺めたことだろう。首をロクロのように伸ばして眺めたというロクロ峠があるが こんなに遠い所からでも何日もかけて登って来てお大師さんの修行地を眺めて涙を流した人も多くいたことでょう。

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                   今回のゴール大門。   創建は 江戸時代                   

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drecom_yama_ya617 at 16:38|PermalinkComments(0)TrackBack(0)追加遺産 

2016年11月15日

私の足跡 193「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加遺産

私の足跡 193                                                   

  「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加遺産が加わる。 2

世界遺産   高野山への
 七つの登り口 (高野七口)   Ⅳー2

             三谷坂

 今回は 前回の町石道と繋がりがある三谷坂を 公表します。
 この道は 正式には高野七口ではないが、古い石仏が見つかり、世界遺産への追加に向けて進んでいます。


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 この道を有名にしたのは「高野参籠日記」という詳しい記録である。これは 仁和寺の第4代門跡「覚法法親王」(白河上皇の第4皇子)と第5代門跡「覚性入道親王」(鳥羽上皇の第5皇子)の高野参籠日記の記録である。

 この日記から、覚法法親王は 1147年から4年間に5度の参籠日記がある。当時の高野参籠は町石道を使い、徒歩での参籠が普通だが、覚法法親王は1回目の往以外は、この三谷坂を利用している。そして、輿を使っての参籠である。
                                     日記の一部を抜粋
    1日目 仁和寺を暁に出発。船を乗り継ぎ、後 輿に乗り「住吉の浜」で宿泊。   
  2日目 午前6時出発 船で「日根の湊」へ。下船後、輿で「新家の庄」で宿泊。
  3日目 雨の中 雄ノ山峠を越え 紀の川をさかのぼり、「名手の庄」で宿泊。
  4日目   三谷津で下船 三谷坂を登り、天野の里を通り、途中町石道に合流し高野山へ。  

 覚法法親王は町石道でなく、三谷坂をどうして利用したかを「高野参籠日記」に「三谷坂は、木陰にして深き泥なし。道ほど近し。かたがた神妙の由、上下よろこびをなす。」と書いている。
 確かに道は近い。道は 険しいが水はけが良い。それに、「涙岩」といわれる水場等があって、人間だけでなく牛馬にも水飲場として都合が良い。
 それ以外に、慈尊院は東寺の支配下だが、三谷や天野は仁和寺の支配下で何かにつけ都合が良かったのではないかと考えられる。

 現在の三谷坂を実際に何度も登っていますが、5年前の記録を書きます。この記録は平成20年の高野山学体験講座の記録です。

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JRの妙寺駅に降りる。

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対岸の三谷へ橋を渡る。

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今回の講師 村上保壽先生より 当時「三谷津」の跡にある神社の説明。

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 丹生酒殿神社の一ノ鳥居をくぐる。

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丹生酒殿神社に到着。(丹生都比売神(天照大神の妹)が初めこの地に降臨された所。そして、ここで酒造りをしていた。今も、竃戸家があり、竃戸神社もある。) 降臨された後、巡行して各地で農耕や織物などを教え、最後に現在の天野に鎮座した。

鳥居の奥に見えるイチョウの大木はシーズンにはライトアップされて見事である。この大イチョウの幹周は5.26m 樹高25mの大木で 葉っぱが紅葉すると見事である。

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丹生酒殿神社の御由緒。主神は丹生都比売命で高野御子(丹生都比売命の御子)と建御名方命(大国主命の御子)と 誉田別大神(熊手八幡)が祀られている。

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神木であるいちいの木に鎌を打ちこみ願いを祈った鎌八幡宮が1942年より兄井より合祀されている。

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世界で初めて麻酔による手術に成功した華岡青洲が寄進した石灯篭がある。天保5年(1834年) 青洲 74歳の時である。

この後、ミカンや柿畑のある急坂を登って行く。

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 畑の傍に笠石がある。この笠石の伝説は上記にあるが 実は 本塔は笠塔婆の仲間である。
笠・塔身共に
緑泥片岩の自然岩で 笠の下に 連弁に座る阿弥陀如来坐像が半肉彫されている。
 銘文はないが 室町時代より以前の南北朝時代のものと推定されている。
 
 この笠石の北方で 道路新設のため 当分の間 迂回路を通行  

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更に進むと鉾立て岩 と 経文岩がある。

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畑が終わり森林の中に入ると、旅人の喉を潤していた湧水・「涙岩と拝水」。

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坂道も本格的な登り坂にかかる。今から60年ほど前・私の子どもの頃 一軒の農家があり、米作りをしていた。今 棚田の跡としての石垣が残っているだけである。
 この近くに、頬切地蔵がある。ごく最近まで江戸時代に造られたものでわと思われていたが、調べると鎌倉時代のものとわかり、世界遺産に追加申請をしている。

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 三谷地区の人達がこの石仏の世話をしている。私も小さい頃よくお祭りの日に参ったのを覚えている。

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この頬切地蔵は 地表に出ている巾60㎝ 長さ2m 高さ70㎝位の緑泥片岩の自然岩の3面に三体の仏が彫ってある。
 北面に(金剛界の)大日如来 東に釈迦如来 西に阿弥陀如来の坐像である。上には宝珠のついた屋根がのっているが宝珠を除いて一つの岩からなっている。(大日如来の右頬に岩の割れ目が走り いかにも頬がきれているかのようであるから頬切れ地蔵と言われ親しまれていた。)
 制作年代等の記銘はないので はっきりしないが 手法等より鎌倉時代の初期の作(12世紀末から13世紀初頭)と推定されている。
 このような「一重塔」では 本邦最古の遺物と判断されている。
 
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更に険しい山道を右手に「まといわ」を見ながら登る。

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 しばなくすると自動車道に合流。ここから、少し右に行くと笠松峠に到着。

 この笠松峠から左の小道に入り 137町近くの六本松で町石道に合流するか 右の小道に入り天野の里に行き111町近くの神田地蔵堂で町石道に合流するとかの方法がある。
 今回は右の小道に入り、標高450m天野盆地の史跡をめぐることにする。

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 丹生都比売神社に参拝し、丹生宮司に説明してもらう。
丹生都比売神(天照大神の妹)が応神天皇により1370年前に祀られた。

 三谷坂は 本来はここ
丹生都比売神社迄てすが、これ以後 追加のウォーキングをした。

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境内左横の石造卒塔婆群の見学・山蔭加春夫先生の説明を聞く。
修験道の高野先達の碑伝。

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 奥の院灯篭堂の貧女の一灯(祈親燈)で有名な「お照の墓」

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 西行の後を追ってきて天野に住んだ西行の妻と娘の墓碑。

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 西行堂

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有王丸の墓。 平清盛を倒そうとして捕えられた僧俊寛を有王丸が鬼界ヶ島を訪ねて遺骨を高野山に納め、天野に住んだ。(1179年頃)

外に 曽我兄弟の遺骨を高野山に納め、天野に住んだといわれる鬼王・団三郎の墓もある。

その他 院の墓・横笛の恋塚等 旧跡がたくさんある。
 



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2016年10月30日

私の足跡 192「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加遺産

私の足跡 192 
 
  「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加遺産が加わる。 1

 2004年 7月 7日にユネスコの28回世界遺産総会で 「紀伊山地の霊場と参詣道」が 世界遺産に登録された。

 それから 12年後の今年2016年10月24日 パリでの世界遺産総会で「紀伊山地の霊場と参詣道」に新しく次の地域が追加登録され、追加遺産として 登録された。

  高野地域

     黒河道

     三谷坂

     不動坂

     女人道

 私たちは この登録を進めるため 道普請や地域の人達へ広報などをボランティアで協力してきました。その念願がかない 24日の18時過ぎに振興局に集まり、パリでの会議の結果を報道関係の人達と待ちました。

 予定通り、朗報を得て 万歳や歓声で各自の喜びを表現しました。もちろん、この後の酒宴もにぎやかに。

 

  今回は 高野地域の追加遺産の「黒河道」を書きます。

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 黒河道  私の住んでいる橋本市の清水の「定福寺」を出発地となります。
       橋本市に世界遺産ができたのは 初めてで とても誇りに思います。周辺の高野
      町やかつらぎ町には 12年前に登録された遺産があるので とても嬉しいです。

       黒河道については、既に 私の足跡141 に記していますので、再掲します。           


    高野山への
       七つの登り口 (高野七口) Ⅴ

          黒  河  口 - Ⅱ

   今回の 黒河口-Ⅱの一部は 長い間使用されずに眠っていた道を一昨年ぐらい前から刈り開かれた道もある。そして、今までの地蔵等の石仏が歴史的に貴重な物とわかり、最近 脚光を浴び始めた道である。前回の「私の足跡140」よりも この黒河道が本当の高野参詣道ではないかと思われ 調査して報告された道です。       



 この記録は 世界遺産センターに勤務して 調査をしていた入谷氏に案内を依頼し、2012年11月に この道を案内してもらった記録です。

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 出発点は前回と同じく、賢堂の定福寺から 出発する。
 定福寺については、
「私の足跡140」で説明済み。
 
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小さなお堂や石仏が祀られている。近在の人々の信仰の深さがわかる。

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明神ヶ田和で小休止。今回は是より 最近まで廃道になっていた道を再開発された「わらん谷」を経由して市平に下る。(現在の地図では、わらん谷は消えている。)

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ここからしばらくは 埋もれていた道を切り開いたばかりの道を進む。

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造られて間もない丸太橋を進む。濡れていたので 滑らないように注意をした。

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平らな道もある。

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岩をえぐりとった道もあった。


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険しい道を下り切り やっと車道に到着。これから トイレ休憩のできる丹生川キャンプ場迄歩く。

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 トイレのある丹生川キャンプ場にやっと到着。各自昼食とする。


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 昼食後 車道を通って先ほどの市平への登山口へ。

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 しばらく前回と同じ道だか、途中で別れて左の道を通り、久保小学校の北側で合流。

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当時は倒木もあり、険しい道。

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また、細い道もあった。


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猪除けのトタン板で囲まれた田んぼの周囲を通る。


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やっと 人家が見えてきた。

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前回 お世話になった休校中の久保小学校。

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 久保小学校から今回は道標に従い、右の道を通る。(前回は左の道) しばらくすると、茶堂跡に到着。江戸時代に遡る茶堂が近年まであったが老朽化に伴い解体され、今は縮小された小堂が再建されている。この跡から鉄製の茶釜が発見されいる。ここの弘法大師像は花崗岩製で享和元年(1801年)・・・・の銘がある。また、木製の不動明王も残っている。

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昭和の初めごろまで営業していた高野豆腐をつくっていた建物の跡。(コンクリート製の水槽の一部) 他に直径約50cmの石臼も残っている。
この跡地から 室町時代の在銘の五輪塔や無銘の宝筺印塔の一部も残っている。

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 旧峻な坂道を登って行く。

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子継峠の地蔵石仏。

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この石仏は 昔から子授けの信仰のあった石仏で 子宝を願う人達の奉納したよだれかけが何枚もかけられていた。峠名の子継から来たのでしょう。

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 つい最近 詳細な調査の結果 単に子授けの地蔵ではないことがわかった。
 緑泥片岩製の一石彫成の地蔵菩薩立像の石仏です。高野周辺では最大級の石仏です。
 向かって右側に「十三年 検校重任」 左側には 「香舂峠 永正九 八月廿二日」と明記されている。 

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前回は三本杉に出たが、今回は一本杉の傍を通り、高野町役場前に出て、帰る。



注  今は子継峠(粉撞峠とも粉突峠とも)が普通だが、室町時代は「香舂峠」と標記されていたことがわかる。
           
  
  この記録は 少し古いですが 新しいマップもでき 標識も増え 登りやすくなっています。 







  
      



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