2019年10月02日

私の足跡 218  カメラを持ってぶらり旅 2


    私の足跡  218   
                   
   
カメラを持ってぶらり旅 2 
 
 
 最近行った奈良の旅

 
   M氏の車に乗せてもらって矢田寺と鹿苑と写真美術館へ。

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長い長い石段を上がって境内へ。
   
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シーズン真っ盛りで花は私達を迎えてくれた。

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ご本尊はお地蔵 さんですので、あちこちで   石像のお地蔵 さんも私達を迎えてくれた

次に鹿苑へ行き、鹿の出産を見たいと思ってしばらく待っていたが、チャンスがなくあきらめた。(鹿苑とは、出産の近づいた鹿をここに集めて、出産と子育てをする所。また、病気やケガで弱った鹿を保護する所)。
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 親鹿からお乳をもらっている。
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生まれてまもない小鹿は体力がないから、すぐに木陰に入り、休んでいる。

最後に、奈良市写真美術館に行き、入江泰吉氏の写真を見せてもらい勉強した。
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入江先生の作品   「春めく二月堂裏参道」

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入江先生の作品   「親子鹿」


 M氏の車に乗せてもらって「奈良
燈花会」と「奈良国立博物館」へ

 先ず、昼食を採る。そこからは、若草山が良く見える場所だった。

 次は 奈良国立博物館へ。長蛇の列で有名な正倉院展で何回か来ているが、この時期は、空いていてゆっくりと見学できた。
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  奈良国立博物館の玄関
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第1室から順に巡るようになっています
館内には13の展示室があり、各室は、時代、サイズ、仏像の種類などで分けられています
大きなガラスケースに、如来や菩薩の立像や坐像が整列しています。

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 時間があるので、ゆっくり見学させてもらった。
 もうすぐ秋。正倉院展が始まる。館内にたからもの入るまでの長蛇の列。そして、館内で宝物を見る時の混雑ぷりを思い出す。
 見学後、館内の休憩所でゆっくりさせてもらう。

 
燈花会の開始時刻までには時間があったが、準備の様子も見たいので燈花会の現地に行く。
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   会場に到着したのは午後7時頃です。準備がやっと始まる所です。

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 灯りは 上のローソクです。以前 燈花会を観に来た時、鹿はこのローソクを好んで食し、体調を悪くしていると聞いたことがあったので、係りの人に現状を尋ねると「今は改良して、鹿に害を与えていないが、鹿はこのローソクを好んで食するので困る」と言っていた。

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 しばらくすると、人間も鹿も 、集まり始めました。

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 主催者も人手が多くいるのでボランティアを募集して、ローソクを入れる人・火をつける人と、手分けをして準備をしていた。

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 夕闇がせまり、やっと燈花会の雰囲気がが出てきた。

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 午後8時を過ぎると上記のような燈花が見られて最高だった。



 比曽山寺(現在の世尊寺の見学


 
比曽山寺(比蘇寺)の創建は、多くの謎に包まれていますが、聖徳太子の創建で奈良時代(8世紀頃)には、東西に塔を配置する薬師寺式の伽藍を整えていたと考えられます。
 空海もこの寺で修行をしたとも言われている。
 また、藤原道長もこの寺を経由して吉野へ行き、高野山へ参ったとも言われている。

 世尊寺境内には、本堂への参道の東西に東塔・西塔の塔跡の礎石が残されている。
 比曽寺の東塔跡に建っていたとされる、高さ約25mの鎌倉・南北朝時代の三重塔は、慶長2年(1597年)、豊臣秀吉によって伏見に移された後、慶長5年(1600年)、徳川家康によって滋賀県の三井寺に寄進されました。現在は国の重要文化財(建造物)となっています。

 なお江戸時代には寺名を世尊寺と改めている。今、史跡指定地には往事の堂塔は残らないが、土棺、礎石、古瓦によって、かつての寺院の規模をしのぶことができる。
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山門です。その門の遥か前方に中門が 見える。山門からは中門と本堂が一直線に見渡すことができることから、山門から中門までの距離があり、往時の寺域の広さがしのばれます。

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境内には、本堂への参道の東西に東塔・西塔の塔跡の礎石が残されている


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本堂です。

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寺の周辺は彼岸花が多く、カメラマンの集まる場所です。


 次は 滋賀県への旅です。




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2019年09月24日

私の足跡 217 カメラを持ってぶらり旅 Ⅰ

私の足跡  217

    カメラを持ってぶらり旅 Ⅰ 

 
高野山や橋本市の観光ガイド活動を約10年
携わってきましたが、年令も高まり、身体的
にも 肉体的も衰えたので引退した。
 身体が自由に動ける間に、行きたい所へ出
かけたりして悔いのない人生をと思い、元号
も令和に変わったのを機会に標記の旅を続け
ようと思っています。
 


令和元年 春
 
 京都へ 1   ツアーで東山燈花路
  

宇治の平等院鳳凰堂へ
 10円玉に1万円札、切手と、日本の代表的なものの
意匠に使われる平等院。平安時代の絢爛豪華な文化が
そのまま今の時代に伝えられ,、豪華で神々しさは印象
的だった
特にミュージアム鳳凰館の見学は良かった。
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この鳳凰堂の正面の黒っぽい所に丈六の阿弥陀様が祀られている。

次は 伏見稲荷へ
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 参拝者の思いがこもった鳥居は、いまでは境内全域
に約1万基が並ぶといいますから、驚きです!
 

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伏見稲荷大社に参拝。今回は「おもかる石] のある奥の院まで。
 一度一周4㎞の「お山巡り」をしたが今回はここまで。
 
 次は 今回のメインである東山花灯路だ。
高台院横の駐車場にバスを止め、約2時間自由行動だ。

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 各自 2時間の予定を立て、それぞれ出発。
 直ぐに 大きな八坂の塔(塔の高さでは 東寺 興福寺の塔にに次いで3番目) その右手の白い塔は京都タワー 

   先ず、二年坂・三年坂を通り、一番遠い清水寺まで歩く。

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 未だ、明るいためか、人出も少ない。
 しばらく、室内で時間を過ごして外にでると、すっかり日が暮れている。
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人の数が多すぎて、折角道端に置いた燈花が見えなくなり 残念だった。

集合の時間が近づいたので高台寺周辺の集合場所に移動する。そして、行列の来るのを待つ。
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上の写真のようにいろんな行列の最後に キツネの嫁入りがくる。これが通り過ぎれば集合場所へ。

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帰りもバスで 8時過ぎに京都を出て、家の近くに10時過ぎ到着。





京都へ 2   一人旅で桜を観る。
   
  行き先 京都の桜の名所と言えば数多くあり迷ったが今回は次の寺を選んだ。
 


  京都御所  

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広大な広場に 感嘆する。

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手入れの行き届いた見事なしだれ桜に感服

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 京都御所で初めて見る場所です。
 調べてみると 近衛家は 摂家の一つで、江戸時代末までに多くの人が摂政や関白になっています。


 
京都府 旧庁舎

 
あまり世間に知られていないが私は興味があり、見学することにした。
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 明治37年(1904)12月20日に竣工した。昭和46年まで京都 府庁の本館として、また、現在も執務室として使用されており、創建時の姿をとどめる現役の官公庁建物としては日本最古のものです。 平成16年(2004)12月10日に国の重要文化財に指定される。 ...
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当時の議場
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 知事室 自由に見学できた。

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皆が見上げて見ている枝垂桜を二階の廊下から見下ろして見る。

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一階の廊下から枝垂桜を見る。

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 建物の中から窓越しに見る桜

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 幕末に京都守護職に任命された松平容保の名をとり安保桜と名付けられているものです。
 
島桜と山桜の特徴を併せ持つ珍しい品種です
  

   東寺
  
京都で 私の一番好きなお寺・東寺へ。
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九条通りから 東寺の南大門と五重の塔を眺める。
東寺の正門であり、幅約18m、高さ約13mの規模で東寺の門の中で最大である。この門は慶長6年(1601年)に三十三間堂の西門として建てられたものを明治28年(1895年)にここに移築したものとされている。

  
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 東寺の伽藍配置図

 金堂 (国宝)
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南大門をくぐると直ぐに左の写真のような「金堂」を見ることになる。

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本尊の「薬師如来座像」を中心に、向かって右側に「日光菩薩」、左側に「月光菩薩」が安置されている。


 講堂 (重文)

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 講堂は天長2年(825年)空海によって着工され、承和2年(835年)に完成したとされているが、文明18年(1486年)に焼失した。現存する講堂は延徳3年(1491年)に創建時の基壇の上に再建されたものであるという。

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 壇上中央の如来部には「大日如来」を中心に五智如来、右側の菩薩部には「金剛波羅密多菩薩」を中心に五菩薩、左側の明王部には「不動明王」を中心に五大明王、四隅には「持国天」、「多聞天」、「増長天」及び「広目天」の四天王、両端には「梵天」と「帝釈天」、合計二十一躰の仏像が安置されている(左のコピー:東寺発行の拝観パンフレットより)。これら仏像の配置は弘法大師の密教の理想を表す立体曼荼羅であるとされている。
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上の図は「講堂」の立体曼荼羅二十一躰の諸仏像の配置を表したものである。左図で諸仏像名の青色字国宝緑色字重要文化財を表している。

五重の塔 (国宝)

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 五重塔は天長3年(826年)に弘法大師が創建に着手したことにはじまり、長年月をかけて完成したが、その後、しばしば火災に遭い焼失、再建を繰り返したようで、現存のものは徳川家光の寄進により正保元年(1644年)に再建したものとされている。
 塔の高さは約55m(56mとか、57mとかいう記録もあるらしい)で、現存する木造の古塔では日本一高いといわれている。
 一般的に重層の塔の屋根は上層に行くほど小さくなっているが、この五重塔の屋根は下層の屋根と上層の屋根の大きさに大差がなく、全体の形も良く、江戸時代前期の秀作とされている。
 こんなに高い塔が何度かの
地震にも耐えているのは耐震補強の工夫があるらしい。


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 東寺の講堂の東側に、瓢箪池という大きな池を中心とする回遊式庭園があります。その一角に、ひときわ目を引く大きな枝垂れ桜があります。

高さ13メートル、枝張り10メートルというとても大きな木です。樹齢も130年
この桜は、もともと岩手県盛岡市のある旧家で育てられていたのを、あちこち経由して、平成18年(2006) が、弘法大師入唐求法の旅より帰朝されて1200年の記念にあたることか
ら、この場所に移植されました。弘法大師の「不二の教え」から「不二桜」と命名されています。
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 この桜は「八重紅枝垂れ桜」というエドヒガン系の種で、色の濃い八重咲きの桜です。移植可能な桜としては、国内最大級のものです 


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上記のような特殊なトレーラーに乗せ、夜中に鈴鹿を出て、早朝6時に無時京都着。

 東寺の桜は これ以外にも沢山あり、見事でした。 


仲間4人と京都へ

 
50年程前 ある職場で同勤していた、4人の平均年令約85才が 各地で客を乗せて

観光地を回るツアーに参加した。年配なので家の近くで乗せてもらい、家の近くで降ろせてもらえるのでラッキーで私達も参加して 京都へ行って来た。

 最初は高尾を流れる清滝川のほとりの料亭の川床に行く。そこからの見事な清滝川の
景色を眺めながら豪華な京都の味わいをいただきました。

 その後、栂尾にある古刹の高山寺へ。バスで移動中 昨年の台風の傷跡があちこちに見えた。高山寺も被害の所もあったが国宝『石水院』等は無事で見学できた。

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 高山寺は京都市右京区栂尾にある古刹である。世界遺産。

創建は奈良時代に遡るともいわれ、その後、神護寺の別院であったのが、建永元年(1206)明恵上人が後鳥羽上皇よりその寺域を賜り、名を高山寺として再興した。
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国宝『石水院』  明恵の住房跡であるとも伝えられている、 
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善財童子
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 鳥獣戯画とも呼ばれ親しまれている国宝・鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)。
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 日本最古の茶園
 高山寺を有名にしているのは、  デュークエイセスの唄「女ひとり」にも歌詞の中に登場しています。
♪京都ぉ~栂ノ尾(とがのお)高山寺~♪…と
  次は 竹林散策か嵐山に分かれての自由時間。
 私達は 竹林散策へ。 

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 竹林散策といえば 上記の風景。 
 帰りは、家の近くでバスを降ろしてもらったので早くて楽な旅でした。

 以上で京都の春の旅をおえます。
 次は奈良の旅です。




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2019年07月01日

私の足跡 216 空海の足跡を辿る 6

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私の足跡  216 


    空海の足跡を辿る 6 

 
  弘仁七年(816)

 唐から
帰国して10年 年令も43才になった
 今まで密教布教の機縁の熟するのを待って、空海は
本格的な密教宣布活動に着手した。
文字通り「雌伏十年」である

 先ず、その年の6 月19日 朝廷に「密教を実践する
修禅の道場の建立地として高野山(現和歌山県伊都郡
高野町)の下賜」を願い出た。


 朝廷に上奏した文面(性霊性集補闕鈔」によれば「吉
野より南に行くこと一日にして、さらに西に向かって
去ること両日程、平原の幽地あり、・・・・・四面、
高嶺にして、人蹤蹊 絶へたり」」という。
    (空海は若い頃 山林修行中に見つけていた所)

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 (高い山に囲まれて、盆地のの中に…大門・伽藍
・金剛峯寺がある。)

 簡単に言えば、高野山はまわりを高い山々にとりま
かれながら、かなり広い平地をなしている。 
具体的
にいうと、この地は、東西5・5km  ×南北2・2km
の広い平地で、高野山の東半分には、奥の院 西半分
は金剛峯寺と根本大塔をはじめ、壮大な伽藍を林立さ
せることができる。
 そして、この平地の周囲を標高約一千mの八つの峰
(八つの神仏 )がとりまいている。

 

 建立の目的は、一つは鎮護国家を祈る道場として、
いま
一つは仏道修行者の道場として密教寺院を建立
すること
です。
 これは、「私の足跡  216」にも書いているが、帰国
時の大嵐にあい、無事に帰らせて欲しいと願った時に
下記のように祈っている。
 ・・・・帰朝の日、必ず諸天の威光を増益し、國界を
擁護し、衆生を建立利済せんがために、一の禅院を建立
し、法によって修行せん。願わくは,善神護念して、早く本岸
達せしめよ」

 朝廷に下賜を願い出て、1か月以内(78)
に朝廷
より、勅許され た。

 
伽藍建立の場所として、高野山を選んだ理由とし
ては
  禅経の説に准ずるに、深山の平地尤も修禅宜し

 
すなわち、密教教論に説かれる密教修行の場所に
一 番適した所 であったからである。
 そして、「金剛頂経」の一部にも
一 密教の行に相応しい場所である。
  ① 「清らかな水が湧き出ていて、そこに足を運
      ぶとおのずと心が楽しくなる池・沼・川のほとり
  ② 毒蛇・毒虫等によって修行の妨げられない所
  ③ 耳障りな音声・雑踏等が聞こえない所 等

 二 きわめて霊的な場所
   高野山は インドの霊鷲山じゅせん
 補陀落山のような
      霊地によく 似ている


  7
月8日に朝廷より、勅許されると空海は直ちに
   弟子の実恵と泰範を高野山につかわした。整地作業
   の
ためであった。
  作業がほぼ完了した  弘仁九年(818)十一月、空海
   は
勅許後初めて 高野山に登り、檀上を結界し、伽

   配置を定めた

      これは、空海独自の密教理論にもとずく伽藍形式
 であり、大自然のなかに堂塔をもって密教空間を創
 り出そうとした。
     7 月8日に朝廷より、高野山に伽藍建設を勅許さ
 れたが、これはあくまでも空海の私寺だから、
 建設費用などは全て空海が工面しなければなら
ない。
 多分費用工面のため、地方の豪族等に頭をさげ
資金集めをしたと思われる。
  

    
弘仁十二年(822) 5月

 長い間、ため池の堤防の決壊のため、苦しんで
いた。「百姓恋ヒ慕フコト父母ノ如シ」(人々が
空海を実の父母のように慕っております)と讃岐
の人々の請願
で 讃岐の国満濃池の修築別当を
引き受け
、地元の農民たちの懸命の働きで三ヵ月
余りで築堤工事を完成させた。

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 満濃池は香川県にある農業用としては日本最大
のため池です


 この工事で、堤防が内側にせり出したアーチ状
であった。

 
弘仁十三年(822) 3月
 
  南都仏教を代表する東大寺に灌頂道場(真言院)を
建立し、息災・増益の法を修することを命ぜられ
た。(この頃 平城上皇に灌頂を授けたらしい)
 
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     真言院南門 
 真言院の完成は承知三年(836)頃だった。
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        灌頂堂
 ともあれ、この真言院の建立命令を持って、真
言宗が国から公認されたとみなされる。

 天長元年(824)3月
 少僧都に直任され,、同6月には造東寺別当に任ぜ
られた。(大僧都には天長四年(827)5月任ぜられる)
 この別当補任を持って東寺の建設・運営に自ら
の考えを反映させるようになった。(異説アリ)
 このことは、天長2年(836)5月5日付の青龍寺に
あてた実恵等書状に
 天皇皇帝、譲りを受けて践祚するに及んで・・

・・帝城東寺を以って真言の寺となし
  (嵯峨皇帝の譲りにより、弘仁14年(823)4月16日
淳和天皇が即位した後で、都にあった東寺は真言
の寺になった)と記すことが傍証となる。
 教王護国寺に真言宗の僧のみ50人を常住させ、
密教を専ら学修することになった。
 東寺は着工してから約30年たっていたが、おそ
らく伽藍の半分もできていなかった。

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  伽藍配置はすでに決まっていたから建物による
密教空間を創り出すことはできなかった。
  (東寺の密教建築の堂宇は、わずかに灌頂院だけ
である。

 空海は密教世界を表現するために、堂内の仏像
の安置に工夫をこらした。

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講堂にある21体からなる立体曼荼羅と五重の塔に
安置の密教像である。


 天長五年(828)12月 
   綜芸種智院を創る。
 この学校の特色は
  ① 僧侶・貧富・貴賤の別なく入学できる。
  ② 教師・学生に衣食を支給する。
  ③ 仏・儒・道の三教の教授
 空海の経験にもとづく理想的な教育理念であっ
た。しかし、実態は不明です。

 天長七年(830)
  淳和天皇の勅に応え、空海の思想を集大成した
十住心論』
十巻 『秘蔵秘宝鑰』三巻を撰述した。
 ここには、悟りを求める心(菩提心)の発展過程を
本能のままに生活する状態から宗教心が芽生え、
それがやがて小乗から大乗仏教へと進み、最高の
教えである密教に至る、十住心思想が説かれてい

る。

 天長九年(832) 8月
 
高野山での最初の法会・万燈万華会が修され、
 虚空尽き、衆生衆尽き、涅槃尽きなば、
    涅槃尽きなば、  我が願ひも尽きん
との大誓願が立てられた。
 のちにこの誓願は、入定留身信仰のよりどころ
  された。

 承和元年(834) 
   空海は この年から高野山に隠棲し、没後のこと
を慮り真言宗、東寺、高野山の永続化に向けて以
下の事を願い出て、勅許された。
 ① 毎年正月に行われる御斎会の期間に宮中で
真言法を修すること。
 ② 東寺に三綱をおくこと。
 ③ 東寺に僧供料を置き修講すべきこと。
 ④ 真言宗に年分度者を養成すること。
 ⑤ 金剛峯寺を私寺から官寺に准ずる定額寺と
   すること。


 そして、空海は、承和二年(835) 3月21日
 この時点では、高野山は堂宇の建設もままなら
ず(定額寺になったのは1年前)、きびしい自然の中
において静かに62才の生涯を閉じた。

 (空海の死の前後については、司馬遼太郎氏作の
『空海の風景』に詳細に記されています。)


 後世おこった入定信仰にもとずき、空海の最期
入定と称している。
 延喜二十一年(921)10月27日、醍醐天皇は東寺長
者 観賢の奏請に応えて、空海に「弘法大師」の
諡号(死後に贈られる称号)を贈った。
 その報告のために高野山に登山した観賢は、奥
の院の霊窟を開いて禅定の姿の空海を拝し、天皇
から下賜された衣を着せたという。
 このころから、空海は高野山に生身をとどめ、
いつもわれわれを救済し見守り続けているとの入
定留身信仰が起こった。これは高野山の浄土信仰
とともに喧伝され、藤原道長・頼道親子、白河・
鳥羽上皇をはじめとする貴顕の荒野参詣を誘発
し、今日の高野山を形成をする原動力となった。
 これが、四国八十八ケ所巡礼の「同行二人」(一
人で霊場を巡っているときも、ただの一人ではな
く、いつも空海が寄り添い守ってくれている、と
の信仰)とともに1200年ほど前に永遠の修行に入っ
た大師信仰の根幹をなしている。
 私も 200年に四国遍路を 大師との「同行二
人」で参らせていただき、無事に回り終えること
ができました。ありがとうございました。

同行二人」と同じような行事が今も残っていま
す。
   
 k025001[1] 

 奥の院では、1日2回、お大師様に御膳を届ける
「生身供」が行われています。
 お膳のみならず、毎年法要の時に御衣を献じて
います。 

                

P11605511[1] P11605541[1]
 日々のお大師さまが、奥の院から姿を現して縁
のあった場所を巡りながら人々を助けている」と
いう意味です。


 上記の行事は全て、空海は高野山に生身をとど
め、
いつもわれわれを救済し見守り続けていると
という入
定留身信仰からのものです。 

   


             完



drecom_yama_ya617 at 14:47|PermalinkComments(0)空海の足跡